ちょっと汗ばんだ音々音の前髪に指でふれる。
たまには起きがけに、あどけない寝顔を眺めてみるのもいい、と孫策は思った。名目上の飼い主さまである恋は、音々音を挟んだ向こう側でまだ夢の中を彷徨っている。西涼を騒がせていた暴威。戦場から遠ざかれば、気の優しいひとりの女でしかなかった。ただし、飯の食いっぷりに関しては、常人から完全にかけ離れているのだが。
気が向いたから、今日は一緒に寝てやってもいい。
枕を持参してやってきた音々音から、そんな提案を受けていたのだ。断る理由はどこにもない。それで、昨晩は親子のように川の字になって眠った。
「ん、うみゅ……」
自分に抱きつくように寝返りをうち、音々音がかわいらしい声を洩らした。心地のいい体温。感じていると、寝台から出るのが嫌になってくる。
軽く音々音を抱きしめてみる。
小さな身体。縁者はどこにもおらず、恋だけを頼りに今まで生きてきた。天運に見放されていたら、きっと自分も孤独に原野を放浪していたのだろう。それはそれで、まったく別の出会いを生んでいたのかもしれないが。
ぼんやりと考えていたところで、目覚めた音々音と真っ向から眼があった。小さな身体に動揺が走る。抑え込むように、孫策は抱擁の力をわずかに強めた。
「んっ、んうぅ……。あ、あまりぎゅってされると、暑苦しいのです。は、はなせぇ、この……」
「仕掛けてきたのは、おまえのほうだ。恋が起きるまで、ずっとこうしてやる」
「んむむ……。これが、ちんこの化身のやり口なのですかぁ。まったくもって恐るべし、なのですぞ……ぉ」
なんだかんだで、音々音は離れるつもりがないらしい。寝起きで元気になったモノの存在。こんな状況であるから、一応隠蔽のための努力だけはする。自分は理性を捨てたけだものではない、つもりだった。
二人してまどろみの時間を愉しみ、恋の起床を待つ。
洛陽で過ごす最後の一日。その幸先は、いいように思えた。
†
これでしばらく、王都とはお別れとなる。といっても、なにか特別なことをするわけでもなく、孫策は昨晩からの流れのまま、恋と音々音を連れて散歩に出かけていた。
音々音のはしゃぐ声が頭上から聞こえる。
調子に乗って肩車の提案をしてみたところ、これが案外すんなり受け入れられた。以前は小蓮にもしてやっていたのだが、近頃は恥ずかしがってやらせてもらえない。そういう意味では、音々音の態度は余程素直だといえる。
「ふふっ。ねね、とっても愉しそう。一刀と仲良しになってくれて、ちょっと安心」
「むむむ……。これは別に、そういうことではないのです、恋殿。ご主人が是非ともやらせてくれ、と懇願してくるから、ねねとしてもですねぇ……」
そんな会話をしながら、人通りの多い大路を闊歩する。
時刻は昼に近づいているから、そろそろどこで飯にするか決めておくべきだった。片田舎とは違い、時間帯を間違えると洛陽の店はどこも混雑する。
「あっ。あそこの黄色い看板のお店なんてどうでしょうか、恋殿」
「麺屋三郎……。んっ……、お腹いっぱいになれるんだったら、恋はどこでもいい」
「では、決まりですな。早速向かうのですぞ、ご主人」
言いながら、音々音がぺちんと後頭部を叩いてくる。
呼び名とは裏腹に、これではどちらが主人なのかわからなくなってくる。ほほえみかけてくる恋の存在が、せめてもの救いだといえるのか。
音々音の小ぶりな尻に少々の反撃を加えてから、開店前の軒先に陣取った。準備中とはいえ、食欲をそそる匂いが中から洩れてくる。敏感に反応した恋の腹が、ぐぎゅるる、と盛大に鳴り響いた。
「ニンニク入れますか?」
「……ニンニク、ヤサイアブラマシマシ。一刀たちも、同じでいい?」
「いいはずがあるか。というか恋、おまえも結構物知りなのだな」
「……こうやって答えたほうがいいと思ったから、なんとなく。ごはん屋さんの注文は、戦場と一緒」
「さすがなのです、恋殿。常在戦場の気高い精神、ねねも見習わなくてはなりません!」
ふう、と息を吐いた恋が腕で額を拭う仕草をする。謎の充実感を漂わせているが、これは単にラーメンを注文しただけに過ぎない。
恋が頼んだ特大の一杯を準備しているのか、すり鉢にしか見えない器が奥から運び出されてくる。これを使う客はほとんどいないのか、店員のほうにも気合が入っているようだ。
はじめての店で量がわからないから、と音々音は一番小さいものを選んでいる。そのあたりの慎重さだけは、軍師らしいと評価してやってもいい。
「いただきます。んじゅっ、ずるっ、じゅずるるるっ」
二人がかりで運ばれてきた山盛りの麺に、恋が箸を突き立てた。うず高く積み上がった野菜の城壁。猛然と崩しつつ、恋は汁に浸かった麺をかき出している。
まさしく、戦場の様相だった。ニンニクの染みた旨味の強い汁をすすりつつ、恋の闘いを見つめる。それだけでも、腹がはち切れそうな気分になった。
「あむっ、むっ……。んぐっ、じゅるるっ」
「はへぇ……。ねえ、愛紗。鈴々も、あれ食べたい」
「うぐっ……。私の持ち合わせが少ないことくらい、おまえも知っているだろう。ほら、帰るぞ鈴々……っ」
「えー、やだやだー! 鈴々、お腹が減ってもう一歩も動けないの。絶対、絶対無理なのだぁ」
「むぐぐ……。どうでもいい場面で、馬鹿力を発揮するのはやめろ! さあ、はやくぅ……!」
ラーメンの匂いにつられてやってきた少女がひとり、よだれを垂らして恋の食いっぷりを眺めている。
背丈は入口にかかる暖簾よりも小さいが、膂力はかなりのものらしい。知っている声に気づき、孫策は箸を置いて振り返った。
黒髪の美しい女。そこにいたのは、劉備の義妹である関羽だった。小さいほうにも見覚えがある。三姉妹でも一番下の妹で、張飛というはずだった。
「ともに闘ったよしみだ。この場くらい、俺がなんとかしてみせよう。さっ、張飛殿」
「ほ、ほんとにいいのっ!? えへへっ。やったー、なのだ!」
「むっ……。安請け合いしても平気なのですか、ご主人。恋殿ほどとはいいませんが、ねねはなんだか嫌な予感が」
「覚悟を決めたら、あとは前に向かって進むだけだ。怖気づいていては、何事も為せはしないぞ、ねね」
たまたま空いていた隣の席に、張飛が軽やかに飛び乗った。元気印の虎の髪飾りが威勢よく吼えている。
友誼を結ぶための金なのだ。惜しむ意味など、どこにもないと孫策は腹をくくっていた。
「やっ……。ほんとうに、なんと礼を申せばよいものなのか。孫策殿。図々しいわが妹のこと、どうかお許しください」
「気にすることはない。この程度、関羽殿に貸しをひとつ作れると思えば、安いものだ」
「んっ……。恐ろしい言い方をなさる御方だ。ですが、心に留めておきましょう。姉上にも、しかと」
「はははっ。どこまでも真面目なのだな、関羽殿は」
無心に麺をすすっていた恋が、ちょっと意識を横に向けた。張飛が注文したのは、同じく超特大の一杯なのである。それで闘争心に火がついたのか、一度に箸で持ち上げる麺の量が明らかに増えた。転がる丸太のような豚にも、凄まじい勢いでかじりついている。
「……店員さん。同じものを、もう一杯。今度は、生卵も一緒に」
「うえっ……? ものすごい食欲をしているのですね、孫策殿のお連れの方は。張飛以上に食う人間などこの世に存在しないと信じておりましたが、これは……」
「んぐぐぐぐっ……! お兄ちゃん、鈴々も追加で同じラーメン食べてもいい? ねっ、いいよね?」
一度乗りかかった船だ。こんなところで、尻込みをするわけにはいかなかった。
表情を青くしている音々音をよそに、孫策は力強く頷いてみせた。それで、張飛がぱっと笑顔の花を咲かせる。
二人とも、華奢な身体のどこに大量の麺を収めているのだろうか。ささやかな疑問をものともせず、湯気を吹き払い麺が胃の中へと消えていく。
そうこうしている内に、新たな客がやってきた。
濃密な匂いの充満する店内に、似つかわしくない凛とした声が響く。
「ふうん。妙なところで出会うものね、あなたとは。評判を聞いて食べに来たのだけれど、今日はやめにしておこうかしら」
「なにを遠慮することがある。食っていかれるといい、曹操殿」
「ちょっと、気軽にふれないでちょうだい、私に……! もう、子供じゃないんだから、椅子にくらい自分で座れるわよ。はあ、まったく……」
妙に熱くなった空間の中に、妙な女がさらに加わる。きれいに巻いた金髪を揺らして、曹操が関羽の横に腰を降ろした。
これだけの面子が一堂に介することなど、まずあるまい。ただし、恋と張飛の二人は相変わらず一心不乱に麺に食らいついていて、曹操の存在に気づいてすらいなかった。
「ふふっ。関羽が同席していることだけは、喜ばしいわね。私、戦場で見かけたときから、あなたに惚れているの。気が向いたら、いつでもいらっしゃい。劉備よりも、かわいがってあげるわよ?」
「ひっ……!? い、いえっ、それだけはどうかご容赦を。それに、曹操殿の御麾下には、すでに数多の武人がいらっしゃるではありませんか」
「あら、それは残念。けれども、美しい珠はいくらでも持っていたいものなのよ。ねえ、孫策?」
「その意見には、同意しよう。荊州に参れば、顔を合わせることがいくらでもあるはずだ。そのときはよろしく頼む、関羽殿」
「は、はい? それは、こちらこそ」
すべてが、穏便に進むとは考えてはいなかった。どこかで、この関羽とも刃を交える機会があるのかもしれない。幸せそうに麺をかきいれている張飛にしても、それは同じだ。
「ふんっ……。肉屋にうまく取り入ったそうじゃない、あなた。どれだけ高い地位にあろうと、所詮は一匹のメスね」
「そうでもないさ。ただ、メス犬の飼育には少々自信がついてきたのでな。曹操殿にも、礼を申しておかなければ」
「ちっ……。それ以上言ってみなさい、この場であなたの首を刎ねてあげるから。そうでなくとも、お礼は私のほうからたっぷりとしてあげる。徹底的に痛めつけてあげるから、愉しみにしておくことね」
「えっ、あのっ、お二人とも……?」
事情を知らない関羽を間に挟んで、孫策と曹操が眼に見えない火花を激しく散らす。
洛陽最後の食事は、予想外に様々な意味で思い出深いものとなった。
†
最後のひとつを荷馬車に積み込む。義母はとっくに支度を終えていて、遅れている祭の尻を文字通り蹴り上げていた。
「おったおった。おーい、一刀」
「なんだ。見送りにきてくれたのか、霞? それとも、やはり俺たちとともに行く気にでもなったか」
「いんや、それはちゃうって。ほら、ウチってこれで真面目な性分してるやん? せやから、引き継ぎとかきっちりやってからやないと、職務を離れたくても離れられないんやなあ」
見慣れない馬を一頭引き連れて、霞がひとり歩いてきた。
最後まで誘ってはみたのだが、簡単に翻意するつもりはないようだった。しばらく洛陽で過ごしたのち、霞は正式に孫家に合流する予定になっている。それならそれで任せたいことがあるから、ちょうどよくはあるのだ。
「何進周辺に、よく眼を光らせておいてくれ。ただし、動くのは死の危険があると判断してからでいい。そのあたりのことは、おまえの裁量に任せる」
「面倒ごと押しつけてくれるなあ、簡単に。んでもって、こいつなんやけど」
霞が手綱をぐいっと差し出す。
どうやら、この馬は自分にということらしい。雪華がいるから欲しいとは思わないが、体格がよく毛並みも悪くない。それなりに値の張る馬であることには、違いはなかった。
「大将軍が、あんたにって。なー、貰ってくれへんかなあ、一刀?」
「ははっ。突き返してこい、こんなもの。ついでに、一言付け加えておいてもらえるか、霞。どうせなら、丸々と肥えたメス豚を孫策が所望していた、とな」
「あははっ。なんやねん、それ。まっ、一応了解しといたる」
おおよその意図を理解したのか、霞は心底おかしそうに笑う。
自分の返事を受けて、何進はどのような反応を示すのか。それを確認できないことはいささか残念ではあるが、つぎに見えるまでの愉しみにもなる。
「さらばだ、洛陽よ。全軍、出るぞ」
義母による出立の号令が聴こえる。
孫策は雪華に飛び乗り、手を振る霞に右手を高く差し上げた。