久しぶりにきた、兄からの知らせだった。逸る気持ちを抑えきれず、蓮華はほとんど駆け足となって執務室に向かう。
前回の知らせがあったのは、二ヶ月ほど前のことだ。
西涼の叛乱を鎮圧したから、褒美をもらって呉郡に帰る。
あちらでは、董卓や馬騰といった現地の実力者の協力を取り付けたようだった。そこの部分だけ兄の筆が躍っていたから、おそらくどちらも好みの女性だったのだろう。余人ならばいざ知らず、自分であればそうした裏にある感情まで読み取ることができる。
そこからしばらくの間、兄からの音信が途絶えた。
用事を済ませたら帰るといっていたのに、そんな気配が少しもなかったのである。洛陽でなにかがあった、としか思えなかった。もしくは、時間をかけて行う必要のある根回しをしているのか。
執務室に入ると、軍装のままの明命の姿があった。雷火、粋怜といった宿老にも参集を呼びかけてある。二人は公私どちらの立場においても、兄のことが気になっているはずだった。
「よくもどった、明命。みな、息災にしておられるのだな?」
「はい、蓮華さま。長らくお待たせしてしまいましたが、ようやく呉郡に帰ることが叶った次第なのです。ふふっ。一刀さまも、早く蓮華さまを御自分の腕で抱きしめたい、と仰っておいででしたよ」
「むっ、んんっ……。そこまで個人的なことは、この場で申さなくともよい。それで、明命?」
「あははっ。そんなに恥ずかしがらなくてもいいんですよ、蓮華さま? 若殿に会えない寂しさは、私も雷火も十分に理解しているんですから」
「余計な口を挟むでない、粋怜。若殿からのご報告、今は心して聞けばそれでよかろう」
粋怜のからかうような口調を、雷火が厳粛な態度で打ち払った。
歳の離れた姉、といった感覚を粋怜にはもっていた。雷火よりも内外のことを気軽に相談できるし、本職である軍事に関しては特に頼りになる。雷火は政治分野における師匠としての色が強く、身内であっても心してかからねばならない相手でもあるのだ。
「洛陽におわす大将軍さまより、炎蓮さまを長沙太守に任ずる、というお達しがくだされました。一刀さまは、南陽袁家の姫君とも関係を築いておいでです。それで、荊州牧とも互角に渡り合うことが可能になる、と」
「そうか。ついに、孫家の荊州進出が叶うのだな。それにしても、あの袁家に取り入る手腕、さすがに兄上だと言いたいところだが……」
「ご心配めされるな、蓮華さま。直に対応なさった若殿が、これはいけると判断されたのです。事実、南陽袁家の助力を得られれば、これほど心強いことはありますまい。孫家の取れる戦略の幅、一気に拡がることにもなりましょう。……虎の乳で育まれた狼なのです、あの御方は。その感性の鋭さに、われらは幾度となく驚かされてまいりましたからな」
「小蓮さまも、袁術殿とは懇意になされているくらいですから。えへへっ……。呉郡に帰るにあたり、お土産までたくさんいただいてきたんですよ、蓮華さま? なんでも、おすすめの蜂蜜を一刀さまにも好きになってもらいたい、と袁術殿はお考えになっているようでして」
「そうなのか? まあ、なんといっても兄上の面倒見のよさは天下随一であるからな。妙に懐かれたとしても、特段不思議はない、か」
袁術に関して、これまであまりいい評判を聞いてこなかったから、少しばかり不安があったのだ。ただ、あちらはもうひとりの巨頭である袁紹に比べて年若く、なにかのきっかけで転ぶ方向が変わることもあると思えた。
もとより、兄の鑑定眼を疑うつもりはない。
明命の言ったように、実際に接してみてよい感触を得たのであれば、自分はその感覚を信じてついていくだけだ、と蓮華は決心していた。
「よし。長沙赴任が決まったのであれば、早速身支度をしておかなければな。故郷を離れる寂しさはあるが、これもすべて」
「はっ。それでは、このあとわしから文官らに指示を与えておきましょう。蓮華さまのお力添えもあり、使い物になる手駒は格段に増えておりますからな。揚州と荊州では勝手が違ってくるでしょうが、対応は可能なはずです」
「兵士のみんなにも、事情を話しておかないとね。こっちに残りたいって者が、少なくはないだろうし。まっ、そのあたりの調整は、大殿たちが帰ってきてからになるんだろうけど」
「よろしく頼んだぞ、二人とも。万事支度を整え、われらは荊州に向かう。ほんとうの闘いは、ここからだ」
意気込みを伝えると、雷火と粋怜が拱手をして返してきた。
明命と二人になってから聞かされたことだが、結局思春はあれから西涼まで出向き、兄と主従の契りを結んできたらしい。どこまでも実直で、兄のことが大好きな幼馴染だ。その行動力には、頭が下がる思いである。
自分が少々焚きつけたからだとはいえ、そちらもうまく纏まったことに蓮華は安堵していた。
†
十日ほどの後、兄たちが本拠に帰還した。城門の外で出迎える蓮華は、その姿が見えるのを今か今かと待ち望んでいた。
出ていったときから顔ぶれがほぼ変化していないのは、叛乱軍との戦がうまくった証拠なのだ。明命から聞かされたことだが、それ以上に兄は麾下を増やしているようだった。そのすべてが女性であるあたり、兄が個人的にも抜かりのない旅をしてきたことがよくわかる。
「あっ……。お帰りなさいませ、兄上」
「元気にしていたか、蓮華。想定よりも長く家を空けたこと、申し訳なく思う」
見たことのない軍馬に跨り、兄が眼前にまでやってきた。これまで乗っていた一頭は、遠く離れた土地で役割をまっとうしてきたのだ、と蓮華は思う。
新しい馬には威風があり、舞う雪のような模様が美しかった。下馬した兄が、ゆっくりと歩み寄ってくる。怪我らしい怪我はしていない。思い切って胸に飛び込んでみると、太い腕に抱きしめられた。
「んっ……。苦しいです、兄上」
「ただいま、蓮華。ずっとおまえを抱きしめたくて、この二三日、眠りが浅かった」
「恥ずかしいです、兄上。んっ、んむっ……」
周りの眼があることを憚らず、兄がいきなり唇を吸ってくる。
懐かしい、とさえ思える感覚だった。これまでの時間を取り戻すように、自分からも唇を食む。兄を間近で感じているだけで、全身が熱くなった。
「ハハッ。いきなりおっぱじめてくれるじゃねえか、クソガキども。まっ、オレが許してやる。今日は、存分に一刀のやつを使うといい」
「もう、母さまったら……。んむっ、んっ、はあっ、んあっ……」
母に見られていようと、兄の勢いが衰えることはなかった。
熱くなった舌が、強引に唾液を飲ませてくる。軍装を身に着けていてもわかるくらい隆起した下腹部のモノ。それが、腹のあたりに押し付けられていた。
「あ、兄上っ。んっ……。お、おちんちん、こんなところで大きくされてはいけません。はむっ、ちゅっ……。あとで、たくさん気持ちよくして差し上げますから、あんっ……」
ちょっと周囲に視線を移す。いくつかの知らない顔が、自分と兄との行為を食い入るように見つめていた。
さすがに、羞恥の感情が強くなってくる。猫耳の外套を着ているひとりは特に興奮しきっているようで、明らかに息が粗くなっている。なんとなく危うさを感じて、蓮華はどうにか唇を離した。
「あ、あの、兄上……?」
「ン……。躾のなっていない飼い犬で済まない、蓮華。桂花、わが妹に挨拶を」
「はあっ、はっ……。は、はいっ、ご主人様! 私は荀彧、字は文若と申します。はしたないメス犬の分際ではありますが、ご主人様のご厚意により、軍師の任を賜ることになりました。是非とも、桂花と真名でお呼びくださいませ」
「め、メス……犬? んっ、こほん……。わが名は孫権、字は仲謀である。真名は蓮華だ。兄上のことよろしく頼むぞ、桂花よ」
「はいっ、蓮華さま!」
まだひとり目だというのに、人物の濃さに胸焼けがしてくるようだった。
思春は麾下を纏めるために一旦本拠にもどったのか、ここにはきていないようである。幼馴染との再会も愉しみのひとつではあったのだが、長沙に入ればそれも叶うはずだ。
「あははっ……。なんだかごめんねー、妹ちゃん。荀彧ってば、前はこんな子じゃなかったんだけど、一刀がいろいろと壁を壊すから……。っと、私は太史慈。気軽に、梨晏って呼んでくれて構わないから」
「え、ええ……? んっ……。それで、梨晏はどういった経緯で、兄上に?」
「んーと。私の場合大したことじゃないんだけど、一刀との勝負に負けちゃってねえ。それまで男の人なんて知らなかったのに、一晩中好きにされて、今じゃこの通り」
「あ、兄上、旅先でなんてことを……」
梨晏と名乗った女性が、兄に手籠めにされた時のことをおかしそうに語る。
兄はどこにいようと、兄だということなのだ。居場所の関係なくぶれないその強さは、頼もしくはある。ただ、この短時間に聞きたいことが山ほどできてしまってはいるのだが。
「いやー、こっちの呂布なんてもっとすごいんだよー? 一刀、下手したらあそこで殺されててもおかしくなかったんだし。天運があるんだね、きっと。やっ、というか性欲が強すぎるせいで、死んでも死にきれないだけなのかも?」
「本気でぶつかったから、恋は一刀についてもいいと思った。あれで死ぬようなやつに、恋のご主人様はとても無理」
「その崇高なご理念、さすがは恋殿なのですぞ。しかーし! 深紅の呂旗が味方するかぎり、孫家の勝利は約束されたも同じこと! これよりは、大船に乗ったつもりでどんと構えておられるとよろしい!」
「調子のいいこと言っちゃって。その味方してもらってた叛乱軍は、きっちり滅ぶことになったんだけどねぇ……」
「ぐぬぬ……! 余計なことを申すな、なのですぞ! ほら、ご主人もなにかいってやってください!」
「耳もとであまり怒鳴るな。鼓膜がきんきんする」
これだけ個性的な面子が集合しても関係性が崩壊していないのは、兄の力量あってのことなのだろうと思う。ただの女好きとはわけが違う。そういう均衡の取り方に、兄は図抜けた才能があるのだった。
孫家という括りをより大きくしていくためにも、その感覚は今まで以上に重要となってくる。母が兄を後継として定めたのも、武人としての器量どうこうよりもそちらに比重があるはずだった。
「積もる話がいくらでもある。今夜は付き合ってくれるな、蓮華」
「はい。兄上からのお召でしたら、私はいつでも」
蠱惑的なささやきだった。兄に手を取られ、蓮華は城内に向かって歩き出す。
普段使っている道なのに、なぜだか大きく光り輝いているように見えてくる。隣に立つ兄のほほ笑み。その特別さを、蓮華は改めて噛みしめている。