お気に入りの岩山から、漢中の曇り空をひとり見上げる。
空の色こそ澱んではいるが、流れる空気は澄み渡っている。深呼吸をしていると、心がすうっと落ち着くのだ。
五斗米道の信徒たちには、大切な瞑想の時間を邪魔してほしくないと説明してあるから、余計な横槍が入ることはなかった。そんなプライベートなスペースであるから、感じる気配は極一部にかぎられている。
岩山に座ったまま、天歌は身体を器用に反転させた。
天和ちゃん、地和ちゃん、それに人和ちゃんも。並んでいるのは、予想通りの三人の顔だった。
「またここにいたんだ、天歌ちゃん」
「いやー、なかなか落ち着ける場所ってないでしょ? ほら、私って霊験あらたかな教祖さま、ってことになってるし」
「なってるんじゃなくて、実際そうじゃない。天歌ちゃんの予言、いつもすごいなー、って思いながらお姉ちゃん聞いてるよ?」
「あはは……。まあ、なんというかアレはねえ」
「んへっ。んっ、にゃにひゅるのー?」
天和ちゃんのやわらかほっぺを指で上下左右にこねる。
かわいらしい非難の声に、心が癒やされる。この三人といる時だけは、自分は元の自分でいられるんだ。教祖としての地位にどれだけ慣れようと、やはり肩は凝る。分不相応な重荷に、心身ともに疲労を感じる。せめて、今が乱世の真っ只中でなければ、もう少し転移?転生?を愉しむだけの余裕があったはずなのだが。
「よかったじゃない、教祖さま。これで劉璋の軍が大人しくしていなかったら、今頃胃に穴が空いていたかもしれないわよ?」
「ぐぅ……。ごもっともな指摘です、地和ちゃん。でも、それはそれで、気になってる部分がたくさんあるんだよねえ……」
「そーなの? もう、予言持ちの教祖さまのくせに心配性だなあ、天歌ちゃんは」
「あはは……。そんなに万能じゃないからね、私のそれって」
劉璋の軍勢が一応大人しくしている理由。そこに、悩みの種があるといっても差し支えなかった。
当主本人は漢中を奪りたがっているそうだが、先代から引き継いだ軍師のひとりが強固に反対しているそうなのである。
新任州牧である劉璋としては、新興宗教が支配している土地をあるべき姿にもどし、おのれの力を示したい。そういった考えに至るのは、当然のことだった。漢中は中原への玄関口でもあるし、ここを奪取すれば益州の守りをかためやすくなる。劉璋の最側近たちはその考えに同調しているようで、漢中攻めの火は完全に消えているわけではなかった。
間者から、ひとり頑張っている軍師の名前を聴かされて、正直卒倒しそうになったことをよく覚えている。
諸葛亮。字は孔明だという話だから、なにかの間違いではないらしい。天候すら自在に読み切る劉備の軍師。主君を失ってからも魏軍との戦を続け、魂を燃やしきって天に召された蜀の丞相。そんなやべー奴が、どうしたことかすでに成都で職務に就いている。
有名人のみなさんが女性になっている時点で、まともな道をたどる歴史ではないことを理解しておくべきだった。それとも、自分という異質な存在が、時代によろしくない影響を与えてしまっているのか。
いいや、と天歌は
天和ちゃんたち三姉妹を助けたことが間違いだったなんて思いたくはない。だから、ここからはできるだけ穏便に、歴史に波風立てずに生きていく。
あとは英傑の方々がどうにかしてください。最側近となるはずの軍師がおかしなことになっている劉備さんに関しては心配になってくるが、自分にできるのは教祖らしく全力でお祈りすることだけだった。
「愉しんでいるところごめんなさい。天歌さんに報告しておきたいことがあるの、私」
「うっ、なにその嫌な予感のする顔は。はあ……。みんなの歌なら、喜んで聴いてあげるのにぃ……」
「報告事項。二つあるんだけど、どちらから話せばいいかしら。あまりよくないほうと普通なほう。どれを先にするかは、天歌さんの判断に任せるわ」
「ううっ、人和ちゃんのいじわるさんめぇ……。はあ……。とりあえず、なんでもないほうから先にお願い」
「んっ……。了解よ、天歌さん」
敏腕秘書といった印象のある人和ちゃんが、いつもしているメガネをくいっと指で一度あげる。
嫌な報告なんて聴きたくないなあと思いながら、天歌はどうにか覚悟を決めた。
「これはいつものことだけど、西涼からの商隊が、近々到着するそうよ。必要なものがあるのなら、担当に早めに教えておいてね」
「あっ、そうなんだ。季節が巡るのは早いなあ。教祖さまやってると、体感昔の三倍くらいのスピードで日常が溶けていくんだもん。はあ……。悲しいけどこれ、現実なのよね」
「はいはーい。お姉ちゃん、お化粧品が足りなくなってきたから仕入れておいて欲しいなー」
「だったら、ちぃの分も確保お願い! それから、向こうの美味しいものがあったらそっちも……」
「いいから、姉さんたちは少し黙る。よくわからない言葉と一緒に打ちひしがれているところをごめんなさい、天歌さん。忘れていたけどもうひとつ、孫堅が荊州に入ったそうよ。黄巾党にいた頃から、江東の虎の評判は何度も聴かされてきているもの。あの狂虎が劉表と協調路線を取るだなんて、私にはとても思えない。そう考えると、五斗米道にとってはいい壁になってくれるのかもね」
「んー、孫堅さんかあ。そっちのことも、ぼちぼち調べておかなきゃだねぇ……」
歴史が自分の知っている通りになるのであれば、孫堅は間違いなく劉表との喧嘩をおっぱじめる。
一大イベントである反董卓連合もまだ発生していないから、しばらく荊州に対する防備はあまり考えなくてもいいはずだ。というか、きっと孫堅さんも女性になっているんだろうなあ、と天歌はひとり物思いに耽る。
となれば、その子息である孫策、孫権の二人にも同様のことが起こっているのか。そこで、天歌はふとした疑念に襲われる。
「むむっ……? そうなると、元々女の子だった孫尚香の性別ってどうなってるんだろう……?」
「えっ? なにか言った、天歌さん」
「どうせいつもの独り言なんじゃないの? ねー、天歌ちゃん?」
「あっ……。天和ちゃんのむにむに、幸せ……」
決してみんなには伝わらない悩みを抱えていると、後ろから天和ちゃんに抱きつかれた。
われながら、もう生臭さ坊主などと軽口を叩くことはできないと思えてくる。だって、気持ちいいんだからしょうがないよね。それにこれは不可抗力。誓って、私は自分から手出しはしていない。
「まったく……。孫家の調査、私のほうから適当に手配しておくわね。それで、肝心の報告なんだけれど」
「ううっ……。ついにきてしまったのね、審判の時が」
「あははっ。なんなのよ、その顔は。ほんとおもしろいなあ、天歌ちゃんって」
地和ちゃんの明るい声が岩山に響く。そのスーパーポジティブなメンタルに、少しでもあやかりたいと天歌は思った。
「益州軍の抑え役になっていた諸葛亮だけど、つい先日失脚させられたそうよ。こうなったら、覚悟を決めるしかないわね。動いてくるわよ、確実に」
穏健派だった諸葛亮の失脚。史実から外れて動いている事象だけに、自分には読みようのない結末だ。
聴いた瞬間心臓が止まりそうになった、はっきり言って。
お姉さんのものとは打って変わり、人和ちゃんの声には無情で冷たい響きがあるくらいだった。
戦なんて絶対に嫌だ。けれども、教祖である自分が腹を括らなければ、すべてが崩壊してしまう。それを避けるためにも、私は。
「力を貸してね、三人とも。精一杯がんばってみるから、私も」
湿気を含んだ漢中の風が流れていく。
ざらつく岩肌の感触が、やけに刺々しく思えた。