雪華に騎乗し、孫策は麾下に向けて出撃の号令を飛ばす。
今回は自分が采配を振るう戦だから、誰に遠慮することもない。義母は後方から高みの見物を決めこむつもりのようで、完全に欠席する流れである。祭や粋怜も留守番組に編成されているから、付き従っているのは若手将校ばかりだった。
賊軍討伐の名目で長沙に入った以上、内政にかまけているわけにはいかなかった。
時間をかけて調略を行うべき相手でもない。となれば、速攻をかけて一撃で叩き潰すことだった。荊州に住まう者たちに、孫家の印象を鮮烈に植え付ける。単なる賊軍討伐以外の狙いも、間違いなくある戦なのである。
決戦の構えを見せ、賊軍討伐を声高に叫んでいれば、必ずや獲物のほうから進んで姿をあらわす。そうした読みが、冥琳にはあるようだった。
「孫策殿」
「これは、黄忠殿。此度の戦、よろしくお願いいたします。若輩者ゆえ、迷惑をかけることもあるかと存じますが」
「心配など、わたくしには少しも。劉備さんから、あなたの戦ぶりは聞いておりますので。こちらの軍勢に対する気遣いは不要です。ですから、孫策殿のお力、存分に発揮なさってください」
「心強いお言葉です、黄忠殿。あなたのような女性と陣をともにできること、嬉しく思います」
「まあ……、うふふっ。わたくしを褒めても、出せるものなどなにもありませんのに。それに、わたくしなどよりも、どうせならお若い劉備さんとご一緒したかったのではありませんか、孫策殿も?」
「ご謙遜を。あなたのように魅力的な女性と出会えただけでも、荊州にきた意味があると私は思っているくらいなのです。かといって、劉備殿に興味がないわけではありませんが」
「もう、いけない御人。けれど、正直者の殿方は、わたくしも嫌いではありませんけど」
そう言いながら、黄忠が上品にほほ笑んでみせている。
主君である劉表からの命を受け、黄忠は長沙の賊軍退治に援軍としてやってきている。その意図は明白だった。孫家の出方を確認し、有事に備えて内情に探りを入れておく。
いまは好きに泳がせておくだけだ、と孫策は大きく構えていた。冥琳たちにも、特に警戒して対応する必要はないと伝えてある。現段階の自分たちは、大将軍から与えられた職務を忠実に遂行する狗でしかない。
すでに親交のある劉備を寄越さないあたり、劉表の警戒ぶりが手に取るようにわかる。
黄忠は、劉表麾下でも重責を担う身であり、振る舞いにも余裕がある。年齢的には、義母よりもいくつか下になるのだろうか。女としての魅力にはまだまだ衰えがなく、大胆に開いた胸もとには、魔性の引力が宿っているのだ。小さな子供がいると話していたが、その子も間違いなく将来有望なのだろう。あの義母の血を引いているのだから、小蓮にしても焦る必要はまだ少しもない。
乳房に視線が向いていることに気づいたのか、黄忠が困ったように苦笑する。これだけ立派なものがぶら下がっているのに、見るなというほうが無理があるのだ。手淫を覚えたばかりの頃であったら、確実に夜の供にしていたはずである。
なにもなかった風を装い、孫策が話題を変えた。馬蹄が地面の土をたたく音が、耳に心地いい。
「ン……。それで、
「黄巾党の叛乱にうまく乗り、独自の勢力を築くことき成功した悪党、といったところでしょうか。零陵、桂陽の群衆も蜂起に賛同し、総数はいまや一万を越える規模となっている。それだけ、朝廷の在り方に不満を抱いている民衆が多いということなのでしょうね。無垢な民を傷つけたくはありませんが、ここまで大きくなられては、生易しいことを言ってはいられませんもの」
「西涼の叛乱でも、言い分は同じでした。朝廷がだらしないから、独立して自分たちだけの政を行う。しかし、それでは乱世は終わらない。むしろ、混乱は拡大の一途をたどるだけなのです。その過ちを繰り返さないためにも、……っと」
「孫策殿。でしたら、あなたは……」
「おっと。どうやら、少し喋りすぎたようです。私はどうにも、美人の前だと油断してしまうようだ。幼馴染にも、それでよく叱られているのですが、いつまで経っても癖が治る気配がないのです。はははっ。どうか、このことは御内密に」
「ほんとうに、悪い御人なのですから。知りませんわよ、どうなったって」
「覚悟の上です。これで潰えるくらいなら、私がその程度の男だっただけのこと」
それからしばらくの間、黄忠は黙り込んだ。
手応えはある。まったく見込みのない相手には、そもそも手を出す意味がないからだ。妹からも、人を見る目をたまに褒められたりもする。だから、自信だけは最初からあったのだ。
「孫策殿の勇気に免じて、先ほどのことはなにも。はあ……。わたくしも、つくづく甘い女ですわね」
「御礼申し上げます、黄忠殿。きっと、後悔はさせませんよ」
徐々にだが、黄忠の余裕が崩れていっている。
少なくとも、自分が入りこむだけの隙間はできているはずだ。双方が部隊の責任者であるだけに、ともに過ごす時間は自然と多くなる。それならば、やりようはいくらでもある、と孫策には思えた。
†
一万五千ほどの軍勢が、長沙南部に集結しているとの情報が入っていた。
おおよその陣立ては、調べがついている。急行し、孫策は堂々と部隊を配置した。傍から見れば、正面切っての闘いを挑む軍勢の姿である。
総大将である区星も出てきている戦だ。だらだらと長引かせることなく、孫策はここで勝負を決めてしまうつもりでいた。
営舎で過ごしていると、冥琳、それに桂花が作戦を持ち寄ってきた。蓮華には、穏と亞莎がそれぞれ補佐役としてついているから、ちょうどよく役割を分担できているかたちである。
「ご主人様。はっきり言って、敵軍は素人の集まりです。まったく……。こちらがやる気丸だしで陣を構築しているからといって、わざわざ合わせて正面に部隊を集中させなくたっていいのに」
「ふふっ。まあいいではないか、桂花殿。そのおかげで、こうしてわれらは楽をできるのだから」
「んっ……。それはそうかもしれないけど、軍師としての働き場所がいまいちないというか……。冥琳殿だって、そうでしょう?」
手柄をあげたい新参の桂花とは違い、冥琳には揺らぐことのない地位がある。
働き場所など、選り好みせずともこの先いくらでも出てくるのだ。桂花には、そのときになってから全力で知恵を搾ってもらえれば十分なのだが、これは使う側の勝手な意見でしかないのだろうな、と孫策は笑う。
「がら空きの後方に別働隊を回し、賊軍を撹乱いたします。その後、速やかに包囲を開始し、区星の動揺を狙う。これが作戦の基本となります、ご主人様」
「別働隊に使う人選はおまえに任せよう、一刀。敵将を討つための伏兵の配置は、こちらで」
二人の脳裏には、決着までの図面が明確にできあがっている。
提案を受けた時点で、誰を奇襲部隊として派遣するか、孫策の中で答えは決まっていた。隠密行動を得意とする明命と紅波のほかにも、再合流してきた思春の存在もある。それでも、孫策が人選に迷うことはなかった。
「敵軍の後方を突く役割、恋にやらせようと思う。黄忠というか、劉表にも呂布軍の強さを知らしめておくいい機会なのでな」
「ふむ。ここで抜群の働きを見せておけば、いざ襄陽軍と干戈を交えることになった時、向こうの意識が呂布軍に向きやすくもなる……か」
「なるほど。さすがは、私のご主人様です。要するに、どれだけつまらない戦であろうと、使い方次第だというわけですね」
「そういうことだ。ついでに、区星の首は俺が奪る。そのくらいの働きを示しておかなくては、城で酒盛りをしている母御に尻を蹴飛ばされるのでな」
「まさか。小物の相手など、無駄に張り切っている思春あたりにお任せになればよろしいのでは?」
桂花は苦笑していたものの、こちらとしては半分本気での発言だった。
入口にかかる陣幕。かすかに揺らめいたかと思うと、思春が音もなく姿を見せた。敵軍勢の物見に行かせていたから、その報告にきたのだろう。
「ああ? 私がいったいなんだって、猫耳女」
「ちっ……。狙いすましたように入ってくるんじゃないわよ、この陰険。ほら、さっさとなさいな。ご主人様に報告を済ませたら、私の視界から消えてちょうだい」
「ふんっ……。陰険なのはどっちだ、桂花め。貴様のような狂犬に懐かれて、兄上さまも大層お困りであろう。わかったのなら、尻尾を巻いて犬小屋に帰るのだな」
顔を合わせた途端、二人による牽制劇が幕を開けた。被っているのは猫耳でも、思春に対する桂花の姿勢は猛犬そのものなのである。
一度はじまった茶番は、そう簡単に終わることがない。衝突する闘志と闘志。牙を剥くけものたちの視界から逃れるように、孫策は冥琳のつくる谷間に顔を埋めさせた。