戟を手にした女が、こちらの気配に気づいたようだった。
明朗そうな雰囲気。だが、視線を交差させる中で、女の内側でなにか研ぎ澄まされているものがあることを、孫策は察知していた。
額を押さえる冥琳を横目に、さらに前へと進み出る。面倒を起こすなとは言われたが、絶対にそうはならないと約束することなど、不可能なのである。
そもそも、女のやっている商売自体に問題がある、と孫策は両手を擦り合わせながら思った。
大層盛り上がっている様子だが、こんなもの役人の眼に止まれば終わりだ。まともな稼ぎ方をしていないことなど、失神した男どもを見れば明らかだった。武辺に生きる人間は、匙加減というのを知らない。だからこそ、おもしろくもあるのだが。
「ふうん。やる気満々って感じのお兄さんが、つぎの挑戦者になってくれるのかな。いいよ、相手してあげる」
この女も、もれなく内側にけものを宿している。
冥琳のため息が後ろから聴こえる。振り返ることはせず、孫策は刀の鯉口を鳴らした。
自分の向ける闘気に反応しているのだから、それなり以上の使い手であることに間違いはない。猫耳頭巾のほうは嫌悪に満ちた表情を向けてくるだけで、武人としての素質はないように思えた。
孫策が戟をかついだ女に声をかける。草鞋が砂利を擦る音が、やけに大きい気がしていた。
「どういう勝負をしている、女」
「おっと、まずはそっちの説明をしておかないとね。勝負は単純。相手の身体に、一本入れたほうが勝ちになる。あっ、言っておくけどどっちかが死ぬような真似はしちゃだめだからね? こんな商売でお尋ね者になるのは、私だってごめんだよ」
「いいだろう。それで、おまえに勝ったら、俺はなにを得られるのだ」
女がふっと笑う。おのれが負ける場面など、想像すらしていないのだろう。
それでいいとでも言うように、孫策は笑い返した。どうせ馬鹿になるなら、行くところまで突き抜けるべきだ。狂った時代だからこそ、狂った生を謳歌することができるのではないか。
すべてを喰らいつくせ、策。義母の言葉が、ちょっと頭を過っていく。
「ふふっ。お兄さんが勝ったら、私のことを一晩だけ好きにさせてあげる。その代わり、負けた時には有り金全部を頂戴させてもらうから、覚悟してよね」
「おもしろい。俺の直感、やはり間違ってはいないようだ」
「……直感? なんの話か知らないけど、私にやられる準備はいい、お兄さん?」
「できているとも、はじめから。それでは、いくぞ」
言うと同時に、孫策は刀を抜き放った。
駆けながら、遠慮なしに闘気を爆発させる。弱い相手であれば、これだけで完全に出鼻をくじける。義母や宿老どもに喰らいつき、噛み裂くことだけを考えて剣を振り続けた。氣の操り方もなにもあったものではない。そんなもの、意識せずともあとからついてくる。
観衆が湧き立つ。男どもが惨めに敗れる様を見ているのもおもしろいが、武人同士のぶつかり合いがそんなものに劣るわけがない。
「おおっ。やるじゃない、お兄さん。打ち合えても精々三度くらいで、弱っちい男の人ばっかり寄ってくるんだもん。そろそろ、飽き飽きしてきたところだった……の!」
女が踏み出し、戟を突き出す。
どちらかが死ぬような真似はなし。そう約束していたはずなのに、この攻撃の勢いはどうなのか。まともに受ければ、間違いなく死んでいる。横に飛び退きながら、孫策は笑みをこぼしていた。
「ほんっと、男って人種はみんな頭がおかしいのね。馬鹿みたいな勝負に、気色悪いくらい鼻を伸ばして集ってくるんですもの。最低って言葉でも卑下しきれないくらい、人生終わってるんじゃないの」
猫耳頭巾の女が、呪詛でもするかのように吐き捨てている。
おぞましいものを、できるだけ視界に入れたくない。自分と女との勝負の行方は気になっているものの、正視することはできないようだった。
そこに興味でも惹かれたのか、冥琳が歩み寄る。どんな会話がなされているのか聞き耳を立てたいくらいだったが、女の戟がそうはさせてくれなかった。
「ちょっとちょっと、よそ見なんてしていていいのかな? ほら、お兄さんの相手は私なんだから。そんな守ってばかりいても、ご褒美なんてもらえないよ?」
「威勢のいい女だな、まったく。自分の身体を景品にするくらいだ。これまで、相当遊んできているのではないのか」
「あ、あったり前じゃない、そんなの。経験なんて、両手と足の指を使って数えても無理なくらいあるんだもん、うん」
「ははっ。それでは今日は、おまえの数多ある記憶の中に、俺という存在を刻み込んでやろう」
長柄の武器だが、槍ほど攻撃範囲に差があるわけではない。
女も、距離をとって外からどうにかしようという性格ではないらしい。得物同士がぶつかり、孫策は女と肉薄する。美しい顔立ち。大きくて張りのある乳房。全身引き締まっていて、くびれた腰とかわいらしい臍が、男の劣情を刺激する。
「くっ、んうっ……! まだまだ、今度はこっちから」
気合を発して女が距離とった。
跳躍。ほとんど宙に舞っているようで、ふわりと拡がる袖に一瞬だけ眼を取られた。この一撃で勝負を決める。そのくらいの意図がある動きだと孫策は思った。
まだ十分に足は動く。手の中にある小さな痺れ。そんなものを感じるのも、かなり久しぶりのことである気がする。
「ほ、ほんとに平気なんでしょうね、太史慈。下劣でキモくて、女を力で自由にできると思い込んでいる男ばっかりだったのに、なんで急にこんな奴が……」
「気まぐれな虎が、狩り場を求めてこんな場所にまでやってきた。商売をはじめたのはそちらの勝手だ。勝負がどう転んだとしても、恨んではくれるなよ」
大きく息を吸う。
なんだろうと受けて立つ。そのくらいの気持ちで、孫策は構えていた。女の姿が太陽と重なる。狙ってやったことなのかは知らないが、いい手ではあると思った。
勝負は一瞬。慌てたところでどうにかなるものではない。呼吸。風の動き。そのすべてを感じ、直感へとつなげる。
刀で叩き伏せることを諦め、両手を空にした。そのまま腕を伸ばし、見えない獲物の襲来に神経を動員する。
「つかまえたぞ。俺の勝ちだ、女」
「うへっ!? うっ、わわわっ、ふわっ」
おそらく戟の柄をとった。手繰り寄せれば、そこに間違いなく女の身体がある。
やわらかなものに手が触れる。気にせず、相手を地面に叩きつけることだけを孫策は考えた。腕を引き、足もとを払う。あとは流れに身を任せるだけで、勝負は決まるはずだった。
「んぷっ、んっ……!? んっ、うっ、あむっ、んふ……ぅ」
やかましいくらいの歓声が周囲からあがる。
勝利の余興にはちょうどいい。女の唇を味わいながら、孫策は早くも気分を昂揚させている。
これが一本でないとは言わせない。反射的に抵抗を見せる身体を組み伏せ、顔をゆっくりと離した。女の眼は焦点があっていない。おのれがどういった状況に立たされているのか、いまひとつ理解できていないのではないか。
真っ赤になっている女の頬を手のひらでぽんぽんと叩く。呻き声。それを吐き出すのが精一杯なのか、女の呼吸は荒く短い。
「や、やめなさいよ、この変質者! その子の身体をさっさと離しなさい。でなきゃ、そう、役人を呼ぶわよ」
「ン……。一本取れば勝ちと言われたから、俺はそうしたまでだ。それに、役人の世話になりたくないのは、おまえたちも同じではないのかな?」
「んぐぅ……。そ、それは……ぁ!」
際どい金稼ぎをしている自覚があるのか、猫耳女が言葉に詰まる。強気そうな鼻っ柱を折ることは嫌いではなかった。それに、奥に隠された本性がどのような色をしているのか、確かめたくなるのが男の性でもある。
自分の行動に呆れ返っているのか、冥琳が首を左右に振っている。
なにも間違ったことはしていないし、互いに怪我もしていないのだ。これ以上の決着が、どこにあるというのか。周囲の観客の盛り上がりは最高潮に達しているし、見世物としてもいいものを提供した自信はある。
「あ、アニキ、いましたぜ。あの女、俺達に喧嘩ふっかけておきながら、まだ呑気に商売なんてしていやがらあ」
「一家の看板に傷をつけられて、黙っていちゃあお終いよ。おい、まずはあの木偶の坊を引っ剥がせ。口汚く罵ってきやがった猫耳女にも、思い知らせてやるんだ」
「おう。あの猫耳女め、ただじゃおかねえ。あれこれ喚いてくれやがった口、俺たちのモノでたっぷりと塞いでやるぜ」
輪の外からあらわれた男たちの集団。三十人はいるのだろうか。それまで愉しそうに闘いを見物していた観客たちがそそくさと立ち去り、知らぬ顔をして各々の生活にもどってしまう。
口ぶりからしてこの一帯に幅を利かせるならず者で、そこの誰かを女が派手にぶっとばし、金目のものを巻き上げたのだろう。猫耳頭巾のほうも相当恨みを買っているようで、最初強気だった表情が、まさしく蒼白となっている。
自分の埓外からやってきた面倒事なのだ。これの責任までは、さすがに取る必要はないと孫策は思った。
「おーい、起きろ。むさくるしい連中に
「うえっ……!? だ、だめだめ、そんなのっ。女の子のはじめてなんだよ。そんなの、いいはずがないじゃない」
「経験豊富であるくせに、処女であるとはおもしろい。はははっ。積もる話は、あとから聞いてやる。だから、いまは走れ」
こんな相手と剣を交えても一寸の得もない。それに系図の先にいるらしいご先祖様も、三十六計逃げるに如かずという言葉を残しているではないか。
冥琳に手で合図を送り、起こした女の尻を急かすように叩いた。いろいろとありすぎたせいか、感情が綯い交ぜになっている。そんな顔を見ているのもおもしろいが、つまらない連中との闘いだけは御免だった。
「そこのおまえ。いくら男が嫌いだろうと、ここはあいつの言う通りにしておくべきだ。おい、まさか聴こえていないのか」
「あ、ああっ、あっ……。そんな、曹操さま。私、いやっ……」
「早く、荀彧。ここで捕まったら、洛陽に行くどころじゃなくなっちゃう……」
猫耳女は恐怖で身体が動かないのか、退避を促す冥琳の声が届いていないようだった。
群がろうとする下っ端を数人殴り飛ばし、猫耳女を抱き上げる。想像していた以上に軽い。このくらいであれば、余裕をもって駆けられる。心配する冥琳に対し、孫策は頷き返していた。
なにか文句でもあるのか、猫耳女の口が餌を欲する魚のように開いたり閉じたりしているのが見えた。捨て置けば、下の下の連中の餌食となることを理解しているのか。その上で言っているのだとしたら、この女もなかなかのいかれっぷりをしていると思えてくる。
「ふふっ。おまえとの二人旅、そう長くは続くまいと思っていたのだが」
冥琳が愉しそうに笑っている。さすがの度胸であり、そうでなければ自分のような男の親友など務まりはしない。
追いすがろうとするならず者を突き放す。城郭から原野に飛び出し、孫策は天に向かって咆哮をあげた。