※この作品はR-18です。

虎となりて   作:KKS

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今孔明ならぬ昔半兵衛。


諸葛亮

 意気揚々と出かけていった益州兵が、俯きがちに帰ってくる。その様子を、朱里は楼門のそばから孤独に見つめていた。

 鈍重な足音。活気のない隊列。虚しい戦だった。手にしている羽扇が揺られて、顔がちょっとむず痒くなる。

 先代であり、劉璋さまの母親でもある劉焉さまから誘いを受け、師のもとを旅立った。荊州を出てから、もう四年ほどになるのか。

 益州に入った当初から比べれば、背が伸びた。髪だって、肩から下にふれるくらいには長くなった。視野にしても、少しは広くなったのか。もうひとつ。胸に関しては、もうなにも言うまい、と朱里は静かに涙を飲んでいた。

 なにも、この地に骨を埋める覚悟をする必要はない。悩んでいた自分の背中を押したのが、劉焉さまの言葉だったのだ。書物は読み漁った。学院の仲間たちとも、日々討論を交わした。それでも、現場での経験はなににも勝る。実際、机上で駒を動かしているだけでは、政治のなんたるかは見えてこない。文官にしてもひとりひとりの癖があり、どこに根回しをしておけば事業が円滑に進むのか、というのを考えるようになった。

 漢室に連なる血筋ではあったが、劉焉さまはいずれ益州を漢から独立させることを考えていたように思う。五斗米道との融和策はそのための一手であり、中央と接する玄関口に置いておくには、ちょうどいい相手だったのだ。

 まず間違いなく、天下は乱世に突入する。

 沈みゆく船、と形容するのはあまりに冷たすぎるのだろうか。劉焉さまは優れた統治者だったが、老齢ゆえに乱世に真っ向から斬り込むことは無理だと判断したようだった。だとしても、内部の権力争いに明け暮れるいまの朝廷とは、親密にしてはいられない。独自の基盤を築き、ある程度の戦力を保持していれば、新しく覇者が生まれたとしても軽い扱いを受けることはない。それが、益州に住まう民衆にとって一番だと判断されたのではないか。

 結論を言うと、その意図が後継者に伝わることはなかった。

 不穏分子を、いつまでも漢中にのさばらせておくべきではない。それが、益州を受け継いた劉璋さまの考えだったのだ。当然、諌めはした。漢中を攻めるにしても、いまではない。足下のぐらついたままの劉璋が攻略できるほど、五斗米道の守りが薄くないことを、朱里は知っていたからだ。

 自分に近しい、若手の官僚や校尉を抜擢するだけならまだいいと思った。そのついでに、耳障りな進言をしてくる宿老を遠ざけたのでは、国力は落ちることは目に見えている。

 ほとんど客将のような立場にある自分が、益州にこだわるべきではないのかもしれない。それでも、いまの状態で投げ出してしまうのは、違うようにも思えた。

 一頭の馬が、楼門を通り過ぎたところでぴたりと動きをとめた。騎乗していた女性が、具足を揺らしながら近づいてくる。

 

「おお。これは、軍師殿ではありませぬか。はははっ。情けない戦をしてきたわれらのことを、嗤いに参られたのですかな」

「まさか。それに、私は軍師の座を追われて久しい身です。なににも、口出しすることなどできません」

「むっ……。そうであったな、悲しいことに。しかしまあ、朱里が参陣していても、面倒極まりない戦だったと断言できるがな。いやはや。いずれ天下に名を馳せる若者に、余計な土をつけずに済んでよかったと思うことにしよう」

「ご苦労をなさってきたのですね、桔梗さんも。けれど、劉璋さまの戦力は腐っても正規兵。言ってみれば、五斗米道は素人の寄せ集めにすぎなかったはずです。山中に仕掛けられた罠の数々は、確かに厄介ではありますけど……」

「仔細はわからぬが、奴らめ、どこぞでよい指揮官を手に入れたようだ。五斗米道の兵は、もとより守りに長けておる。そこに神出鬼没の部隊が加わったことで、若造どもはてんてこ舞いよ。まったく、おもしろいようにこう……、くるくるとな」

 

 桔梗さんが、呆れたように人差し指で円を描いている。桔梗というのは真名であり、世間では厳顔の名で通っていた。益州で優れた軍人をひとり挙げるとすれば、ほとんどの人間が桔梗さんと答えることだろう。兵らの信頼篤く、個人の武勇でも抜きん出た存在だった。だからこそ、劉焉さまの時代には重宝されたのだが。

 

「厄介、なんて話ではなさそうですね。五斗米道には、領土を拡大する意思がない。それだけに、ひたすら漢中の城壁がうず高くなっていくようなものですから。そこに、腕利きの将が加わったとなると……」

「今回味わった雪辱を、劉璋さまはどうにか晴らしたいと思っておられる。面倒事は、続くな。いっそのこと、完全に引退してしまうか」

「ご冗談を。桔梗さんがいなくなった益州軍なんて、考えたくもありません。ただ、そうですね……。内情を調べようにも、私は手足をもがれているようなものですので。個人的な付き合いで協力してくださっている方が、数人はいるのですが」

「あまり、無理はするなよ。劉璋さまが取り立てになった若造どもから、朱里はいまでも疎ましく思われておる。危ういと感じたら、すぐに成都を離れよ。ここにこだわる意味もないであろう、おぬしにとっては」

「意地、なのかもしれません。私はまだ、全力で闘い抜いていない、という気がしてくるんです。それに、劉焉さまに抜擢していただいた恩もありますから」

「若いのに、頑固な奴じゃのう。ならばこの際思い切って、朱里が益州の舵取りをやってみてもよいのではないか? 民衆は、おそらくついてくる。心ある文官も、賛同してくれると思うが」

「はわっ……!? そ、それは話が飛躍しすぎではありませんか、桔梗さん。第一、私ごときに国を導く資質があるとも思いません」

「おう。朱里のその可愛げのある口癖、久しぶりに耳にしたのう。わははっ。冗談よ、冗談。前途ある若者に、首筋の涼しくなるような暴挙を進めても仕方があるまい。いま言ったことは、すべて忘れてくれ」

 

 そう言うと、桔梗さんは腰にさげた銚子の栓を抜き、中身を口にした。

 戦に行っていたのだから、さすがに酒は入っていないと信じたい。だが、あまりにも旨そうに嚥下するものだから、段々と自信が揺らいでくる。

 

「もうしばらくは、静かに隠棲しているつもりです。時が過ぎれば、劉璋さまも出仕を許してくださるはず。それまでは、晴耕雨読に努めましょう」

「清廉な奴だのう、朱里は。そんなおぬしに代わって、わしが泣きに泣いて進ぜようか。ほれ、こうして」

「んっ……。もう、やめてくださいってば、桔梗さん」

 

 口を手で覆い、桔梗さんがわざとらしく嗚咽を洩らしている。

 頭上から降りそそぐ滴。それが、徐々に激しく変化していった。一瞬、ほんとうに天が代わりに泣いてくれているのかと朱里は思った。だが、なにか様子がおかしい。濡れているのは自分だけであり、周囲の地面は乾ききっている。

 

「はははっ。いい気味だぜ、まったく。貴様のような根暗を先代が重用されたから、兵がみんな腑抜けになったんだ。ふう、んっ……。そこの老いぼれも、いまに見ていろ。われらの鍛えた軍団が、漢中に巣食う蛆虫どもを駆逐してくれる」

 

 さすがに、思考が凍りついた。自分に降り注いでいるのは、雨などではなかった。楼門の上から粗末なモノを外に出し、黄皓が小便をばら撒いていたからだ。

 戦の憂さばらしをしているつもりなのか、黄皓による口撃は続く。能力がないだけであれば、まだいい。ただ口の上手いだけの男が主君に取り入り、権力を持つようになっているのが現状だった。最悪、と断じるほかない。

 飛び出しそうになる桔梗さんの腕を掴んで、ここは堪えるように説得した。

 好き放題やって満足したのか、黄皓がどこかに消えていく。吐き気のする液体で濡れた帽子。力任せに両手で搾ると、苛立っていた桔梗さんがなぜか破顔した。

 

「よい顔をしているぞ、朱里。成都の片隅で燻っているより、ずっとよい顔だ」

「そうでしょうか。ふっ、うふふっ、あははっ」

 

 こうして、腹の底から笑ったのはいつぶりなのだろうか。同時に、やってやるぞ、という熱い気持ちがいくらでも湧いてくる。

 

「連絡、またします。武器の手入れだけは、欠かさずにお願いしますね、桔梗さん」

「心得た。諸葛孔明のおそろしさ、媚びへつらうしか能のない若造どもに、とくと教えてやるといい。わしは、どこまででも付き合う」

 

 悪辣な笑みを浮かべる桔梗さんと、そこで別れた。

 叛逆。謀反。なんとでも言えばいいと思った。政道を、あるべき姿に取り戻す。もし自分になにか使命があるとすれば、そういうことなのではないか。

 成都を年中覆う曇り空が、今日はやけに明るく見えている。どうにか無事だった羽扇で顔の下半分を隠し、朱里は足早に草庵へと帰っていった。

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