城壁に身体を預け、盃を傾ける。頭上にあるのは、妖しげに輝く月だった。吸い寄せられるように見上げる。風はほとんどなく、まとわりつくような湿り気のある夜だった。それだけに、嫌な感じが一層強くなっている。
空になった盃。横から誰かが新たな中身を注ぐ。星だった。普段飄々としている女が、今夜は妙に殺気立っている。それもそうか、と血に塗れたような月を見ながら、華琳は頷いた。
「今宵はひとり酒ですか、華琳殿。これは、なんともお淋しいことで」
「まったく。いちいち一言多いのよ、あなたは。というか、そんなにこの私が不憫に見えるのなら、一献付き合いなさいな。酒の味だけは、保証するわよ」
「はっ。華琳殿のご要望とあらば、一献と言わずいくらでも付き合いましょうぞ」
華琳の姿勢に倣い、星も城壁にもたれかかる。
風や稟と一緒に、諸国を放浪していたのが星だった。使える軍師二人と武官が同時に手に入ったのは、幸運というほかない。端的に言うと、暇な期間に研究していた酒造りが、功を奏したのである。
星の持参した盃に酒を注いでやる。なんというか、用意のいい女だった。
陳留の城郭は静かだった。ただ、いまはその静けさが、無性に淋しく思えてくる。洛陽に招集されていた頃は、こうはいかなかった。無法の輩が城郭で騒ぐことがあるし、野良犬に門柱を汚されることだってある。拳。思わず握りしめていた。手入れを欠かさない爪が肌に食い込む。その感触だけが、どうにか正気を保たせてくれているようだった。
孫策、と華琳は忌々しい男の名を呟いた。
「不気味な月を見ていると、なにか唐突に時代が動き出すような気がいたします。華琳殿は、いかがお思いか」
「ふうん。あなたのような女でも、巷に流れる噂を信じるものなのかしら。動く時は、ほんとうに一瞬でしょうよ。だけど、うねりだけはずっと前から巻き起こっているの。それが一晩で弾けるから、たとえばこの赤い月が、変異を引き起こしたようにも思えてくる」
麾下に全国の動きを探らせているが、やはり気になるのは孫家だった。
身代としては、掃いて捨てる程の大きさではある。ただ、あの男は洛陽で袁術に急接近を果たしているのだ。袁紹と長く近くで過ごしていて、袁家の影響力が侮れないことは知っている。それに、孫家にはなにやら西涼の諸氏と結んでいる気配があるという。
あの忌々しい男は、間違いなく乱世の到来を待ち望んでいるのだろう。それでいて、簡単に暴発しない冷静さを兼ね備えているあたり、なんだか腹立たしくなってくる。
いま事を起こせば、袋叩きに遭うことは眼に見えているのだ。ゆえに、じっと牙を研いでいるとでもいうべきなのか。
歴戦の勇士である孫堅が重石となり、孫家には浮つくところがなかった。普通、血縁外の人間を強引に嫡子とすると揉めるものだが、家中に揺らぎは見られない。むしろ、誰もが次は孫策でいくべきだ、という考えを持っているのがいまの孫家だった。本領を離れ、孫堅親子の影響力は拡大の一途を遂げている。現状、それで家督継承について不満らしい不満が出るはずもなかった。
「乱世を望みますか、主殿は。まあ、どちらに転ぼうと、あなたの存在は際立つのでしょうが」
「望む、望まないの話ではないでしょう? 時代が、誰かの思惑通り動くことはない。流れを支配しようだなんて、それこそ傲慢極まりないことだもの。けれど、その潮流を読むことだけは必要よ。私が躓けば、あなたたち臣下が食いっぱぐれることになるのだもの」
「しかり。旨い酒と旨いメンマにありつけない生活など、考えたくもありませんな。ちょっと想像しただけでも、身が縮まります」
そう言って、星は怯えたふりをする。
どこまで本気で言っているのだ、この女は。茶番に首を振って、華琳は酒を注ぐように催促する。
「それで、近頃袁紹殿とは書簡のやり取りをなさっているのですか」
「はあ? どうして、そこであの女の名前が出てくるのよ」
「いえ、ふと気になったものでして。華琳殿ご執心の孫家は、袁術殿と懇意にされているのでしょう? となれば、こちらも対抗して冀州の姫君と結ぶのは自然な流れなのかな、と」
「自然じゃない。断じて自然でないわよ、そんなもの。だいたい、あのやかましいだけの女と、どうしてこの私が」
「そうなのですか。いつもの口喧嘩は、お二人が愉しくじゃれ合っておられるのかと思っておりましたのに」
「ないない。それだけは、絶対にありえないから。余計な詮索をするんじゃないわよ、ったく……」
苛立ちの勢いから、九割ほど残っていた酒を華琳は一気に飲み干した。
喉がかっと熱くなる。にやつく星の顔を、怒りに任せ殴り飛ばしてやろうかとさえ思うほどだった。
腐れ縁。どこかの時点で、自分もそう感じるようになったのかもしれない。どうしてか、あの女との繋がりは、切れそうで切れないままこれまで続いている。
凌駕するべき相手。覇道を往くなら、あの名門の存在は必ず邪魔になってくる。流れが乱世に傾くなら、それを治める覇者は強大であるべきだ。でなければ、まとまるものすらまとまらない。戦となれば、これまで培った情は斬り捨てる。
それこそが、曹操孟徳の目指す覇道だと思った。
「宿縁を結ばれたお相手なのです。そう簡単には、捨て去れませんよ。はははっ。天命が、きっとそうさせるのでしょうな」
「今夜はやけに詩人ぶってくれるじゃないの、趙子龍。それは、誰かの入れ知恵なのかしら」
「別に。春蘭や秋蘭では言えぬことを、酔った勢いでぶつけてみようと思ったまでのことです。刺激が必要でしょうから、華琳殿にも」
「それを、世間では余計なお世話だって言うことを知っているのかしら、あなたは。はあ、まあいい……」
ゆるやかに飲み直すつもりで、華琳は銚子を手に持った。そもそも、あの麗羽が自分との同盟など認めるものか。ことあるごとに、手柄を争ってきた相手なのだ。それも、基本的に仕掛けるのは麗羽からだった。
足音。誰かが城壁を駆け上がってくる。自分以上に鋭敏な感覚を備える星は、とくに警戒している様子はない。それで、暗殺者の類でないことはわかっていた。
「ご注進。曹操さまに、至急申し上げたき儀があり、参上仕りました」
駆けてきたのは、使っている間者のひとりだった。額には汗が玉のように浮いている。息も相当荒れていて、当分落ち着きそうにはなかった。
危急の用件。そうでなければ、私的な時間を邪魔されたことに対する怒りで、叱り飛ばしていたところだ。普通の事柄であれば、秋蘭や軍師たちに報告が行われる。仔細な案件までいちいち華琳が聞いていたのでは、さすがに政務に滞りが出てしまうからだ。
「おっと。お邪魔なら、私はしばしどこかに消えておりますが」
「まさか。あなたに聞かれて困ることなんて、いまさらありはしないわよ。いいから、報告をなさい」
「はっ、それでは」
跪いた姿勢の間者が、汗を地面に落としながら話しはじめる。なぜだか、月がさらに赤く染まっているように華琳には思えていた。
「洛陽行幸の最中に起きた出来事です。帝が何者かの襲撃をお受けになり、そのお命はおそらく……」
「このこと、単なる推測で語っていたのなら、決して許さないわよ。そのくらいの覚悟があって、言っているのよね」
「御意。帝の周辺を張っていた仲間のひとりが、襲撃の現場を直接見ています。下手人はその場で斬り捨てられましたが、かなりの深手を負われたようで、宮中の混乱は続いています。私も、洛陽を抜け出すのに苦労いたしました」
国家にとって、激震といっていいほどの事件だった。衝撃は確かにある。それなのに、どこか冷静な自分が事実だけを受け止めていて、唇をふるわさずに動かしている感覚があった。
帝の護衛を担当していたのは、大将軍の一派と考えるのが普通だった。何進の地位は帝と皇后たる妹あってのものであり、行幸に際して万全の防備を築いていたはずなのである。その小さな網目を、どこかの誰かが通してしまった。時代の流れ。そう呼ぶには、残酷すぎる出来事なのではないか。
華琳にも、漢の臣下だという意識は間違いなくあった。それは、あの麗羽とて同じなのだろう。孫策に関しては、わからなかった。
全身に流れる血が熱くなっている。焦るな、と自分に言い聞かせた。この時ばかりは、星も黙り込んでしまっている。
跳ね上がる鼓動を抑えるように、華琳はゆっくりと声を搾り出した。
「そう。それは、よく知らせてくれたわね。諸侯の手の者も、このことを?」
「袁紹殿については、まず間違いないとお思いになってよろしいかと。荊州牧。それに、孫家の間者の出入りも、襲撃の数日前に確認しております。あちらはあちらで、牽制し合っているようですが」
「ありがとう。まずは、身体を休めることね。報酬は追って言い渡すから、愉しみにしていなさい」
「ははっ。ありがたき幸せです、曹操さま」
間者の姿が完全に消えたのを確認してから、華琳は長々と息を吐いた。
徐々に思考が研ぎ澄まされてくる。帝という一応のかんぬきが外れたいま、洛陽の政争がどこへ向かうのか。そして、その中で自分はどう立ち回り、なにを得るべきなのか。
笑みを浮かべた孫策の顔が、ほんの一瞬だけ頭を過る。華琳は幻想をすぐさま振り払い、星に稟と風を招集してくるように命じた。