帝が、死の淵を彷徨っている。間者が陳留まで駆けてきた時間を考えると、命の火はすでに消えているのか。
即座に斬られた下手人は、名のある豪族の誰か、というわけではなかった。草莽の志士による、決死の凶行。そう表現すれば、多少は外聞もよくなるのかもしれない。どちらにせよ、漢の威光が失墜しきったことに変わりはない、と華琳は親指の爪を噛んだ。
これまでほとんど気にかけてこなかった民草に、帝が弑された。実情は、そうだ。
世の動きは、これまでの比ではなくなる。帝という蓋が飛んだことで、諸侯の野心に一応かかっていた制限がなくなるはずだった。まずは、洛陽だった。元々対立していた大将軍と宦官の均衡は、完全に崩れる。
今頃、洛陽では闘争が巻き起こっていても不思議ではなかった。首を突っ込んでいい喧嘩ではない。現時点では、どちらに与しても損をする。ほとんどの諸侯が日和見するだろう、というのが華琳の読みだった。
「稟です、華琳さま」
「なにかしら、稟。まさか、領内で揉め事でも起きたのではないでしょうね」
稟の入室に合わせて、窓から外を見つめていた華琳は、椅子に腰を落ち着けた。
いずれ、洛陽に軍勢を差し向けることになるのだろう。
混乱の鎮圧には、力が必要になってくる。そのためにも、領内の引き締めを徹底させる必要があった。豪族連中にも、洛陽で起きた凶報が届いていてもおかしくはない頃合なのである。ここで、勝手な行動をさせるわけにはいかなかった。
「やっ。陳留周辺に、動揺はありません。春蘭殿の威しが、かなり効いているのでしょうね。そもそも、華琳さまのお力なくして、この兗州はひとつになれません。ご心配は無用かと」
「油断をしていなくても、足をすくわれることがある。今回の凶事が、そのことをよくあらわしているじゃない。だから、よく見えているからこれでいい、ということはないのよ」
「御意に。それと、肝心なご報告があるのですが」
「なんだ。それならそうと、早く言ってくれればいいのに」
足を組み、華琳は稟の顔を見据えた。眼鏡の奥にある双眸が、わずかに逡巡しているようだった。
そんなに、自分に言いにくい事柄があるのか。
「いえ、それがなんと言いましょうか……」
言い淀む稟に、華琳が首を傾げる。
やたらと大きな足音。近づいてきたのは、ほとんど同時のことだった。金。最初に眼に飛び込んできたのは、それだった。上から下まで、とにかく派手である。ただし、金色の具足に道中跳ねたであろう泥が、付着したままになっている。
「あっ。ちょ、ちょっと袁紹殿。客間でしばしお待ちください、とあれほど念押ししたばかりですのに」
「曹家の召使いは、いいから黙ってらっしゃい。わたくしが話したいのは、華琳さんだけなのです」
稟の制止をぶった斬り、麗羽が無駄に大きな胸を突き出しながら前に出た。護衛に駆り出されたであろう顔良が、申し訳なさそうに頭を下げている。あとは、文醜と田豊が姿を見せていた。いずれも、麗羽の側近中の側近である。
いったい、なんの用があってこの女は陳留まで駆けてきたのか。それも、かなりの強行軍のようだった。なんにでも、華麗な決着を求める女なのである。泥臭く疾駆することなど、本来嫌っているはずなのだ。
わずかな供回りだけを連れて、麗羽が具足を汚しながらやってきた。
それで、華琳も相手をしてやってもいい、という気になっていたのだ。
「仕方がないから、あなたの用件を聞いてあげる。ただし、手短にお願いしたいわね」
「ふふん。素直な華琳さんも、たまには悪くありませんわね。存外、わたくしと会えて嬉しいのでしょう?」
「ちっ……。誰がよ、誰が。いいから、さっさと本題に入りなさいな。でないと、そのお喋りな口を縫いつけるわよ」
麗羽に煽られると、つい頭に血が上ってしまう。前々から思っていることだが、この女の相手をまともにしていると、持病の頭痛がひどくなりそうだ。
「それでは、単刀直入に。華琳さん。あなたを刎頸の友と見込んで、お願いにやってきましたの」
「はあ? いきなりなによ、気色悪い。というか、誰と誰が刎頸の友なのよ。まったく、戯言を言いにきただけだったら……」
大真面目な顔をして言い放つ麗羽を、華琳はしかめっ面で見つめていた。
正直、なにかの気まぐれとしか思えなかった。あるいは、思考が変になるような物を食ったのではないか。側近たちの様子を伺う。それぞれ、神妙に直立したまま主の言葉に聞き入っている。
それだけ本気で、麗羽は自分を刎頸の友だと言っているのか。
「いいからお聞きなさい、華琳さん」
麗羽の瞳に、これまでとは明らかに違う輝きがある。油断すると、ちょっと魅入られてしまうほどの眩さだった。
きっかけがあったとすれば、それは間違いなく帝の一件なのだろう。漢の名門としての誇りを、常々やかましいくらいに撒き散らす女だった。当人の才覚はともかく、袁家には多くの人が集っていた。麗羽には、名士を惹きつけるだけの家格と、あまり褒めたくないが人望がある。
それは、天下の覇を争うに足る資質だと言ってよかった。
「洛陽の混迷、いつまでも見過ごすわけにはいきません。わたくしたちには、力があるのです。それを、このように」
乾いた音が鳴る。麗羽が、左右の手のひらを打ち合わせたからだ。斜め上からぶつけられた提案だったようで、稟はずれた眼鏡を慌てて元の位置にもどしている。
華琳は、静かに笑っていた。
「そう。本気で言っているのよね、麗羽」
「本気も本気。このような大仕事、あなた以外の誰とできるというのです。華琳さんだって、それは同じではありませんこと?」
「やると決めたら、私はひとりだってやりきる自信がある。ただ、そうね」
ほんとうなら、腹の底から笑いたかった。
あの麗羽が、天下静謐のための共闘を持ちかけている。天と地がひっくり返ろうと、あり得ないことだと思っていた。
「共謀者として、あなたにその器なしと判断した時は、すぐさま後ろから胸を抉るわよ。その覚悟があっての、提案なのでしょうね」
「いいでしょう。華琳さんに刺し貫かれるなら、わたくしも悔いはありませんもの。それにしたって、心底この胸に羨望の感情を抱いておいでなのですわね。わたくし、正直驚きましたわ」
「はあ……!? いったい誰が、余計な脂肪の塊を憧れの眼差しで見ているですって? うふふっ。そんなに殺してほしければ、いまここで頸を刎ね飛ばしてあげましょうか」
「か、華琳さま、どうかお気を確かに。あなたさまの無駄の一切存在しない美しさに、こうして惹かれている女がいるのです。ですから、どうか」
「はあっ、ふうっ……。それはそれで、なんだか癪に障る物言いね。あとで閨にきなさい、稟。嫌というほど、躾けてあげる」
「は、はひっ、華琳さまっ。うっ、むぐぐっ、ぶはっ……!」
軽く誘惑されただけの稟が、鼻血を天高く巻き上げて床に倒れ込んだ。
相変わらずの鼻血芸である。普通とはちょっと感性の違う麗羽には、それほど受けていないようだった。身体を張って倒れ伏す稟が、なんとなく憐れに思えてくる。当人は、決して受けを狙ってやっているわけではないのだが。
「……風。どうせ、近くに控えているんでしょう。血塗れになったお友達を、いますぐどうにかしてちょうだい」
「はいはーい。あんまり無茶したらいけませんよ、稟ちゃん。天下の一大事を前にして、そんなに早死されたいのですかー?」
「んっ、ふがっ……。はへっ、へっ、うへへっ」
華琳の呼びかけに応じて、扉の影から音もなく風が姿をあらわす。
戦場で引きずられる死体くらいの雑な扱いで、稟が強制的に退室させられていった。
胸を張って不敵にほほ笑んでいる麗羽が、あまりにも憎らしい。気を取り直して、華琳は言葉を紡いだ。
「天下に、覇者は二人も必要ない。わかっているのでしょうね、麗羽」
「わたくしだって、子供ではありませんもの。それに、何年あなたの友人をやっているとお思いで?」
「ぐぬぬっ……。ほんっとーに、いつまで経ってもひと言多いのよ、あなたって女は」
「あら。お褒めの言葉なら、ありがたく頂戴しておきますわよ。うふふっ。華琳さんこそ、いつまで経ってもかわいらしい御人」
広くない執務室に、麗羽の高笑いが鳴り響いた。
顔良が、何度も勢いよく頭を下げている。この不遜極まりない主君に対し、似つかわしくない礼節を備えた臣下だった。
いま一度、華琳は麗羽の顔をしっかりと見据えた。
これまでになかった瞳の輝きは、まだ力強さを増しているようだ。
牙を剥いて向かってくるけものに、王道たる力を示してやるのも一興なのか。自分たち二人でなら、やれる。
成し遂げたあとのことは、しばらく考えないつもりだった。