この数日の間に、いい風が吹くようになっていた。
語りかけてくるようなざわめきがある。それは、一刀が長沙を発ってから、はっきりと強くなったのだ。予感だった。その輪郭が、日を追うごとに鮮明になっているのか。しばらく抜く機会のなかった南海覇王が、血を求めて暴れたがっている。自分の中にある疼きも、そろそろ限界だった。
普段乾きを癒やしてくれる相手を、呼ぶこともできない状況なのである。襄陽で女遊びに耽っていなければ、一刀はいまごろ南陽に向けて旅をしている頃合なのだろう。
袁術の機嫌取りだと話していたが、そんな大層な話ではないだろう、と思っていた。ただ、それで南陽袁家の兵力を動かせるのだから、長沙に押し留める理由がないだけだ。一刀が袁術の心を掴んでいなければ、取り入るために多少搦手を使う必要があったのだろう、というのが率直な感想だった。
袁術、それに厄介者だと評判の張勲までもが、一刀が南陽袁家に出入りすることを認めるようになっている。ほかの誰にもない才覚なのである。剣や戦のやり方を教えたのは、間違いなく自分だった。女の抱き方にしても、実践をしながら徹底して叩き込んだ。他者の心にするりと入る感覚だけは、天賦の才なのだろう。
城壁の上に立ち、炎蓮は北に拡がる大地を睥睨していた。
やはり、予感がある。意識を集中させるほど、北にあるざわめきは大きくなってくる。なにかがある、としか思えなかった。一刀もそれなりにやるようにはなってきたが、直感の鋭さでは自分がまだ勝っている。
背後に人の降り立つような気配があった。南海覇王を鞘から抜き放つ。その切っ先を北に拡がる大地に向けて、炎蓮は言葉を発した。
「
「御意。恋殿をご指名ということは、闘いになる予感をお持ちなのですね、大殿は」
「ハハハッ。勘が外れた時の言い訳、貴様に任せるからな、紅波。ただ、オレの感じている通りに風が吹けば、帰りは少々面倒になるかもしれん。牽制の兵はこちらで用意しておく。あいつがなにか訊いてきたら、そう伝えろ」
「承知つかまつりました。不休で臨む所存ではありますが、路銀は多めにちょうだいいたします。なにぶん、恋殿を無理に動かそうとすると、それだけ燃料が入り用となりますので」
「金は好きなだけ持っていけ。
「むっ? そこはご自身で受け持たれる場面なのでは、大殿」
「いくつになっても、嫌なものは嫌なんだよ。ぐちぐち耳の横で説教垂らされると、鼓膜にカビが生えるってんだ。だから、面倒事は全部一刀のやつに押し付けてやるのさ。なんなら、蓮華のやつでもよいのだがな。ン……。世間話はいいから、もういけ」
「はっ。それでは行って参ります、大殿」
陽炎のように佇んでいた紅波が、また音もなく消えていった。
恋をつけたのは、最大限の備えをするためなのである。西涼で拾った野良犬は、一刀にかなり懐いているようでもあった。実直でぶれるところがない。恋は天下を見渡しても抜きん出た武の持ち主で、この状況で起用するには最適な女だった。
自分も一刀も、ここで野垂れ死にしている場合ではない。
気がかりなのは、江夏にいる黄祖の存在だった。劉表配下の中でも、あれはいやらしい戦をする、という評判だった。だから、暗殺を狙うことも、平気でしてくるのではないか。
敵がその気を見せていない時ほど、厳しく警戒にあたるべきだった。
「あっ。こちらでしたか、母さま」
「風にあたりたい気分だった。言っておくが、今日は酒を持ち込んではおらんからな」
「あはは……。別に、雷火から母さまを捜すように頼まれたのではありませんから、ご安心を。ええと、なんといいますか、その……」
「なんだ、その顔は。ハハッ。溜まりに溜まった性欲が爆発して、ついに見知らぬチンポにでも跨るようになったのではなかろうな」
「ち、違います。断じて、それだけは違いますからっ!」
蓮華が神妙な顔をしてやってくるものだから、ついからかいたくなってしまう。
血を分けた娘であるのと同時に、一刀を通じた横の繋がりがあるのが、自分たち母娘のほかとは違う点なのである。
一緒になって一刀に抱かれている時は、ただの女と女だった。そうした、普通では曝け出さない部分まで互いに知り尽くしているから、結びつきは強くなる。小蓮などはまだまだかわいらしさが勝っているが、蓮華とはたまに閨で本気の取り合いをやったりもする。淑やかに見えているが、決して闘争心が小さいわけではないのが蓮華だった。
口外するつもりはまったくないが、自分は後継者に恵まれているという実感があった。
拾い子だった一刀が、予想を大きく飛び越え、孫家の男として家を牽引するようになっている。その背中が、二人の妹に影響を与えていることは疑いようのない事実だった。
こうした埒外の拡がりがあるから、人生はおもしろい。自然と、炎蓮は笑っていた。
「報告があるんです、母さまに。その、兄上がお出かけになったすぐあとから体調が優れなくて、医師に相談をしていたのですが」
「孕んだのだな、あいつの子を。ハッ、そうか……。長々と待たせやがって、あの馬鹿息子が」
「喜んでくださいますか、母さま。正直、私もちょっと不安だったんです。兄上と関係を持つようになって、これほど時間がかかるとは思いませんでしたから」
ついに、蓮華が一刀の子をその身に宿した。はじめての子なのである。確かに、ここまで誰も孕んでいなかったのが、不思議なくらいだった。
一刀は、妙なところから湧いて出た拾い子なのである。ふと、炎蓮は記憶を掘り返してみた。赤子だった一刀を連れてきたのは、異形の仙人だったようにも思えてくる。そのせいで、どこかこの世の人間とは、繋がりが希薄な部分があったのかもしれない。赤子だった一刀に『策』の名を授け、孫家の嫡子として鍛え上げた。原野を駆け、数多の女と交わることで、孫策伯符という存在は、ようやく俗世に馴染むことができたのではないか。
身体の奥底から、感慨の波が押し寄せてくる。心底、この場に一刀がいなくてよかった、と炎蓮は鼻を鳴らした。
この時ばかりは、母として蓮華を抱きしめる。よくやった、と声をかけた。蓮華が嗚咽を洩らしたのは、それと同時だったのか。
「ハハハッ。戦狂いのこのくそったれに、ついに孫ができたのだな。散々、やりまくって子を成せとケツを蹴り上げてきたのに、どうにも妙な感じがしてきやがる」
「ふふっ。母さまでも、わけがわからなくなる瞬間があるのですね。なんだか、安心いたしました」
「おい蓮華。この母のことを、いままでなんだと思ってきたのだ。オレとて、怪物ではないのだぞ。あの馬鹿息子に一緒に抱かれていて、わかってもらえていると思っていたのだが。この孫堅も、恋しいチンポの前では一匹のメスよ。それにしても、どうしてこんな日に、オレは酒を持ってきておらんのだろうなぁ」
「えっ、そうだったのですか……? あんなに牙を剥いて兄上に跨る女性を、私はほかに知りません。ほんとうに、母さまと兄上との交合は戦をしておられるようで」
「ククッ……。それだけ、深い愛情があるというだけの話ではないか。で、蓮華? あいつと最後にやったのは、いつのことだ。母として、初孫ができた時の情景、詳しく知っておかねばなるまい」
涙に濡れた蓮華の表情が、少しだけ引きつっている。よもや、自分にも話せないような奇抜な合わさり方で、子を宿したのか。それはそれで、正直興味がある。
ひとり目ができてしまえば、あとはもう時間の問題なのだろう。冥琳、あるいは宿老の誰かということもなくはない。小蓮に弟か妹ができる日だって、そう遠くはないような気がしていた。
「ええと……。この前、亞莎のところに視察にいった際、そのあたりの原っぱでみんなと何度か……」
「おお、やはり外の開放感か。弁当片手に近くの丘に出かけて、日が暮れるまでやり倒すのも悪くはないかもしれんなあ。外でなら、でかい声で鳴いたところで、けものの遠吠えとしか誰も思うまい」
「うふふっ。その時は、通りがかった旅人に、山の主と間違われて討伐されないよう、お気をつけくださいね、母さま」
「あん? 言ってくれるじゃねえか、小娘が。いつまでも、正妻面をしていられると思うなよ、蓮華。オレが一刀のガキの孕んだ日には、貴様の天下なんぞ一瞬で終わらせてくれる。それまで、せいぜいいまの地位を愉しんでいることだ」
「やっ……。兄上と私の間にできた子を、嫡子とするようお決めになられたのは、どこのどなたなんでしょうね」
「知るか、そのような約束。この世は乱世。どれだけ繋がりが深かろうと、弱肉強食よ」
蓮華の髪をくしゃりとかき混ぜながら、炎蓮は快活に笑っていた。
ようやく蓮華ちゃん身籠りました。
ひとり目謎に翠か詠ちゃんにするつもりだった時もあったんですけど、やっぱり正妻ですね。