流浪の印
美羽と過ごしていた宛城を出て、孫策は北へ駆けた。
間者の報告を受けた七乃から、洛陽を脱した一団があると教えられたからだった。しかもその一団は、追手の兵を差し向けられているらしい。
とにかく、正体を確かめてみるべきだと思った。大将軍には、なにかあれば孫家を頼るように言い含めてある。それに、
巻き上がる土煙で、後方に
こんな事態になるなら、武官のひとりでも連れてくるべきだったのか。旅は気軽な方がいいと思って出かけたのだが、自分の読みはまだまだ義母には及ばないな、と孫策は自嘲するばかりである。
傾が勝ち、都落ちしたのが宦官一派なのであれば、引き渡して恩を売ればいいと思った。ただ、帝という最大の後ろ楯を失った何姉妹が、どれだけの人数を集められるのか。
乱世に解き放たれた諸侯の中には、当然袁紹や曹操だっている。天下を窺ううえで、その二人の動きには注視するべきだった。劉家、あるいは袁家の名声が、これからは有力な拠り所となってくるのだろう。人を集めるためには、わかりやすさがなによりだった。そこに、自分たちのようなならず者が一石を投じる。
有力な諸侯の内、南陽袁家を抱き込むことには成功している。荊州と益州は、やはり劉家を排除することだった。これといった旗手のいない揚州は、群雄割拠の時代となるのだろう。そこに、力を蓄えた孫家が凱旋すれば形勢は一気に変化する。そのためにも、いち早く荊州支配を確実なものにしたかった。
涼州については、すでに叛乱が鎮圧されたあとだから、大きな心配事はないと言ってよかった。月と常磐の二人が組んで動けば、それがひとつの意志となる。叛意を見せる者がいたとしても、即座に叩き潰されるだけだ。
「見えてくるなら、そろそろだと思うが」
霞が先導して逃げているなら、迂回して頴川に入るようなことはしないはずである。少々の山越えになっても、直線で突っ走る。何姉妹が泣き言を洩らしたところで、霞が考えを曲げることはないと思った。そもそも、楽な道を選んで死ぬことになれば、本末転倒であるからだ。
魯陽を越え、孫策はさらに北上した。途中、五人が脱落することになり、麾下は十五に減っていた。南陽袁家の兵は、やはり鍛え方が足りていない。美羽のこれからのためにも、率先して解決するべき課題だと孫策は思った。
しばらくの間滞在し、孫家流の調練を叩き込む。袁術軍にも、気概のある軍人がさすがにひとりやふたりいるはずだった。実質的に家を支配している七乃であれば、そのあたりのことにも通じているのだと孫策は思う。結局、組織を変えようとすると、内側の人間がやる気を見せるしか方法がなかった。
このまま駆け続けると、まもなく梁県に差しかかる。
夕陽が美しい時間帯だった。夜間、無闇に走り回ったところで、獲物を捉えることは難しいだろう。野営の準備をしつつ、周辺に見張りを立てるべきなのか。報告にあった一団と遭遇したのは、ちょうどその頃だった。
「あー! 孫策、あんた孫策やんかぁ! なになに、どないしたん、こんなところで」
旗もなにも掲げていない一団だった。対峙して闘気がふくらんだのは一瞬のことで、駆け出してきたのは霞だったのである。
「なにって、おまえたちを迎えにきたのさ、張遼。……ともあれ、知った顔がここに並んでいるということは、予想に違わず見事に負けてくれたようだな、大将軍殿は」
「うっわ。むっちゃ悪い顔しとるでぇ、自分。ちょっと離れてる間に、性格ひん曲がったんじゃないやろなあ、色男さん?」
馬上で冗談を言い合いながら、再会を喜ぶ。霞だけに伝わればいいから、最後の部分、孫策はささやくように声を発していた。
霞の後ろ。数歩下がって、自分を観察している女が二人がいる。ともに、こちらのことを全力で警戒しているようだった。ひとりは、明らかに傾である。それで、雰囲気の似たもうひとりはその妹の何太后なのだろう、と孫策は推測する。護衛の兵は見あたらなかった。連れ出してきたすべてが、討ち手との抗争で死傷させられたのか。あるいは、端から三人で洛陽を飛び出してきたのだろうか。
「おっ、おおっ……? 貴様は、孫策ではないか。ふっ、ふふふっ。あの時交わした約定、まさか忘れてはおらぬだろうな。貴様の要求を受け入れ、余は孫家に長沙を与えてやったのだ。その恩、しかと返して貰おうぞ」
「なんや。孫策にかませるだけの余裕があるんやったら、もっとしゃきしゃき動いてくれたら助かったのになぁ。そんで、追いすがってくる敵兵の相手かて、ほっとんどウチがしてたんやで。なっ、大将軍さま? 誰のために、この張遼が身体張ってきたのか、そこんとこちゃーんと理解してくれてるんやろなぁ? おぉん?」
強行軍と二人のお守りをした疲れで、霞は少々やさぐれている感じがする。血の匂いすら漂わせる飛龍偃月刀だった。その石突で地面を叩きながら凄まれては、傾が怯んでしまうのも無理はない。
「んぐっ……。そ、そんなもの、余のために決まって、うひぃ……!?」
「はあ? すまんけど、よう聴こえんかったからもう一回教えてくれるか、大将軍閣下?」
傾が虚勢を張ろうとした瞬間、霞が再び石突で地面を強打した。
何太后は、状況的に姉が不利だと判断して様子見に徹しているのか。市井あがりの女とはいえ、宮中の政争で磨かれてきた感覚があるのだろう。結局、どの立場で人が最大限の力を発揮するのかなど、やってみなければわからないものだ。
「そのくらいにしておけ、張遼。風呂も酒も用意してやれないが、飯だけは袁家の蔵から余分に持ってきた。今夜は、好きなだけ食っていいぞ」
「ほんまに? やっぱし、あの嬢ちゃんとは組んで正解みたいやったなあ。ふわぁ、んんっ……。再会して早々で悪いんやけど、野営するならウチはひと寝入りさせてもらうわ。ええな、孫策?」
「飯が炊けるか、問題があれば、たたき起こす。それまで、しばらく休んでいるといい」
「ふぁーい。ほんじゃまあ、思い出話はまた後でな」
馬を下りた霞は、すでにまぶたを擦って眠そうにしていた。街道から離れた森林にでも移動するつもりでいたのだが、霞がこの様子ではそれもままならない。大軍に追われているわけでもなさそうだから、手早くその場での野営地構築に取りかかった。
夜。ようやく落ち着けるようになって、孫策は木の根元に腰をおろしていた。篝のそばで休んでいると、傾がおそるおそる近づいてくる。妹も一緒だった。
霞は、腹いっぱいになってまた眠りこけている。
「な、なあ、おい……」
右側に傾が座る。その反対には、妹が陣取った。妹は、ちょっと探るような上目遣いだった。確かに、色気があるし美人でもある。
洛陽を追われて、情緒が若干不安定になっているのだろうか。再会した瞬間にあった高圧的な態度を、傾はどこかに捨ててきたようだ。自分としても、その方が話しやすい。こんな原野の片隅で官位がどうのと言われたところで、正直鼻で笑ってしまう。
「約束を反故にするつもりはない。おまえたち姉妹が安全に暮らせるよう、努力もする。それでは、不満か」
「そ、それだけ? 余と妹を洛陽に還すための軍勢を立ち上げるとか、そういうのは」
「もどったところで、どうなる。いまさら、誰が都落ちした大将軍の命令を聞いてくれる」
「ぐ、ぐぬぬ……。き、貴様ぁ、好きに言わせておけば……」
「はいはい、姉さまは落ち着いて。んと……。孫策くん、だったわよね。ねっ、これがなんだかわかるかなー?」
猛獣を鎮めるような手つきだった。妖艶な笑みを浮かべて、傾の妹が小さく舌を出している。帝や、宮中の人間もこれで骨抜きにされたのだろう。
妹が、開いた胸元に小ぶりな巾着を乗せている。慌てたように、傾が声をあげた。
「んなっ!? どういうつもりだ、
「いいから、姉さまは少し黙っていてちょうだい。それに、切り札は上手く使ってこその切り札でもあるじゃない。うふふっ。それに、この私にかかれば、男なんてちょろいものなんだからぁ。ほーら、孫策くん?」
傾の妹が、身体を密着させてくる。やわらかな感触。合わせて、五本の指が腿のうえを這っている。
「私や姉さまのお願いを聞いてくれたら、いろんな愉しいことさせてあげるんだけどなぁ。この包みや、こっちの中身だって、気になるでしょう?」
「ン……。それは、そうかもな」
「やったっ……。ほらほら、だったら礼節はきちんとわきまえなきゃ。わかるわよね、賢い男の子なら。なんなら、私のことは特別に瑞姫って呼ばせてあげても構わないのよ」
瑞姫がさらに服の胸元を緩めている。この茶番を続けていれば、色白な素肌をすべてさらしてくれるのだろうか。
孫策が、瑞姫の色香に惑わされたように見えているのか、傾は前のめりになって二人のやり取りを見つめていた。
「瑞姫さま、とでも呼べばいいのかな。褒美を得るために、俺はなにをすればいい」
「あら。なかなかいいじゃない、あなた。そうねぇ……。まずは、ってぇ……!?」
危険を察知した身体が、本能的に瑞姫を抱き寄せていた。矢。つい先ほどまで頭があったところに、突き立っている一本がある。小袋の中身が余程大切なのか、瑞姫は両手でしっかりと包みこんでいた。
悲鳴。麾下が発したものだと直感的に思った。おそらく、包囲されている。どうにも、宦官の私兵にしては、周到すぎる手口だという気がしていた。
総数すらわからない敵だった。咄嗟に篝火を消し、孫策は二人と闇に紛れる。
「死にたくなければ、離れるなよ。はははっ。好かれているのは、俺か大将軍殿か。どちらにせよ、敵は斬るまでだ」
低い声で笑い、孫策は愛刀を抜く。生ぬるい嫌な風が、あたりに満ちていた。