林立する軍旗を、華琳はひとり見つめていた。白。『忠義』の二文字が墨書されている旗である。この遠征のために、新しく用意させたものだった。
洛陽の混乱は、極限に達している。まず、想像していた通りに、大将軍である何進と宦官の闘争が激化していた。何進の権力は、帝の后たる妹の存在によって担保されたものである。その唯一無二の後ろ盾が、まさしくなくなっていた。市井あがりの女が権力を握っていることに、反感を持つ人間は少なくない。混乱を機に、何進排除を狙う動きがあるのは不思議ではなかった。
乗馬が曳かれてくる。最近になって、従者として遣うようになった流琉だった。友人である季衣と一緒に雇うことを決めたのだが、どちらもかなり腕が立つ。春蘭や星には遅れをとるが、年若いぶん伸び代はいくらでもある。それに、流琉は料理に関しても腕利きで、なにかとやかましい麗羽を黙らせたのは見事だった。
部隊の参集を待つ間に、考えをめぐらせた。帝のこと。洛陽のこと。そして、麗羽のことだった。もっとも予想から遠いかたちで、自分は乱世に臨もうとしている。おかしくて、つい笑みがこぼれた。
「準備はよろしくて、華琳さん? うふふっ。久しぶりの洛陽ですのに、まさか大軍を引き連れ訪れることになるとは、思いもしませんでしたけど」
「あら、存外早かったじゃないの。あなたのことだから、髪型が決まらないだとかよくわからない理由をつけて、出陣が遅れるものだと覚悟していたのに」
「むっ……。ほんとうにかわいくありませんわね、華琳さんは。いい機会ですから、もう一度言い聞かせておいてあげましょうか。わたくしたちには、力があるのです。未曾有の国難に直面しているいまこそ、その力を極限まで発揮いたしませんと。混迷する洛陽から帝の御妹君をお救いし、各地に号令をかけるのです。わたくしと華琳さんが合力してことにあたれば、必ずや成し遂げることができる。そうでしょう?」
帝には子がなかったが、その妹を世継ぎとすることで全体の合意がとれていた。事実上の次世代皇帝の身柄を抑え、自分たちの領内に迎える。麗羽の本拠地である鄴には、本人の趣味によって宮殿を模した造りとなっているから、暮らしで不便を感じることはないはずだった。
帝と、その正統性を示す玉璽さえ揃えてしまえば、天下の流れは自然とこちらに傾く。あとは、宙に浮いている権威を武力によって裏打ちするだけである。
「わかった。わかりましたから、いちいちそう興奮しないでもらえるかしら。……なんだか、こっちが恥ずかしくなってくるじゃない」
「おーほっほっ。ようやくしおらしいお顔を見せてくれましたわね、華琳さん。わたくし、満足してお腹がいっぱいになりそうです。どうしましょう、このまま動けなくなってしまったら」
「ちっ……。放っておくに決まっているでしょう、そんなもの。春蘭、秋蘭」
「はっ、華琳さま」
無駄に煽り立ててくる麗羽を無視して、指揮官である二人に声をかけた。
陳留から出動するのは一万五千となっていて、遅れて袁家の五千が加わり最終的には二万の部隊となる。調練を重ねてきた精鋭であり、洛陽の小競り合いを制圧するには充分な兵力だと華琳は自信を持っていた。宦官も大将軍も、所詮現場を知らない素人なのである。言ってしまえばどちらも有象無象であり、賊徒を討ち払ってきた自分たちとは経験に圧倒的な差があった。
「進発。玉以外はすべて捨て置きなさい。石ころに構う者には厳罰を。各々、よく心得ておくことね」
「みなさん、凛々しく堂々と進むのです。忠義の軍勢の強大さ、都の方々にとくと見せておやりなさい」
華琳に続いて、麗羽がよく響く声で麾下に言葉を与えた。雄叫びがあがる。士気は高かった。袁家との同盟が成ったことで、兵たちもその気になっているのだろう。
真新しい『忠義』の旗が次々に駆けていく。吹きつける秋風が、背中を押してくれているようだった。
†
いつものように岩山に登り、心を落ち着かせようとした。胸の奥にざわめきがある。それが、しばらく収まらないでいるのだ。
道衣についたポケットの中に手を突っ込む。小さなものに指がふれた。自分が自分であったことを示すもの。張魯となる以前、ただの天歌でいた頃から持ち歩いていた、大切な品である。
自分が本物の張魯であったのなら、きっと瞑想でもして心を無にすることができたんだろうな。そんなことを考えながら、天歌は漢中の曇り空を見上げた。
「おじさま。おじさまなら、こんな時でも無心でいられるんだろうなあ。はあ……。会って勇気をもらいたいよ、いますぐにでも」
思い出のプレゼントを取り出し、じっと見つめた。丸に十字の紋が刻まれた手づくりの木製アクセサリー。ちょっと歴史に詳しい人なら、戦国時代に活躍した島津家のことを思い浮かべるのではないか。
現代の剣聖。語る人によっては、ちょっとした狂人にカテゴライズされることすらある。遠縁の親戚であり、憧れの人からの贈り物だった。自分が現代からきたことを示す唯一の品。最初はどうしてこれがと思いもしたが、そばにあってくれてよかったと感じることが多くなっている。
刀一本さえあれば、無敵になれるのが憧れの人だった。剣聖と謳われたおじさまであれば、この戦乱の世の中にも真っ向から立ち向かえたはずだ。
かつて剣道をやりはじめのも、子供なりに影響を受けまくったからである。
「にひひー。だーれだっ」
奇襲だった。
あっ、と天歌が声を洩らしそうになる。背後から、突然やわらかなふくらみを押しつけられたのだ。それで誰の仕業なのかわかっていたが、自分のような一般人に驚くなと言う方が無理がある。
「あー、また暗い顔しちゃってるよ、天歌ちゃん。どうしたの、お姉ちゃんが悩みごと聞いてあげよっか?」
「うーん、ほんとに? 一回足突っ込んだら、途中で人和ちゃんに投げるのはなしだからね?」
「うっ……。そうやって脅されると、ちょっとしんどくなってきたかも。でもでも、天歌ちゃんを癒やしてあげたいっていう気持ちは、本物だからね」
「ありがと。わかってるよ、天和ちゃん」
ゆるやかに崩れていた自分の知る歴史が、いきなり爆風によって吹き飛ばされたような気分だった。
思えば、切れたナイフのような董卓さんとの会合から、それは加速していったのかもしれない。とにかく、先がちっとも読めない不安に押し潰されそうだった。
ときの帝が襲撃されて、そのまま命を失った。いくら乱世だといっても、正史ではそこまでのことは起きなかった、はずなのだ。董卓が傀儡政権を打ち立てたりはしたものの、帝は三国志の時代を生き残り、魏の曹丕に禅譲を行う。その流れが、著しく狂った。
変化は、それだけではなかった。政争の中で死ぬはずだった何進が生き延び、どうやら荊州に向かっている。荊州といえば、あの孫家だった。劉表とバチバチにやり合うのは間違っていないことだが、董卓や馬超が絡んでなにやらおかしな事態になっている。
その渦に、自分たち五斗米道も巻き込まれている、といっていいような状況がいまだった。
「む……。なにをしているのよ、二人で」
「あー。いらっしゃい、人和ちゃん。えへへー。お姉ちゃんねえ、天歌ちゃんのお悩み相談してあげようと思ったんだけどぉ……」
「難しい話をされそうで、二の足を踏んでいる。そんなところかしら、天和姉さん」
「大当たり。さっすが、人和ちゃんだよぉ」
やってきた人和ちゃんが、隣に腰を降ろす。天和ちゃんのやわらかおっぱいは変わらず背中にあてられたままで、じんわりと心を癒やしてくれていた。
「報告を持ってきたから、まずはそちらから。悩みごとを増やしてしまうかもしれないけど、袁紹と曹操が手を結んだそうよ。それも、合同して部隊を出したみたい。どう考えても、狙いは洛陽ね」
「うーん。力のある二人が国全体を抑え込んでくれたら、一応平和にはなるのかも。けど、そう上手くいかないのが乱世だよねぇ」
「逃げた大将軍の行方も、気になるといえばそうかもね。それと、私たち五斗米道の直接の問題になりそうなことがあとひとつ」
「ええ……。まだなにかあるんだ、人和ちゃん」
天歌の知る歴史の中でも、確かに袁紹と曹操は一度手を組んでいる。ただし、そのきっかけを生んだ董卓はまだ西涼に引きこもっていて、出てくる気配はなかった。あの二人は、組んだとしてもイメージ的に長続きしなさそうな感じがする。ただし、自分の常識がこの世界で通用しないことなんて、痛いほどよく知っている。だから、油断は禁物なのだ。
「奪ったわよ、諸葛亮が」
「へっ? 奪ったっていうのは、まさか」
「えー、なになに? お姉ちゃんも、そっちは気になるなぁ」
人和ちゃんの口から、諸葛亮の名が久しぶりに出た。劉璋から干されているとは聞いていたが、どうやら一悶着あったらしい。正直、答えを知るのがおそろしかった。
「制圧したのよ、成都を。これは噂に過ぎないけれど、初動は数十人だったみたい。そこから賛同者を増やしていって、今度は州牧が蟄居に追いやられた。こわいわね、乱世って」
「うええ……。それ、なんて竹中半兵衛……? 後輩のお株奪うようなこと孔明がやっちゃだめでしょ、普通に。ああもう、私ほんとに頭おかしくなりそうだわ……」
「た、たけっ? いいから落ち着いて、天歌ちゃん。はい、吸ってー、吐いてー」
「すー、はー。ふう、うう……」
頭を押さえて、天歌が岩山のうえでうずくまった。
とはいえ、諸葛亮はどちらかといえば五斗米道に対して穏健派だという印象がある。ポジティブに考えれば、苦労なしに敵が処理されたのだ。益州の状態はカオスそのものだが、不安の種がひとつ取り除かれたと思っていい。
「やっぱり、一度会ってみるべきなのかもね、孫策さんと。天歌さんも、興味あるんでしょ?」
「えっ? そ、それはまあ、一応」
裏方のトップとして、人和ちゃんは五斗米道の組むべき相手を見定めたいのだろう。それを最後に決めるのは教祖たる自分の役目であり、とんでもなく大きな責任が発生するのだった。
孫策。あの董卓さんが、心を融かされた男の人。それだけでも、曹操なんかと同じくらい、この世界の流れの大部分を担っていると思えてくる。
「孫策さんかぁ。どうせなら、かっこいい人だったらいいなー。ねっ、董卓さんからなにか聞いてないの、天歌ちゃん」
「うえっ!? そ、それはね……」
そういえば、孫策の容姿について尋ねることを忘れていた。あの時は衝撃的なことがいろいろとありすぎたのだから、無理もない。
自分の持っているという情報といえば、ただひとつ。
「あっ。おっきいらしいよ、孫策さんのチンチン」
言葉を発した瞬間、世界すべてが凍りつく。
ちょっとウケると思って言ってみた下ネタだった。正直、地和ちゃんがこの場にいれば、上手に拾ってくれていたのだと思う。
後悔先に立たず。極寒になった岩山で、天歌は雪解けだけをひたすらに祈願した。