※この作品はR-18です。

虎となりて   作:KKS

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あけおめです。
今年はもうちょい話進むようにしたいですね。


暗夜の逃避行

 いよいよ、覚悟を決めるべき瞬間がきているのか。

 劉表による統治のもと、荊州が穏やかであればいい。ただ、それだけを願うはずだった。それなのに、孫策という強烈な男の存在に、思考をすべて塗り替えられたような感じがする。

 帝の急死。それも、時代の流れなのかもしれなかった。黄巾党による激動こそ去りはしたが、各地に叛乱の種は根づいたままなのである。間違いなく、乱世なのだ。崩壊と変革の時代を迎え、紫苑は、璃々とどう生きるべきなのか考え続けた。

 近頃は、邸宅で過ごしていても正直気が休まる感じがしなかった。黄祖に、孫策とのことを勘づかれている。いきなり糾弾するようなことはせずに、じわりと首を締め上げられているような雰囲気があったのだ。動くのなら、受け身になるべきではない。自分には璃々がいて、単身敵を振り切るような真似はできないからだ。

 

「いい加減、荊州を騒がす害獣に罰を与えねばならぬ。そのためにも、足下を駆け回る鼠を徹底的に駆除しておかねばな。なあ黄忠、貴様もそう思うであろう?」

 

 軍議で聞いた黄祖の言葉が、しばらく耳から離れなかった。仲を心配した劉備が、なにかと声をかけてくれるようになってはいる。だが、それで黄祖の振り上げた刃が収まるはずがなかった。

 今頃、孫策はお忍びで袁術のところを訪れているはずだ。南陽郡に逃げ込むなら、璃々を連れて長沙まで駆けるよりはずっと楽になる。それに劉表には、南陽袁家とすぐに事を構える気概はない、と紫苑は考えている。

 

「迷っている暇はない、か。わたくしと璃々の命運、あなたに預けさせてもらうわよ、一刀殿」

 

 愛弓を手に取り、紫苑は信用できる麾下だけを集めた。自分の身勝手に、誰かを巻き添えにするつもりはない。危険な逃亡劇に同行するのは、娘の璃々だけで充分だった。

 

「今日までのこと、ほんとうに礼を言わせてちょうだい。もしいつか、また襄陽に戻ってこられるような機会があれば、この黄忠に力を貸してもらえるかしら」

 

 解散する麾下には家財を与え、侍女にはしばらく普段通りの生活を続けるように命じた。自分の出奔は単独での行動であり、ほかの誰も関与していない。それでもなにかあれば、劉備を頼るように言伝た。内緒で面倒事を押しつける格好ではあったが、それで嫌な顔ひとつせずに人助けができるのが、劉備玄徳の美点である。

 最後の訓示を終えて、紫苑は厩舎に急ぎ移動した。もうすぐ、襄陽全体が闇に包まれる。しばらくは、強行軍でいくしかなかった。

 年老いた侍女に手を引かれて、璃々がやってくる。弓を背負い、璃々を鞍の前に乗せた。

 

「いきましょう、璃々。お母さんと一緒に、一刀お兄ちゃんのところへ遊びにいくの」

「うん、わかった。璃々、ちっともこわくないもん。お母さんとだったら、なんだってへっちゃらだよ」

「璃々……。そう、あなたもすっかり大人になったのね。嬉しいわ、お母さんも」

 

 晴れやかな笑顔が返ってくる。

 ここにくるまでに事情を尋ねていたのか、璃々の中で覚悟は定まっているようだった。あとは、母である自分が小さな決心を守ってやれるかどうかなのである。

 熟知した襄陽の城郭を駆け抜け、原野に飛び出した。どこまでも自由な世界が拡がっているような感覚がある。美しい夜空に、璃々もしばらく見入っていた。

 

 

 丘陵を二つほど越えたところで、背後に追跡の気配があることに紫苑は気がついた。敵は徐々に距離を詰め、南陽に入るまでに押し包んでしまうつもりなのだろう。そうなったら、璃々を連れている自分に打つ手はなかった。

 追手を撒くように、一旦森林の方へと馬首を向けた。知らない土地ではない。調練などで幾度となく駆けた経験があるから、迷いはなかった。孫家は、腕のいい間者を多く抱えている。襄陽にいる間は、自分に気を使ってか直接接触するようなことはなかったが、こちらの動きは頭領である明命にも伝わっているはずである。

 

「あと少し。このまま森さえ抜けてしまえば、振り切れるはずだから」

「へいき。璃々は大丈夫だから、お母さん」

 

 戦場を知らない璃々に、恐怖心がないはずがない。どこまでも気丈な娘の態度に、涙が溢れそうになってくる。だが、このくらいの逆境を跳ね返す力なくして、乱世を生き抜くことは不可能なのではないか。

 

「ぐっ、このっ……!」

 

 黄祖の麾下は、さすがに手練れである。地形を熟知しているのは追手にしても同じであり、森を抜ける地点を先読みされていたようだった。すぐさま弓を構え、現れた影に向かって矢を放つ。倒したかどうかなど関係ない。あとは、馬蹄にかけて強引に突破するだけだった。

 敵。揺れた体勢を立て直し、追いすがってくる。十人ほどの影が見えたが、全体像は掴めていなかった。

 この攻撃すら、残りを伏せた地点に誘い込むための罠なのかもしれない。しかし、紫苑にそこまで先のことを考えている余裕はなかった。

 

「お母さん、大丈夫? 怪我、してない?」

「ええ、なんとかね。だけど、まだまだ気は抜けないわよ」

 

 どうにか振り切り、再び丘陵を越えた。月の輝きが強くなっている。そこで、紫苑は思わず息を呑んだ。

 

「ごめんなさい、璃々。できるだけ、頭を低くしていてちょうだい」

「わ、わかった。いいって言われるまで、璃々じっとしてるね」

 

 月光に照らされて、前方に複数の影が見えた。かなりの人数が横長に展開している。吹き抜けた生ぬるい風が、死を強く想起させた。

 肚をくくる。ここで弱腰になっても、現状はなにも変わらないはずだ。だったら、敵の一点を突き崩し、包囲の手を壊しにかかるしかないと紫苑は決意した。敵影が接近する。五本の矢を一度に構え、斉射しようとした。

 

「えっ……? まさか、一刀殿……?」

 

 放つ直前で、紫苑が驚いたように声を洩らした。それまで立っていた敵の影が打ち倒され、あとから新たなものが生まれている。孫策の寄越した援軍だという確信があった。

 いきなり出現した集団とのすれ違いざま、紫苑は少女と思わしき影に声をかけられた。長い黒髪。背丈ほどある反りのある長刀。顔の下半分を布で覆っていたが、そこにいるのは間違いなく明命なのだろう。

 

「袁術殿の城へお早く。孫策さまが、お待ちです」

「あなたこそ、気をつけて。手強いわよ、黄祖の麾下は」

 

 明命らしき影が頷く。異様な殺気をまとった軍勢は、そのまま背を低くして原野を駆けていった。まともな戦をする気配はない。刃の切っ先のように、ひたすら研ぎ澄まされた集団だった。

 どこかから悲鳴があがる。冷え切った璃々の手を温めながら、紫苑は乗馬の腹を蹴った。

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