都の威容が眼前に拡がっている。
洛陽にはじめて訪れた梨晏にとっては、すべてが物珍しいようだった。整然と断ち割られた区画。地方の城郭が比較にならないくらいに道は幅広く、真っ直ぐに伸びている。
一見すると華やかな漢の首都。表面的にはその栄華は衰えず、民衆たちは懸命に汗を流し働いている。しかし実際は、この地には眩い光以上に暗闇が溢れすぎているのではないか。ならず者同然の配下を連れ歩く役人らしき男に、孫策は冷ややかな視線を送っていた。
「あっ。これは一刀さま、一刀さまではありませんか」
「なんだ、明命ではないか。となると、母御の軍勢はすでに到着しているようだな。俺を探しに来てくれたのなら、苦労をかけた」
「いえ! この周泰、孫家の懐刀としてお仕えしていることを、誇りに思っておりますので。ですから、このくらいちっとも平気なのです」
膝まである黒髪を靡かせ、小柄な女が駆け寄ってくる。
外見だけでなく、年齢上でも少女といっていいくらいだった。褐色の肌は健康的で、胸も尻も小ぶりであるのが逆に可憐な印象を強くしている。妹である小蓮同様、女らしさに欠ける体型を気にすることがあるのだが、それならそれで別の魅力を愛せばいいだけだ、と孫策は思うのだ。
孫家の次代を担う若手のひとり。周泰こと明命は、隠密行動にかけては家中で並ぶ者がいないほどの名手だった。剣の腕もかなりのもので、得物が共通していることからよく手合わせをしている。純粋な膂力や経験の差で自分が上回る場合がほとんどだが、意外な搦手を用意していることがあるから相手をしていて飽きることがない。
「やっほー。遅かったじゃない、兄さま。えへへー、撫でて撫でてー?」
明命に気を取られていた横腹を、小さな影に突かれた。
薄桃色の髪から甘い香りがふわりと拡がる。ちょっと高めの体温が、まだまだ子供らしい。
目線の高さを合わせ、小蓮の望み通り頭を優しく撫でてやる。常識にのっとって考えれば、おそらく自分はいい兄ではない。蓮華、それに小蓮のどちらともに肉体関係で結ばれていて、幼い身体に劣情をぶつけることも珍しくなかった。
流れの中で、そっと妹の尻に手で触れる。義母や宿老たちのような弾力こそないものの、なだらかな稜線は非常に手触りがいい。
あまり隠す気がないのか、しゃがんでいると時折小蓮のかわいらしい下着が見えてしまう。
今日は縞模様なのだなと小声で伝えてやると、小蓮はいたずらっぽいほほ笑みと一緒に、きらりと光る八重歯を覗かせる。
「うっ……。ほんとにこの男、取り返しのつかないことをする前に、薄暗い牢屋にぶちこむべきじゃないの。兄さまってことは、その子こいつの妹なんでしょう? どう見たってまだ子供なのに、女の子の身体に汚い手でべたべたと……」
「ふふーん。おっきいのとちっさいの、均衡を考えて選んできたってわけなの、兄さま? そっちのぺったんこのお姉さんは、口が回りそうだし従者にするのにちょうどいいのかもね。あははっ。犬か猫なのか知らないけど、動物の耳をつけた頭巾をかぶっているんだし、首輪に紐をつないでお散歩してあげたら喜んでくれるかもしれないね」
「うっ、ぐぬぬ……。アンタたち、兄妹揃っていい度胸をしているじゃないの。んっ、ふふっ、うふふふっ……」
見てくれのことを言われたのが気に入らなかったのか、小蓮は容赦のない毒舌を荀彧に対しぶつけている。
売り言葉に買い言葉というか、それでまともに勝負に乗ってしまうのだから、荀彧にもまだまだ子供っぽい部分がある。
こんなもの、短い旅の途中に再三見せられた光景であるから、冥琳と梨晏の二人は落ち着いて見守っているだけだった。あるいは面倒になって捨て置いているだけなのかもしれなかったが、事情を知らない明命は表情をくるくると変えてなんとか仲裁をはかろうとしているのだ。
「もういい。どちらも、そこまでだ。俺に子供扱いされていないことなど、おまえが一番よくわかっているだろう、小蓮。猫耳女にどう思われようと、それこそ知ったことではないはずだ」
「はーい。ごめんなさい、兄さま。ねっ、だからちゅってして? あっ。ほっぺたとかじゃなくて、ちゃんとお口にだよ」
小蓮を軽く抱き寄せ、唇を合わせる。
頭を撫でていた時以上に、甘い香りを強く感じる。油断していたところに流し込まれる熱い唾液。明命とよく遊んでいるからか、小蓮も奇襲の術をそれなりに心得るようになっているのだ。
周囲から目立ちすぎないように、明命が壁となってくれている。ほんとうに従順な少女で、誰とも血縁のつながりない孫策が、妹のようにかわいがっている臣下のひとりだった。
「はへっ? う、嘘でしょ、アンタたち。ほんとに兄妹で、あうっ、そんなこと……っ」
「お、おおー。一応話には聞いてたけど、実際目撃すると変にどきどきしちゃうなあ。ねっ、冥琳だってそう思うでしょ?」
「いやいや。孫家一門の近くで過ごしていると、この程度の触れ合いはもはや日常茶飯事なのでな。いちいち驚いていては、それこそ寿命がいくあっても足りないぞ、梨晏よ」
「うへえ……。なんだかすごいところに来ちゃった気がするなあ、私」
ひとしきり妹との口づけを味わい、孫策はゆっくり顔を離す。
公衆の面前での行為に気分を昂揚させているのか、小蓮の瞳に怪しい光がちらついている。そっと腕をつかみ、孫策は真正面から眼を合わせた。
「ン……。それでなのだが、シャオ」
「はふう。えっ、なになに、兄さま?」
「残念だが、この荀彧には目当ての仕官先があるようでな。俺と同道するのは、一応この洛陽までとなっているのだ」
「えーっ、そうなんだ。せっかく仲良くなろうとしてたのに、シャオざんねーん♡」
小蓮の煽情的な声が響く。
自分の武器を感覚的に理解しているというか、とにかく雄の本能に訴えかけてくるのがこの妹の特徴だった。
薄い胸。くびれの少ない腰。なにもかも未熟なはずなのに、それが小蓮にかかると蠱惑の罠となる。
腰に手を当てた荀彧が、苛立ちを隠そうともせずに言う。
「一応じゃないわよ、一応じゃ。はあ……。アンタたち一門の茶番に付き合うのは、もう飽き飽きしているのよ、私は。うふふっ……。いま少しお待ちください、曹操さま。この荀彧めが、間もなく馳せ参じますので」
「ちょっと兄さま、このお姉さん平気なの? ひとりで顔真っ赤にしちゃって、絶対危ないと思うんだけど」
「きょ、兄妹で乳繰り合ってるアンタに言われたくなんてないわよ! はあ、ふう……。それで孫策、結局曹操さまのところには行くの、行かないの? どちらかというと、私はいますぐお別れしたいくらいなんだけどね、最低孕ませ男一行とは。それでもまあ、ここまで警固してもらった恩は、なくもないんだし……」
心に生じた感情を、思うさまぶつけることができるのも、ある意味この女の美点なのかもしれない、と孫策は考えるようになっていた。
冥琳とはかなり毛色の違う軍師像だが、これだけ思いの丈をそのままぶつけられるのは、むしろ清々しいとさえいえるのではないか。
「もちろん、同行させてもらおう。明命、曹操殿がどこで過ごされているのか、存じているな」
「はい、一刀さま。お望みとあらば、すぐにでもご案内つかまつります」
「決まりだな。シャオには、母御への言伝を頼みたい。野暮用を済ませたら、寄り道をせずなるべく早く顔を見せにいくとな」
「はーい、兄さま。いい子で待ってるから、さっきの続きはまたあとで、ね♡」
耳もとで囁く小蓮の吐息が、妙に艶めかしく感じられた。
新たに明命を加え、孫策は都大路を歩きはじめた。
†
「つきました。あちらが曹操殿のお住まいなのです、一刀さま」
「しばらく、おまえはどこかに控えているのだな。備えが必要になる事態には、まずならないとは思うが」
「御意に。それでは、また後ほど」
明命が影の中に消えていく。
これが曹操の住まう邸か、と孫策は門の近くから建物を眺めていた。
警固の任務に就いているのはおそらく私兵で、全員が引き締まった顔つきをしている。中でも門番に立っている女は別格の闘気を放っていて、これだけの麾下を揃えている時点で曹操の実力が本物であることがうかがい知れる。
駆け出そうとする荀彧を制し、孫策は自分が先頭となって進む。
下手な動きをみせれば、問答無用で斬り捨てられかねない。門番をしている女はそのくらい鋭い雰囲気をまとっていて、曹操に試されているような気分にすらなってくる。
洛陽の綺羅びやかさはまやかしで、現実は油断のならない土地である。裏を返せば、つまりはそういうことにもなるのではないか。
門番の顔がはっきりと見えてくる。いかにも気の強そうな眼だけが、自分の動きを監視しているようだった。手にしているのは大柄な剣。かなり使い込まれている様子で、幾人もの血を吸ってきたことを容易に想起させる。
「そこで止まれ。どこの誰だか知らないが、ここは曹操孟徳さまのいらっしゃる邸なのだ。不審者が近寄ることなどこの私が絶対に許さん。ましてや、貴様のように女を鈴なりに連れた男が立ち入っていい場所ではない」
「ははっ。悪くない面構えをしているな、女。俺の名は孫策。ゆえあって、曹操殿に面会を頼みにきた」
「ああ? 孫策などという男の名を、私は存じておらんのでな。いますぐ立ち去るのなら、痛い目に遭わせることはない。どうしようもない阿呆でなければ、この警告の意味がわかるはずだ」
「はて。こちらは、田舎から出てきたばかりなのでな。洛陽風の冗談を使うのなら、もう少しうまくお願いする」
門番の女が闘気をさらに練り上げている。衛兵の間にはざわめきが拡がっていて、なにやら一悶着が起きて然るべき空気が醸成されていた。
女と交わっている時と同じくらい、ぞくぞくとするような痺れが全身を駆け抜ける。刀の柄に握った拳を置き、孫策は女の姿をじっと正面から捉えていた。
視線を外せば、初太刀で遅れを取ることになる。これだけの威圧感を持つ相手なのだ。下手を打てば、勝負は一瞬で決まる。
「こ、この馬鹿! アンタって男は、どうしていちいち話を面倒な方向に持っていこうとしてくれるのよ。いいから、私に話をさせなさい。曹操さまに宛てた書簡が、先立って到着しているはずなんだから」
「んあ……? おい貴様、いま間違いなく私のことを馬鹿にしただろう。よし、決まりだ。どこの死にたがりか興味もないが、わが七星餓狼の錆にしてもらえること名誉に思え」
「へっ……? な、なんなのよ、この女。ねえ太史慈。どう考えても、これって私の責任じゃないわよね。ねえ、そうだと言ってちょうだいよ」
「うーん。強いて言うとだけどさ、あそこで一刀を引き当てちゃった時点で、荀彧の運命は狂わされていたんじゃないかな。だから、諦めよ?」
「う、嘘よ。そんなこと、絶対ありえないんだから」
後方で誰かの崩れ落ちる音がしている。
わずかに重心を低くし、孫策は抜き打ちをできる体勢に移行していた。命令をしなければ、梨晏が無用の手出しをすることはない。洛陽までの旅路は短いものだったが、そのくらいの理解は進んでいる。もっと付き合いの長い明命なら、尚更のことだ。
武の心得がない者でもわかるくらい、周囲の空気が冷たくなっている。孫策は右足を半歩擦り動かし、集中力を高めていた。
「そこまでになさい。どちらも、この曹操の住まう邸の門前で、粗相をすることなど許さないわよ。特に夏侯惇。問題が発生した場合は、一度私に確認するよう申し付けているはずよね。それともあなたは、知っていて主命を反故にしようとしているのかしら?」
「あ、ああっ……。これはその、違うのです、華琳さまぁ……」
「あら。だったら直ちに、なにが違っているのか説明してみなさい。できなければそうね……」
門の奥。邸の中から、ひとりの女が歩いてきていた。
挑発的な仕草。頭の左右に結った、特徴のある金髪。小さな体躯から滲み出る覇気は普通ではなく、すぐにこれが曹操なのだと孫策は確信するに至った。
夏侯惇と呼ばれた女が、半分べそをかきながら土下座をする勢いで、曹操らしき主人にすがりついている。
天下をかけて争うのなら、こういう女とがいい。
刀の柄から手を離し、孫策はまたしても笑っていた。