襲撃を退けた孫策は、血で汚れた着物を取り替えると、堂々と宮殿に向かった。
周囲を、『孫』の一字の旗を打ち立てた梨晏率いる百人の麾下がかためている。傍らに侍るのは、美羽の家中でも筆頭格である七乃だった。ここにきて、自身の存在を秘匿する意味はない。孫家嫡子と袁家との結びつきを、むしろ強調してちょうどいいくらいなのである。
七乃が手配していたのか、途中で美羽の麾下が護衛に加わる。これで領民にも、いまの情勢は伝わっていくのだろう。ほとんど死の刃を突きつけた張本人と言ってもいい七乃が、いたずらっぽい笑顔を向けてくる。ふん、と鼻を鳴らしてから、孫策は天下の大悪人の尻を手のひらで打った。
「ご主人様。この女狐、いつか始末なさってはいかがですか? 策が必要でしたら、この荀彧めになんなりと」
「あのー、孫策さん? 飼い犬……、じゃなくて猫でしょうか。元気がよろしいのは結構ですけど、躾はしっかりしておくべきだと思いますけどねぇ」
孫策を間に挟んで、桂花と七乃が火花を散らしている。
似ているようでいて、どこか気性の違うふたりだった。牽制しようと牙を剥く桂花を、七乃が薄ら笑いでいなすような恰好である。
実害のないうちは、勝手にやらせておけばいいと思った。それよりも、いまは気になっている相手がいる。
「少しは落ち着いたか、劉備」
「あ、はいっ。すみませんでした、孫策さん。さっきは、あんなに取り乱してしまって。えへへ……。恥ずかしいところ、見られちゃったな」
「やって当然だ、あれくらい。俺はこの張勲に乗せられ、おまえは平和を望む気持ちを、黄祖にうまく利用された」
結局、本気で停戦を願っていたのは劉備ひとりなのだ。
黄祖も自分も、その先にある闘いのことしか考えていない。乱世に生きる人間の本質、といえば聞こえだけはよくなる。
熱が冷めきらないのか、劉備が使ったばかりのこぶしを見つめている。
「痛むのか、劉備」
「そう、なのかな。自分でも、よくわからないんです。誰かを殴るとああいう気分になるんだって、そのことがわかっただけで」
あまり抑揚のない声で、劉備が言った。
気持ちの整理が、完全に済んでいないのか。それとも、おのれの中にあった激情を、冷めた視線で見つめようとしているのか。
どちらにせよ、劉表から心は離れている。いまさら襄陽にもどったところで、さらなる戦の火種になることしかできない。それでは、義妹たちにも示しがつくはずがない。
「孫策。前線じゃ、劉備のところの関羽と、うちの呂蒙が闘ってる。劉備が黄祖にはめられたってこと、早く知らせてあげたほうがいいんじゃない。でないと……」
「関羽と張飛の武勇は、劉表軍にとっても貴重なんですもの。そう簡単に、手放してくれるとは思わないけど。今回の策略だって、そういうことでしょう? 劉備の言うことを聞かせられないから、ご主人様諸共消してしまおうって魂胆よね」
「ですねえ。けど、一挙両得ってそんなに上手くはいかなかったりもして。まあ? 黄祖さんからしてみれば、前線でやり合ってる関羽さんまで正確な情報が伝わるなんてこと、ほぼあり得ないって読みなんでしょうけど。実際、そうですよね。敵である私たちからどう言われようと、裏があるとしか思えないですし。孫策に劉備さんが殺されたーって内側から喧伝されたら、そりゃあ頭に血がのぼりますよね、関羽さんだって」
梨晏の提案した流れを、桂花と七乃が引き継いで補完したようなかたちだった。
確かに、ここから戦場まではかなり距離がある。急行するにしても、黄祖からの妨害があることは必至だった。
「関羽のことは気がかりだが、まずは」
「あっ、私……? そっか。うん、そうだよね……」
「手放すか、それとも掴まえたままにするのか。しっかり、考えて決めるといい。孫家は、孫家の闘いをするだけだ。どうなろうと、それが変わることはない。天下を喰らためなら、いくらでもこの手を血で汚す」
劉備が孫家に味方するというなら、それでいい。ひとまず関羽を助け、別々の道を歩むことを選んだとしても、構わないと思った。
「ああっ……。さすがの御覚悟です、ご主人様ぁ……」
「ちょっ、荀彧……。孫策のことが好きなのはわかったから、あんたはしばらく静かにしてなってば」
「うっ、むぐぐっ。なにするのよ、太史慈。はあっ、うぐっ……」
美羽の住まう宮殿が見えてくる。梨晏と桂花の繰り広げる喧騒をよそに、劉備は静かに考えを整理しているようだった。
「張勲。やるなら、掃除は徹底的にやれ。今回のような目に、二度と遭わせてくれるなよ」
「はい、誓って。これでも私、孫策さんのことを結構気に入っているんですよ? お嬢さまの後だったら、子供だって産んであげてもいいかなー、なんて考えているくらいですし。ほら、巷じゃよくありますよね。好きな子に、冷たくあたってみたりして」
相変わらず、どこまで本気で言っているのかわからない女だ。
家中の掃除が終わり次第、霞に軍部を掌握させる。不安に感じる部分がないわけではないが、内政は七乃がどうにかするだろう。いずれは、美羽が一本立ちすることも期待できる。母性にあふれ、経験も豊富な紫苑がそばにいることは、美羽の成長の助けとなるはずだ。
からかうように密着してくる七乃を、梨晏に口を塞がれている桂花が睨みつける。
「しばらく休め、劉備。その間に、俺は報告を済ませてくる」
「ありがとうございます。あの、孫策さん」
一度しっかりと立ち止まってから、劉備が口を開いた。
「桃香です。あなたには、真名を預けておかないとって、そう思えたから」
澄んだ眼差しに、孫策は深く頷いて返した。