想定していた以上に、孫家の守将が粘り腰で耐えている。
劉備軍の暴発に乗じ、長沙の孫堅討伐のための橋頭堡を構築する。それが、当初予定していたことだった。
嫡子を亡くした孫堅は、さぞかし落胆することだろう。あるいは、狂乱してくれても構わない。そうなれば、江東の虎を術中に誘い込みやすくなる。
指揮官の名を、呂蒙といったか。陣中の幕舎で弓の弦を張り替えながら、黄祖が舌打ちする。関羽をけしかけ、攻めさせたところまではよかった。
劉備を殺してしまうのは惜しいが、同時に孫家に甚大な損害を与えられるとなれば、迷うまでもない。袁術による親政を嫌う者に近づき、孫策の居処を突き止めた。牙を剥く猛獣には、相応の躾をしてやる必要がある。ひいては、それが荊州のためにもなるのだから。
側仕えの女が、客の来訪を知らせにくる。
劉表軍本隊は、長沙侵略が本格化するまで温存しておく必要がある。攻めの手が足りていないのであれば、揺らめく怒りの炎に薪をくべてやるまでのこと。
「参上いたしました、黄祖殿」
「関羽か。よい、入れ」
清廉潔白。そういう言葉が似合う女が、憔悴しきって幽鬼のようになっていた。
美しい黒髪は戦場の埃にまみれ、服についた返り血が放置されてどす黒くなっている。これもすべて、孫家による狼藉が招いたこと。関羽に胡床を勧め、黄祖も腰を降ろした。
差し出しされた水を一気に飲み干すと、関羽が勢いよく口を開いた。
「わがことながら、腹立たしい。孫家の奴輩に、幾日も抵抗されるとは。これでは、姉上に合わせる顔がありません」
「そう、自分を責めるな。おまえの献身は、劉備もきっとどこかで見ていよう」
傷心を包むような言葉を、投げかける。唇を噛んだ関羽が、ちょっと鼻をすすっている。
用意しておいた袋を、黄祖が取り出す。中身を眼にした関羽が、はっきりと息を呑んだ。
「黄祖殿。これは、まさか」
「くくっ……。ああ、その……まさかだよ。逃げ帰った者が、おまえと張飛にどうにか形見をとな。さあ、受け取るがよい、関羽」
「あ、ああ……」
手のひらに乗せた髪の束。それを押し抱いた関羽が、声にならない声で哭いた。同様の品が、襄陽にいる張飛にも手渡されているはずである。
袁術領に向かうまでに切り取らせたものであり、始末の結果がどうなっているのか、黄祖もまだ知らされていない。ただ、成否どちらに転んでいようと、思い描いた筋書き通りにことを動かせばよいだけのこと。それが、黄祖の謀略だった。
関羽が落ち着くのを待ってから、黄祖が声をかける。どこかで捨てるべき駒ではあったが、使いようはいくらでもあるのが関羽だった。
「休息が必要なら、いつでも申し出るがよい。その間の攻めは、私の麾下が受け持とう」
「いえ、それには及びません。一日でも早く孫家を討滅し、姉上の無念を晴らして差し上げたいのです。そのためなら、私の命など」
「ああ……、よくぞ申した、関羽。後方からの援護は、われらに任せよ。近く、奴らの首魁も姿をあらわそう。私は闇に潜み、虎の背後を脅かす」
「黄祖殿。何卒、最後の仕上げは劉備軍に。張飛も、すぐにやって来ることでしょう。われら姉妹が力を合わせれば、孫家など敵ではありません」
「励むがよい、関羽。それが、劉備への手向けにもなろう。日に何度か、わが手の者を遣わす。作戦の仔細は、それにて」
深く頷いた関羽が、幕舎をあとにする。
呂蒙は頑張っているようだが、怒りに任せた関羽の猛攻をいつまでも受け流せるはずがない。となれば、次に出てくるのは孫堅だった。南陽で孫策が凶刃に斃れ、その母までもが戦場の塵となる。これ以上なく、甘美な調べだった。その二人さえ消してしまえば、残る有象無象はどうとでも扱える。虜囚とし、いたぶってみるのも面白いか。
「陣を移す。日が暮れるまでに、備えを済ませよ。なにより、虎に気取らせてはならぬ。時が来るまで、こちらの居場所は味方にも知らせるな」
側近が駆けていく。
さあ、いつでも戦場に出てくるがいい、孫堅よ。その狂気に相応しい絶望を、この手でくれてやる。
荊州の地理を記した絵図。指でなぞりながら、黄祖は恍惚とした笑みを浮かべていた。