「フェルンー」
無人の部屋の中に声が響く。
主が不在で、元々少なかった荷物も纏められ簡素な印象を受ける部屋に寝起きでやや掠れたフリーレンの声が反響した。
「フェルンーいないのーー?」
フリーレンは自身の弟子の部屋に来ていた。しかし、そこに弟子の姿はない。声を上げても返事が返ってこない事から、そもそも家の中にはいないようだ。
「外に行ってるのか……鍛錬でもしてるのかな。それとも買い出し?それなら声掛けてくれるだろうし、多分鍛錬かな……」
フリーレンが指導を行った事もある岩を撃ち抜く修行の後も、フェルンは度々外に出て一人で自分の魔法と向き合っているようだ。
フェルンには、定期的に部屋に篭もる日や、一人で何処かへ出かけて行ったりする日があった。ハイター曰くそれは昔からの事で、フリーレンがこの家に滞在する様になる前からの事であったらしい。
「熱心なのはいい事だね」
ハイターの家で数年間を共に過ごした、歳に見合わない生真面目さを持つ少女。
最初にハイターからフェルンを弟子に迎える話を持ちかけられた時、フリーレンは大いに渋った。
しかしそれが今では自分でも意外な事に、すっかり自分とフェルンの師弟という関係が馴染んでいると感じていた。
弟子入りという言葉に対して無意識に仰々しい印象を抱いていたのか。
実現した大きな理由のひとつに、フェルンが非常に手のかからない性格だったことが挙げられる。
分からなくてもできる限りの事は自分で調べて考えて、それでもどうしようも無かった時に頼られるのがフリーレンとフェルンの基本なスタイル。
自分の時間に専念しつつ弟子の成長にも達成感が得られて、物臭なフリーレンにとっては実に丁度いいストレスフリーな関係であった。
然しそんなフェルンの熱心な気質はハイターにはお気に召さないらしく、もっと子供らしく甘えてくれてもいいのにと度々ボヤいていた姿はまだ記憶に新しい。
「あれ、これは……?」
そんなことを考えていたフリーレンはフェルンの机の上に見慣れない物が置いてあるのを発見する。それは飾り気のない簡素なデザインの一冊のノート。
「これ……もしかして、フェルンの魔法の研究ノート?」
ハイターが『人に見えない所での努力を欠かさない子です』と自慢げに語っていたが、その通りにフェルンはあまりフリーレンに踏み込んだ魔法の研究についてはあまり話してはくれなかった。
手がかからないのはいいが、それはそれとしてどんな魔法を研究しているのか気になる。一度くらいは教えててほしい。
フェルンの魔法研究の内容はフリーレンにとってはここ数年来の謎であり、密かな興味を持ち続ける対象であった。
何度か自分にも成果を見せてほしいとか、手伝える事があるかもしれないと言ってみたりもしたが、未熟な自分の研究など見せるのは忍びないとか、単なる趣味で成果などろくに出せていないとか言われて、のらりくらりと躱されて来てしまった。
そんな気になっていたものが今まさに、フリーレンの目の前にあるという状況。持ち主のフェルンは外出中。
(これは……もしかして今、チャンス?)
今ならフェルンにバレずにノートの中を確認できてしまうのでは……そんな邪な考えにフリーレンの脳内が瞬時に支配されかかったが、フリーレンの中にかつての旅の仲間たちによって育まれた常識と理性によって踏みとどまる。
やがてふたつにハッキリと別れた思考を象徴するように、フリーレンの頭の中に2人のフリーレンが現れた。そして脳内フリーレン達は互いに異なる主張を掲げ、言い争いを開始する。
『別に減るものじゃないんだし、少しくらい見ても大丈夫だよ。気になるじゃん』
『人のノートを勝手に除きみるだなんて、よくないと思うよ。ヒンメルもきっとそう言うよ』
『そんなに見られたくないものなら、しっかり管理しておかないフェルンにも非があると思うよ』
『どう考えても悪いのは覗く方だと思うよ。ミスにつけ込むような事は駄目でしょ』
『師匠として弟子がどんな勉強をしているのか把握しておくのも大事なんじゃないかな。もし研究が行き詰っているなら、さり気なくアドバイスしてあげることもできるよ。絶対フェルンにとってもメリットになるよ』
『いや……別にアドバイスできるかどうかなんて分からないし……』
『別にそれでも問題ないでしょ。ノートを見た事がバレなければ結局それでいいんだよ。フェルンも怒らないし、私は魔法を知れる。お互いに損する事がないんだよ』
『なるほど。わかった。それなら仕方がないね。覗こう』
元勇者パーティーとしての誇りと自覚はないのか。幾度かのやり取りで呆気なく陥落した善のフリーレン。飽くなき魔法への探究心に打ち勝つ事はヒンメルのイメージを持ってしても叶わなかった。それも何時ぞやフェルンを弟子にするというハイターからの頼みを受けた時は散々渋っていた割に、師弟の立場を言い訳に使う事に全く躊躇いがない。
(ちょっとくらいなら、きっと大丈夫……)
フリーレンは弟子の秘密を覗く事を完全に決めてしまった。後ろめたい想いが全くないわけではないが、目の前のノートの中身への期待感にフリーレンはすっかり浮かれきってしまっていた。
跡を残さないよう慎重に指先を使ってそっとノートを開く。一体どんな内容なのか、興奮と緊張が走った。
しかしフリーレンの目に飛び込んできたノートの中身は期待とは裏腹に、予想を全く超えた内容であった。
「何……これ…………?」
フリーレンの目に飛び込んで来たのは、殆どが見た事のない奇妙な文字の大量の羅列であった。
ふにゃふにゃとした線の文字と、細かいカクカクとした記号の文字。そして唯一馴染み深いエルフ語。
それらの文字は几帳面なフェルンらしく綺麗に列を揃えて書かれている事から、これらの記号がデタラメでなく、しっかりとした意味を持っているらしいと考えられる、おそらく最低三種類以上の文字が使われているらしい事がなんとなく理解できた。
エルフ語で魔法に関する事が記されているらしくフリーレンは注目するが、残念ながらエルフ語の割合は非常に少なく、可能な限り謎の文字で書かれているようで肝心な魔法の内容はどうにもよく分からなかった。
「エルフ語をちゃんと使えてるっぽいのは関心だけど……他の字は何? 最近の南部ではこんな字が使われてるのかな……?いや、流石に見た目からして違い過ぎる気がするけど」
パラパラとページを捲っていくと時々絵が描かれたページも見つかり、研究はどうやら人体に纏わる内容であるらしい。人型のシルエットの所々に矢印が書かれ、なにやら細かく説明らしきものが書かれている。
「そういえばフェルンがたまに質問してきた魔法って、人体に影響をもたらす魔法が多かった気がする……なんとか解読できないかな」
内容が人体に関わる事だと分かっているなら解読も可能かもしれないと考え、しばらくその場でうんうんと頭を捻ってもみるが、形態から全く異なっているのか、まるで糸口が掴めそうになかった。解読するにしても、ゼロからでは相当な時間がかかりそうだ。
「なんというか、思ってた感じとは全く違ったな……」
期待感は何処へやら。謎の文字列に気押されたフリーレンはすっかり意気消沈気味だ。ちょっとした好奇心でどんな事が書いてあるのか覗いてみたら、全く予想外の中身であった。一体この文字はなんなのか。まさかフェルンが1から作ったのだろうか? そしてなにより、そうまでして隠したがるノートの中身は結局何なのか?
「フェルンの謎が余計に深まっちゃった」
最初はフェルンの魔法について知る筈だったのに、疑問点はむしろ余計に増えてしまったが、中身を見た事をフェルンにバレないようにこのノートは元に戻しておかなくてはいけない。
「フェルンが死んじゃった後にでも、100年くらい解読に費やしてみるのもいいかもしれないね」
手放すのに名残惜しさを感じて悪足掻きする様に文字に目を走らせる。
そうしてノートの中身を可能な限りで探っていたフリーレンは、ある事に気づいてしまう。
「ん……肝心の魔法の効果はよく分からないけど、発動だけなら何とかできるかも。
細かい理論とか考察とかは謎の字で書かれてるっぽいけど、実践的な魔法の部分はエルフ語だし」
魔法だけに限ってならフリーレンは間違いなく世界最高峰の実力者。
様々な魔導書に触れてきた長年の経験と直感により、部分的にではあるものの謎の魔法の片鱗を掴む事に成功した。
よし。
「試しに使ってみよう」
この時フリーレンはかなり浮かれていた。
そもそもノートを発見した時点で、知らなかった弟子の魔法を前にし好奇心が振り切れていた。しかし知れると思った魔法の内容は謎の文字列によって阻まれてしまい落胆した中で見えた糸口。この時フリーレンの心にあったのは魔法への探究心のみであり、それ以外の普段ならできていた筈の正常な思考力は完全に失われていた。
魔法が使えると判断するや否や即座に詠唱を唱え終わり魔法の発動を確信した一瞬、フリーレンに遅まきながら危機感が募る。
魔法の内容がよく分からないのに何も考えずに発動して大丈夫なのか────と。
もう数秒前にその警戒を持てていたのなら。しかしそんな仮定は既に意味のないものとなっていた。
フリーレンの身体を眩い光が包み込み、その眩しさに反射的にに目を閉じてしまう。強力な生命力のようなものが集まって、フリーレンの身体に何かを形成していき───────
『
魔法は無事、発動されたのだった。