その日の客がいなくなり、他の従業員が引き上げても順はまだ喫茶店に居座っていた。嫌そうに顔をしかめた桜がせんべいを器ごと持ってくる。誰かが気を遣ってくれたのだろう。器にはラップがかかっている。ありがたくそれを受け取ってから順はフロアに残っていた奈月と桜に言った。
「あのさあ。紫ちゃん、オレが貰うことになったから」
他の従業員に話を聞かせる訳にはいかないと黙っていたことを順は口にした。のんびりとモップでフロアの床磨きをしていた奈月が慌てたように順を振り返る。
「どういう、ことですか?」
目を丸くしている奈月と、対照的に何事もなかったかのように掃除を続ける桜とを見比べて順は肩を竦めてみせた。
「どおいうコトって、そういうコトだよ。言ったまま」
そう答えて順は煙草をポケットから引っ張り出した。灰皿に何本かねじ込まれていた吸殻を指で端に避けてから煙草に火を点ける。
「だって、水輝さんと紫さんは結婚して、誓いで結ば……!」
モップを握って懸命な面持ちで訴えていた奈月が途中で言葉を途切れさせる。のんびりと煙草を吸いながら順は肩を竦めた。しばし黙ってどこかを呆然と見ていた奈月が目を見張る。
「いったい、何があったんですか!?」
悲鳴じみた声で言って奈月が小走りに順に近付く。何がって言われてもねえ、と呟いて順は吸いさしの煙草を灰皿の縁に乗せた。
「だってさあ。あのまんまだったらマズかったっしょ?」
軽い口調で言ってから順はカウンターに肘杖をついた。
「それは……」
唇を噛んで奈月が顔を伏せる。それを横目に見ながら順は灰皿から煙草を取り上げた。ちらりと桜を伺う。桜は奈月を困らせる奴は容赦しない、とばかりに順を鋭く睨んでいる。別に苛めているつもりはないんだけどなあ、と心の中で呟いてから順は言った。
「いいじゃん。オレが貰うってゆってるんだしさあ。何も紫ちゃんを寒空の下に一人放り出すってんじゃないんだし」
ああ、今は寒くなかったっけね。そう続けてから順は煙草を唇に挟んだ。
「水輝さんと、紫さんの問題です。あなたは関係無いでしょう?」
モップを握りしめたまま奈月が静かにそう告げる。冷たいなあ、と苦笑してから順は頭をかいた。
「オレはただ、急に紫ちゃんと違うヒトが来たらびっくりするだろうと思って教えたつもりだったんだけどねえ。ま、関係ないんなら退散しますか」
財布を出して一枚の紙幣をカウンターに乗せてから順はせんべいの器を取り上げた。そんじゃね、と手を上げて喫茶店の出口に向かう。
「桜さん。訊きたい事があります」
背後で奈月がかたい声で言う。順は店のドアのところで足を止めた。何でしょう、と返答した桜に奈月が向き直る。
「どうして、わたしのメンテナンスの日程を今日に急に早めることになったんですか?」
「それは……」
桜が答えに窮して黙り込む。肩越しに振り返ってその様子を見ていた順はため息を吐いて言った。
「カノジョは悪くないよん。オレがそう仕組んだんだもん」
そう言って順はいつものだらしない笑みを浮かべた。鋭く奈月が順を振り返る。
「紫さんをかどわかすために?」
「ま、そゆコトになるかなあ。どうでもいいけどさあ」
気楽に言ってから順はドアの横に寄りかかった。背中を壁に預けて顎をしゃくる。
「オレがキミの視界に入ってないってのは知ってるつもりだけどね。じゃあキミはどうしたかったのさ」
笑いを消して訊ねた順を今度は桜が睨む。こちらは奈月を傷つけるものなら容赦しないという意味だろう。だが順はあえて桜の視線を無視した。
「わたし、わたしは……」
困惑した面持ちで奈月が言葉を途切れさせる。順はため息を吐いて奈月を指差した。
「あのさあ。キミが水輝ちゃんととっても仲がいいのは判るし、ヘタすると感情までリンクするって判ってて言うのは酷かもだけどさ」
身構えた桜を目で制してから順は続けた。
「判ってる? 水輝ちゃんはカレを殺したの。おっけー? こ、ろ、し、た、の。もう居ないんだよ、カレは。居ないヒトの幻影をいつまでも追っかけてるなんて、ナンセンスっしょ」
水輝は無意識に紫に立城の幻想を見ていたのだ。そのことは恐らく奈月も薄々は気付いていたのだろう。顔が強張る。
「立城さんは戻ってきます! 必ず、戻ってきます!」
必死の面持ちで言う奈月の目が潤む。あう、と呻いて順は頭をかいた。奈月を泣かせたなどと水輝に知れたら百叩きどころでは済まなくなる。
「いつかはね。でも今は居ない。それにもしも木龍神が生まれたところで、それはカレ自身じゃないんだよ」
水輝に殺されるかも、と心の中で考えつつも順はそう言わずにはおれなかった。例え転生して地上の王が再び現れたとしても、その人格全てが立城と同一な訳ではない。
「いいえ。それは違います。転生の輪は無関係ですから」
そう言った奈月自身がはっとしたように目を見張る。やれやれとため息を吐いて順は肩を竦めた。
「まあ……キミが時空なヒトと仲良しサンなのは知ってるけどね。あんま、負担かけるとかわいそーよ? 他で口走る時は気をつけるんだね」
そう言ってから順は壁から背中を引き剥がした。
「力が、どうして? 溢れて、きゃっ!」
悲鳴を上げた奈月がその場に尻餅をつく。慌てたように桜が奈月を助け起こそうとして弾き飛ばされる。あう、と呻いて順は頭をかきむしった。奈月の髪が見る間に暗い群青色に染まる。
「こっちに出てきやがったのかな。それとも」
呟くように言って順は手近なテーブルにせんべいの器を乗せた。
「わたし、どうして、こんな、力が。んっ、水輝さんっ」
泣きながら奈月が震える腕を床につく。深々とため息を吐いて順は手の中に黒い宝珠を引き寄せた。手の中に握った宝珠が瞬く間に大きな漆黒の鎌に転じる。柄を両手につかんだ順は奈月の周囲に展開された攻撃的な結界を鎌で一気に切り裂いた。
奈月は水輝に引っ張られるので……色々大変……。