「夢魔とは淫魔の古い名称です。かつて世に蔓延っていた淫魔の要素を青龍王は木様に注がれているんです」
口早に説明しながら桜は奈月を引き起こした。
「桜さん。さっきの話、少ししかわからなかったけれど。結局、わたしは、水輝さんの一部なのね?」
涙を拭って奈月が言う。さっきよりは少し落ち着いているらしい。そのことを確認してから桜は言った。
「今は一部でなく大部分ですが」
きっぱりと言った桜を見つめてまた奈月が涙ぐむ。ああ、と顔をしかめて桜は一度は納めたハンカチをスカートのポケットから出した。
「だったら、早く力を戻さないと、水輝さんが」
桜からハンカチを受け取った奈月が涙を流しながら言う。桜は苦笑して心配ありません、と頷いてみせた。
「青龍王の本来の特質は鏡です。人の欲望を映す、意志のない鏡、それが彼の特質です。ですから、今のあの夢魔としての特質は、ある意味では彼が呼んでいるんです」
小さく笑って桜はさっきまでいた優一郎のことを思い浮かべた。
「桜さん、あの……」
言いにくそうに呼びかけた奈月に桜は何でしょう、と問うた。
「だから、水輝さんは水輝さんだけど、水輝さんじゃないから、今はわたしが本来の水輝さんに近いの。だから……」
半分泣きながら奈月が言うのを聞いて桜は思わず吹き出した。奈月の言いたいことは理解出来るが、言い回しがおかしかったのだ。
「姫様。人格とは何だと思われますか?」
桜は奈月の手を優しく取りながらそう訊ねた。それまで涙ぐんでいた奈月が不思議そうに首を傾げる。無言で首を横に振った奈月に笑みかけて桜は言葉を継いだ。
「人格とは魂に付された標識です。……最初から青龍王の魂は姫様の中にあるんですよ」
そう言って桜は奈月の胸を指差した。奈月が戸惑ったように自分の胸と桜とを見比べる。
「わたしの中に?」
胸に手をあてがった奈月が少しだけ表情を緩める。桜はそんな奈月の目を覗きこんだ。
「姫様はあの青龍王をお好きでしょう?」
人格は珠に付された標識である。が、人格とは一重ではない。いつか紫翠から聞いたことを思い出しながら桜は優しく奈月に語りかけた。すると真剣な表情で奈月が頷く。
「あの女たらしでどうしようもない青龍王を、今現在一番欲している、要するに身体を欲しいと願っているのが彼というだけの話。大逆転はここからでも十分に可能です」
桜は生真面目な表情でそう告げた。奈月が不思議そうに何度か瞬きを繰り返す。
「あっ」
奈月が唐突に声を上げる。桜は顔を上げてにっこりと笑った。
「何のためにハンターがこうも都合よくわたくしたちの傍に転がされているとお思いですか。邪魔な特性など追い出してしまえばいいんです」
きっぱりと言って桜は奈月の手を強く握り締めた。青龍王に木龍神の力を持つ奈月が囚われるのは正直腹立たしいが、欲しいと思うなら仕方がない。
「桜さん……」
頷きつつ、奈月が不安そうな顔で桜に呼びかける。桜は何でしょう、と返して首を傾げた。頭の中では既にどう動くかの算段中だ。
「あの水輝さんは今は水輝さんだけど、水輝さんじゃ無くなってしまう可能性があるということ? 紫さんみたいに」
「……青龍王はどこまで行っても青龍王です。変わってくれたらどんなにありがたいか」
くっ、と唇を噛んで桜は呻くように言った。ついでに奈月から受け取ったハンカチの端を噛む。悔しい顔をした桜を不思議そうに見てから今度は奈月が首を傾げる。
「わかるわ。水輝さんは水輝さん。だけど」
そう言ってから奈月がおもむろに自分の胸に手を突っ込む。何事かと目を見張った桜は奈月が取り出したものを見て絶句した。理屈では判っていたが、実際に目にするのは初めてだ。奈月は美しい青い宝珠を手に取り出していた。
「わたしは自分が水輝さんの宝珠だと思っていた。でも違うのね。わたしは水輝さんの一部だけど宝珠じゃない」
そう言ったかと思うと奈月は胸の内側から次々に透明な宝珠を七つ、取り出した。桜はそれを見て慌てて首を横に振った。きょとんとした顔をした奈月に急いで宝珠をしまうように告げる。
「まずいんです! それがここにあるのは!」
いいから、しまって。そう言って桜は手をばたばたと動かした。よほど焦った桜が珍しかったのか、奈月が大人しく宝珠を器にしまいこむ。
「あの、えっと、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げた奈月の目の前で桜はがっくりと床に膝と手をついてうなだれた。あのろくでなし、と思わず呟いてしまう。水輝は恐らく、こうなることを見越していたのだ。
「えっと、あの、本当にごめんなさい」
泣きそうな顔で詫びる奈月に桜は慌てて首を横に振った。
「いえ、姫様は悪くありません。悪いのは青龍王です!」
珍しく力んで言いながら桜はがば、と身を起こした。それから慌ててすみません、と付け足す。水輝を悪く言われることを奈月は毛嫌いしているのだ。桜が思った通り、奈月は恨めしそうに桜を睨んでいた。
「桜さん。一度、御姉さまのところに戻りましょう。それから……」
「駄目です!」
桜はきっぱりと奈月の提案を拒絶した。すると奈月が驚いたように目を見張る。渚は駄目だ。普段、どんなに頼りになっても渚は水輝に対してはどうしても甘さが出る。それと同じ理由で水輝に関わりのある女性に頼ることは出来ない。
「火龍神の本邸に参りましょう。幸い、青龍王の宝珠が結界を粉砕してくれていますから」
奈月が居てくれれば移動には大した時間はかからない。
「茜さんのところに?」
不安そうにする奈月の肩を桜は励ますように叩いた。
「大丈夫です。もしも何かあったら身を呈してお守り致します」
恐らく奈月に危険はない。そうは思ったが桜は奈月を安心させるためにそう言った。
「わかったわ。それでは跳びますっ」
頷いた奈月が桜の手を取って力を発動させる。桜が散々に迷った界を繋ぐ道を奈月はあっさりと通り抜けた。視界が転じたと思った瞬間、いきなり身体が落下する。慌てて身を立て直そうとした桜は、唐突に足首をつかまれて逆さまに吊り下げられたところで静止した。どうやら奈月の開いた道が木村本邸のどこかの部屋の天井に繋がっていたらしい。奈月の方はと言えば、順に片腕に抱きとめられている。
一瞬で世界を渡る時点で奈月はちょっと変わってるというか……。