「きゃああああああああああああ」
盛大な悲鳴を上げて奈月が右手を振る。無残に平手を食らった順を桜は同情の眼差しで見た。が、早く降ろして欲しい。
「いたたた。いきなり現れたと思ったら、何なのさ」
ぼやきながら言って順がぱっと手を離す。急に開放された桜は無様に床に転がった。どうやらここは順の執務室らしい。
「あ、あの、えっと、ごめんなさい」
詫びつつ頭を下げてはいるが、奈月はじりじりと順から離れていく。桜は痛む肩を押さえながら立ち上がった。えー、と苦笑する順と奈月との間に割って入る。
「失礼致しました」
そう言って丁寧に頭を下げてから桜はにっこりと笑ってみせた。どうやら順は仕事中だったらしい。だが二人が落ちてくるのを察知してわざわざ受け止めてくれたのだろう。作業中の机の様子と順とを見比べて桜は頷いた。
「あの、ありがとうございました」
恐々と桜の背に隠れていた奈月がそう言いながら恐る恐るに順の前に進み出る。順はそんな奈月と桜を見比べてからにやにやと人の悪い笑みを浮かべた。
「今日はー、克人が休むって件を伝えてねってゆったよねえ? もー、不在にするならするってゆってよね。担任から電話かかって三人分の言い訳しちゃったよ、オレ」
へらへらと笑いながら順が自然な動きで二人にソファを勧める。桜は奈月と顔を見合わせてから大人しく順の勧めに従うことにした。
「えっと、あの、いろいろと本当にご迷惑おかけしました」
「ヤだなあ。じょーだんよ、冗談。あ、二人とも紅茶でいい? それともコーヒー?」
嬉しそうに笑いながら順がテーブルの上のベルを取り上げる。桜はしばし黙考してから紅茶を頼んだ。隣に腰掛けた奈月も同じものをと言う。それを聞いてから順がベルを振る。澄んだ音が響いた後、執務室には一人のメイドらしき女性が現れた。
「あ、このお嬢さんたちには紅茶、オレはコーヒーちょうだい。あっついのね」
そう順が命じた後、メイドが恭しく一礼して下がる。それを見て桜は感心して頷いた。木村の当主だということは判っていたつもりだったが、誰かに命令している順の姿を見たのは初めてだ。
「あの、この部屋はきちんとそれなりの結界かかってますけど、外の結界は……。これって、もしかして」
泣きそうな顔で奈月が言う。桜は平然とした面持ちで頷いた。木村本邸の周辺に張り巡らされていた結界は完膚なきまでに破壊され、おまけに修復妨害のための対抗用の結界が張られているのだ。それが奈月の所有する青龍王の宝珠の仕業だということは桜も気付いていた。
「どーもね。オンナノコに泣かれると弱いよね、オレも。いいっていいって。奈月ちゃんのせいじゃないんしょ?」
へらへらと笑って順が手を振る。順にとってみれば特に大したことでもないのだろう。実際、屋敷の内部の結界はほぼ無事だ。
「わたし、やっぱりここに来たんですね」
「んー……まあ、奈月ちゃんではあったかも知れないけど、奈月ちゃんじゃなかったよねえ」
間延びした言い方をしつつ順がソファに深く寄りかかる。そこでふと聞き慣れない電子音が鳴る。ごめんね、と言って順がアロハシャツのポケットを探って携帯電話を取り上げる。どうやら順の電話の音らしい。
「オレだ。……うん。見つかった? ……はあ? 何だ、それ。なめてんの?」
顔には相変わらずだらしない笑みを浮かべ、順が声だけを強張らせる。その間に執務室には三人分の茶が運ばれてきた。順の前には濃いコーヒーが、そして奈月と桜の前にはティカップが置かれる。そしてテーブルの真ん中に菓子を盛り付けた皿を置いてからメイドが静かに退室する。その間も順は声だけを器用に機嫌悪くして話を続けていた。
「今晩、九時までに確保しろ。出来なかったら殺すから」
それだけ言って順が電話を切る。あはは、と笑って順はポケットに携帯電話を戻した。相変わらず読めない思考形態だ。桜は出された紅茶をありがたく飲みながらちらりと奈月に目をやった。奈月はいつの間にか怒りの表情で順を睨んでいる。
「ヤだなあ。そんなに熱烈な視線、飛ばさないでよお」
調子よく言いながら順がコーヒーカップを取り上げる。
「あなたは、以前と全く変わっていらっしゃらないのでしょうか……?」
哀しそうな声で奈月が言う。それを受けた順が眉を上げてコーヒーを啜る。その表情は表面的には全く変わりがない。
「んー、まあオレのことはいいじゃん? それよりさあ。二人してどったの、今日は」
相変わらずのだらしない笑みを浮かべながら順が言う。桜は皿からチョコレートを摘み上げて丁寧に包みを剥いた。不安そうな奈月の視線に頷いてから桜はチョコレートを口に放り込んだ。熱い紅茶でチョコレートの甘みを喉に流してから順に向き直る。
「単刀直入に申し上げます。青龍王の淫魔の特性を引き剥がしてください。ただとは申しません。引き剥がした後の特性は、そちらでお使いになれるでしょう?」
すらすらと言った桜を順が面白いものでも見るような目で眺める。ふうん、と呟いてから順はふと天井を仰いで口許に手を当てた。
「なるほど。だから紫ちゃんがおっこってきたのか」
どうやらこちらの事情はある程度は把握しているようだ。順のせりふから桜はそう判断した。
「どうして? 紫さんは水輝さんが!?」
「いや、オレにもよく判んないけどね。木村の地に唐突に何かが落っこちてきたんだってさ。分析結果の末、紫ちゃんだって判ったんだけどね。だから今、追跡中なんだよ」
言いにくそうに告げて順が頭をかく。
「どうして……」
唇を噛んだ奈月としかめっ面の順とを見比べて桜は肩を竦めた。
「彼女の件はわたくしたちには関わりのないこと。姫様、二兎を追うものは何とやらです。この際、青龍王に的を絞って話を進めませんか?」
紫については既に自分達から話が離れてしまっているのだ。そう思いつつ桜はそう提案した。俯いた奈月がこくん、と頷く。それを見取ってから桜は順に向き直った。
「見たところ、あの俗物……失礼。蘇芳さんは先が短いのではありませんか?」
桜は真顔でそう順に問い掛けた。それまで始終、だらしのない笑みを浮かべていた順がぴくりと眉を上げる。コーヒーをずず、と啜ってから順は横目に桜を見た。
「んーなこと、誰に聞いたの?」
平坦な順の問いかけに桜は即答した。
「見れば判ります。それに、彼はハンターとは少し異なるのではありませんか?」
ハンターとは龍神の持つ龍宝珠を狩る者の意だ。だが、あの克人は龍神である奈月や他の者を見ても特に異変はなかった。もちろん、欲求を抑える何がしかの方法はとっているのだろう。それにしても精神が余りにも穏やか過ぎる。よく言えば落ち着いているが、悪く言えば老成しすぎているのだ。
「桜さん! そうよ! 今なら救えるわ!」
そう言ってがば、と立ち上がった奈月の腕を桜は強く引いた。ソファに落ちるようにして腰を戻した奈月が慌てて桜に取りすがろうとする。だが桜はそれを制して告げた。
「彼なら夢魔の特性を食えませんか?」
そう告げた桜を順が目を細めて見つめる。考えるように口許に手を当てた順が低い声で言う。
「要するに、夢を食う特性を取り込ませろ、と。こういうことかな?」
「お互いに悪い話ではないはずです」
鋭い順の目を睨み返しながら桜はきっぱりと告げた。
このエピソードで九章は終わりです。