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「あんまり使いたくないんだがな」
仕方ないか、と呟いて多輝が克人の手をつかんだまま、転移する。多輝の力が放たれた途端に克人の視界は弾け、次の瞬間には青い空が見えた。ぐらつく頭を押さえた克人の身体を多輝が軽々と片腕に抱え上げる。
「ちょ、ちょっと!」
「転移酔いだろ? いいからじっとしてろ」
瞬間移動に不慣れなために克人は車酔いに似た症状を引き起こしていた。どうやら多輝にはそれが触れているだけで判ったらしい。その事を知った克人は文句を言いかけていた口を閉じた。片腕に克人を楽々とぶら下げて多輝がゆっくりと歩く。だが不思議と乱暴な抱え方にしては身体が揺れない。克人は深々と息をついて身体に不自然に込めていた力を抜いた。
誰もいない屋上を大股で横切った多輝が大型のタンクで出来た影に入ったところで足を止める。静かに下ろされた克人は深く息を吐いてネクタイを緩めた。自分で転移する時には平気なのに、とぼやきながら克人はその場に座り込んだ。
「それで? こんなところまで引っ張ってきた理由は何ですか?」
「周りに他の奴がいたら、気を遣って喋んなきゃなんねんだよ。考えながら喋るとまともに話せないだろが」
顔をしかめて頭をかきながら多輝が言う。確かに食堂にいた時に比べると大分リラックスしているようには見える。ふうん、と呟いて克人は何度か瞬きをした。
左眼が熱い。瞼を押さえてしばし俯いてから克人はにこやかな笑みを浮かべて顔を上げた。
「そう、その目だ」
克人は多輝に呼びかけようとしていた声を飲んで唇を引き結んだ。多輝は真っ直ぐに克人を見つめ、右手の人差し指で克人の左眼を指差している。克人は左の瞼を押さえたまま、浮かべていた微笑みを消した。
「これがどうかしましたか」
そう言いながら手を下ろして瞼を開く。見た目にも機能的にも克人の左眼は特に変わったところはない。誰かが見止めたところで疑問には思わないだろうし、ごく当り前に物も見える。
「ちょっとよく見せろ」
顔をしかめたまま多輝が克人に手を伸ばす。だが克人は肩をつかまれる寸前にするりと身をかわした。空振りした手を見つめて多輝が嫌そうに舌打ちする。気分の悪さを堪えて克人は腰を上げた。再び伸ばされた多輝の手を避けて身を捻る。今度は多輝も一度では諦めなかった。右手が空振りした直後、左手を素早く伸ばす。続けて向かってきた多輝の手を克人はひらりとかわした。昼休憩に呼び出してくれた複数の男子生徒たちに比べると多輝の動きは格段に速い。だがそれでも克人にとって楽に避けられる範囲内の速さだった。
「こ、のっ! ちょこまかとっ!」
「ボクは普通に避けてるだけなんですけど」
困ったように笑って克人は首を傾げてからひょい、と身を屈めた。勢いよく迫っていた多輝の手が克人のいた空間を薙ぐ。動くたびに多輝の膝下までのスカートが翻る。ブルーグレイのスカートの動きに克人は何となく見とれた。乱暴な動きをしている割には多輝のスカートはめくれ上がったりしない。
ふうん。手加減してるんだ。克人は心の中で呟いてぴたりと動きを止めた。それまで空を切っていた多輝の手が克人の胸倉を捕まえる。克人が唐突に一切の抵抗を止めてしまったことが疑問だったのか、多輝がそこで動きを止める。
「何で急に」
「本気を出されたら怪我をしそうだったので」
にっこりと笑って克人はそう説明した。すると多輝が鼻白む。胸倉をつかんで引き寄せられた克人の身体は宙吊りになっていた。力任せにつかまれている分、首がシャツの襟首部分に締め付けられて呼吸が困難になる。だがそれでも克人は平然と多輝に笑みかけた。
「それで、ボクの目がどうかしましたか?」
左眼を指で示しながら克人は首を傾げた。それまで黙っていた多輝がじっと克人の左眼を覗き込む。それだけで克人の目は熱を帯びた。左眼を通して順が多輝を見ているのだ。その特有の感覚に克人は思わずため息をついた。
間近に顔を寄せ、多輝が目を覗き込む。克人はそんな多輝を瞬きすることなく見つめ返した。そうしている内に熱を持った左眼にだけ涙が浮かぶ。片方の視界だけが涙で揺らぎ、克人は思わず瞼を閉じ、目元を指で拭った。
不意に多輝が手を離す。焦った声を上げた克人は無防備に放り出され、その場にへたり込んだ。どういうことか、と訊ねようとした克人より早く、多輝が呆れた声を上げる。
「何でいきなり泣くんだよ」
克人は涙の滲んだ目元を拭いつつ苦笑した。どうやら多輝は克人が嫌がって泣いているものと理解したらしい。
「いえ。これは深い意図があって流している訳じゃなくて、勝手に出るんです。ボクの感情には関わりのないところで起こる現象ですから、お気になさらず」
目を介して見ている順が特に感情を動かしている訳でもないらしい。そのことは克人は順から直に聞いている。
克人は他のハンターとは少し異なる方法で生まれた。地面から生えるのでもなく、人から生まれるのでもない。克人はとある実験室で作り出された、言わば人工のハンターなのだ。そして順は生まれた克人の左眼をくり抜き、かわりに力のこもった空色の珠を埋め込んだ。もっともその作業は克人が意識をなくしている間に行われ、克人自身が痛みを感じることはなかった。埋め込む作業の前に順が見せてくれた空色の珠はまるでビー球のようだった。だが克人の左の眼窩に嵌った後、珠は目とほぼ変わりない機能を持つモノへと変化したのだ。
順に目を与えられたのは大勢の実験体の中で一人だけ。克人は幼い頃にそのことを誇りに思った。今ではもう、目として動いている者は他にもいる。だがあの頃はそのことは克人にとっても、そしてまた他の実験体にとっても酷く特別のことだったのだ。
その誇りは今でも続いている。生まれた時から克人にとって順はずっと憧れの対象だった。唯一無比の光とも言っていい。克人は制服のポケットからハンカチを出して丁寧に左眼の周りを拭った。ついでに頬を流れていた涙も拭き取る。
「あれ? もういいんですか?」
顔をしかめた多輝がそっぽを向いたのを見て克人は声をかけた。すると多輝が横目に克人を睨む。その頬は僅かに赤くなっていた。どうやら克人のことをどうしても幼い子供としか思えないらしい。そのことに気づいた克人は苦笑した。多輝にしてみれば、幼い子供を苛めてしまったような気でもしているのだろう。
ばつの悪そうな顔をして多輝がくるりと克人に背を向ける。
「いい。どっちにしろ、その目がちょっと変わってるってのは判ったし」
機嫌悪そうな低い声で言い放ち、多輝は歩き出した。克人を振り返ることもなく階下に続くドアに向かう。やれやれと肩を竦めて克人は立ち上がった。屋上側から開錠してドアを開けたところで多輝が振り返る。その顔にはまだ罪悪感が残っていた。
「いいか。変な真似とか絶対、すんなよ」
克人を指差して言ってから多輝がドアの向こうに消える。そんなことしませんよ、と誰もいなくなった屋上で克人は呟いた。少なくとも、順に命じられるより速く何事かを為そうとは思わない。ため息をついてポケットを探った克人はピルケースを取り出した。振ってみると軽い音がする。
「やれやれ。明日からはもう少したくさん持ってこないと足りないかな」
そう言いながらピルケースを開き、克人は中に残っていたカプセルを一つだけ口に放り込んだ。
克人にその気がなくても色んなのに忠告されるんですよねw