五時間目が終わる頃にはあれだけ晴れていた空も雲に覆われてしまった。どんよりと翳った空が酷く不気味に見える。多輝はぼんやりと窓から空を見上げて小さく息をついた。
教卓の前では男性教諭が何事かを喋っている。数学の授業なのだが、その内容は多輝の耳には入っていなかった。やがて曇った空からぽつりぽつりと雨が落ち始める。窓の向こうに見える雨粒を多輝はじっと見つめていた。机に置かれた授業に用いる端末画面は自動でスクロールしている。教師が打ち込む数式が解説と共に流れているのだ。
蘇芳、克人。昼休憩に見た生徒のことを思い出す。小学生にしか見えなかった克人は、見かけの純朴さとは裏腹にとても危険なものを孕んでいる気がした。あどけない笑みが多輝の目には奇妙なものとしか映らなかったのだ。
左眼だけが酷く不気味に見えた。そのことを思い出しながら多輝はそっとため息をついた。
「……吉良瀬!」
不意に呼ばれた多輝はうろんな目を教卓の方へ向けた。よそ見をしていることに気づいた教師が少し怒ったような顔で多輝を睨んでいる。多輝はやれやれと胸の中で呟きながらはい、と返答した。
「この設問に答えなさい」
かたい声で促されて多輝は気だるい表情で端末画面を見た。ホワイトボードがある場所には授業用のスクリーンが下ろされている。そこには各生徒の端末に表示されている内容と同じ数式が連なっている。多輝はちらりと端末を見てからキーボードを打った。多輝がキーボードを打つごとに教師の顔色が悪くなる。最初から解けると思わなかったからこそ指名したのだろう。だがそんな教師にお構いなしで多輝は次々に数式を打ち込んだ。
「せ、正解」
頬を引きつらせた教師がぼそりと告げる。そんな教師を余所に多輝は窓の方を向いた。ヒューマノイドの演算処理能力をなめるな、と心の中だけで呟いてみる。この春に清陵高校に赴任したばかりの教師は、その授業中は多輝を指名することはなかった。
六時間目の授業の後にクラスでの話し合いがしばし行われた。文化祭の期日が迫っているため、出し物の役割分担が決められたのだ。多輝は特にやりたい役もなかったため、周囲の勧めに従ってウェイトレスをすることになった。どうやらただの喫茶店ではつまらないという結論に達したらしい。だがその日の話し合いでは喫茶店のテーマは決まらなかった。各自、明日までに考えてくるようにというクラス代表の言葉を締めくくりに話し合いは終わった。
いつものように群がってくる男子生徒たちを適当にあしらい、多輝は一人で教室を出た。地下の部室に向かおうとしてふと足を止める。そういえばこの学校の生徒たちのプロフィールは生徒会なら押さえている筈だ。多輝はいつもとは逆に階段を昇り始めた。校舎の四階も賑やかな生徒たちの声に包まれている。一年生の教室のある校舎の四階の廊下を多輝は考え込みながらゆっくりと歩いた。
気持ちの悪いものは自分で調べた方が落ち着くし。そんなことを思いながら歩く多輝を生徒たちが不思議そうな目で見る。だがそんな一年生の視線に多輝は全く気付かなかった。
「あれ? 吉良瀬さん?」
ふと、聞き覚えのある声が聞こえて多輝は足を止めた。生徒たちの中で一際背の低い男子生徒を見止めて多輝は目を細めた。鞄を背負った克人が笑顔で手を振っている。
「どうしたんですか? 誰かに用事でも?」
にこにこと人好きのする笑みを浮かべて克人が訊ねる。いや、と言葉を濁して多輝は何気なく周囲を見回した。さっきまで賑わっていた生徒の声が聞こえなくなっている。怪訝に思いながら回りを見た多輝はぎょっとして目を見張った。いつの間にか周囲の生徒たちに注目されている。しかも中でも男子生徒は克人を鋭い目で睨んでいた。だが当の克人はそのことにまったく気づいていないのか、にこにこと笑っている。
やばい。意味はよく判らなかったが妙な危機感を覚えて多輝は慌てて歩き出した。すると克人が待って下さい、と慌てた声を上げて追って来る。多輝は急ぎ足で歩きながら克人を振り返った。
「ついてくるなっ」
「はい?」
不思議そうな顔で克人が足を止める。それを見て取って多輝はよし、と頷いてから急いで一年生の教室の並ぶ廊下を抜けた。目的の生徒会室の前に立って息を吐く。とりあえず奴のプロフィールを調べるところからだな。多輝はそう自分に言い聞かせて一人、頷いた。
「もう。急に行っちゃわないでくださいよ」
唐突に間近で声がする。多輝は驚いて隣を見た。一体、いつの間に近づいてきたのか、克人が多輝の真横に立っている。
「なっ、なんでっ」
「伝言をお願いしようと思って……吉良優一郎さんって方がこの学校にいらっしゃるでしょう?」
克人がそう言いながら多輝を見上げてにっこりと笑う。多輝は眉を寄せて口を噤んだ。答えに窮した多輝を置いて克人が言葉を継ぐ。
「昼の休憩時間に探したんですが見当たらなくて。放課後はすぐに帰られるらしいって聞いたし」
口許に手を当てて首を傾げながら克人が少し小さい声で言う。多輝は仏頂面でそれで、と促した。すると克人がぱっと明るい顔をして頷く。
「ご挨拶に上がれなくて申し訳ありませんとお伝えください。三年生は忙しいからなかなか会えないでしょうし、それなら伝言をお願いした方が早いかと思って」
照れたように頭をかく克人はぱっと見には本当に幼い子供のようだ。多輝はしばし迷ってから判った、と頷いた。よろしくお願いします、と頭を下げて克人がその場を去る。廊下を曲がる直前に男子生徒が数名で克人を連れ去ったようにも見えたが、克人なら大丈夫だろう。多輝はぼんやりと克人を見送ってから改めて生徒会室のドアを叩こうとした。
不意に扉が内側から開く。仰天した多輝を余所に一人の女子生徒が深々と礼をした。焦った多輝はその女子生徒と奥にいた斎姫とを見比べた。ドアを開けてくれたのは生徒会書記を務めている津野曜子という生徒だ。そして斎姫の傍に控えるように立っているのが生徒会会計の樋野澄だ。小柄で柔らかなイメージのある曜子に比べると澄は長身で鋭い印象がある。顔の作りも曜子は愛らしいといった感があり、それとは対照的に澄は綺麗と言える。相対する印象の二人、そして会長の斎姫はヒューマノイドだ。多輝は曜子に促されるままに生徒会室に入った。
多輝がちょっと散歩する程度……なのかな?