あ、エロシーンはありません。
日直の仕事を終えた奈月と並んで桜は折り畳みの傘を鞄から取り出した。今日の午後、雨が降り出すことは事前に奈月から聞いていたのだ。奈月は傘立てに立ててあった愛らしいピンクの傘を広げている。しっかりと雨靴まで持ってきている辺りはさすがだ。桜は奈月が嬉しそうに笑っているのを見てつい微笑んでしまった。
ふと視線を感じて振り返る。そこで桜は浮かべていた微笑を綺麗さっぱり消した。ぼんやりとした面持ちで外を見ていた克人が慌てたように違います、と首を振る。何もしてないという意味だろうか。下駄箱の前で佇んでいた克人に桜は冷ややかな視線を向けた。
「その格好はどうなさったのですか」
特に訊ねる義理はなかったが、あまりの克人の制服の乱れ方に桜は何気なく声をかけた。さっきまでまともに着ていた筈の克人の制服のボタンはあちこちが取れてしまっているらしい。
「ええと……ちょっと避けそこなって」
困ったように笑って克人が歩き出す。桜は何となく脱靴室の硝子戸のところで立ち止まっていた。雨の中で楽しそうに傘の柄をくるくると回していた奈月がようやく気づいた、というように桜に駆け寄る。
「何かあったんですか?」
心配顔で訊ねる奈月に克人が何でもありません、と微笑んでみせる。それを見た桜はなるほど、と胸中で呟いた。どうやら克人は吉良瀬の姫に手を出した不届き者として何者かに制裁されたらしい。が、恐らく克人のこの様子では相手も相当に酷い目にあっているだろう。
「行きましょう、姫様」
桜は傘を開きながら奈月を促した。だが奈月は立ち止まったまま動こうとしない。怪訝に思いながら桜は奈月を振り返った。所在なげに佇んでいた克人が困ったように笑う。
「それじゃ、失礼します」
また明日、と言うが早いか克人は雨の中に飛び出した。鞄を傘がわりにして克人が振り返る。元気よく手を振る克人につられたように桜は手を上げかけた。が、そこで思い止まる。何故、自分が克人相手に手を振り返さなければならないのだ。
「待ってください」
慌てたように言って奈月が克人に駆け寄る。奈月の行動を先読みして桜は急いで二人の元に向かった。呼び止められた克人が不思議そうな顔をして足を止める。
「傘をどうぞ。わたしは桜さんと一緒に帰りますから」
にっこりと笑って奈月が克人に傘を差し出そうとする。が、桜はそれを制して自分の傘をずい、と克人に差し出した。
「姫様の傘をこのような者に預ける訳にはまいりません。わたくしの傘をどうぞ」
「いや、あの。ボク、地下鉄の駅までだし、降りてからも近いからいいですよ」
慌てたように首を振って克人が差し出した桜の傘の柄を手で押し戻す。それを見た桜は不愉快な気分になった。それじゃ、と明るく笑って克人が中庭に向かって駆けていく。今度は奈月が呼び止めても克人は足を止めることはなかった。見る間に克人の姿が小さくなって見えなくなる。ぼんやりと佇む奈月に桜はそっと声をかけた。
「姫様、参りましょう」
だが促しても奈月は動こうとしない。不思議に思って桜は奈月を見つめた。奈月は克人が去った方を見つめて憂いを帯びた顔をしている。
「姫様?」
再度、桜は奈月に声をかけた。すると奈月がやっと気づいたように桜に視線を返す。
「ごめんなさい」
にっこりと笑って奈月が詫びる。いえ、と桜は口を濁して歩き出した。奈月はさっきまでの表情が嘘のように明るい微笑みを浮かべている。気のせいだったのかしら、と桜は心の中で呟いた。
吉良瀬の屋敷に戻るには地下鉄を使うのが一番だ。桜と奈月も先の克人と同様に中庭の地下鉄のホームに向かった。が、既に克人の姿はない。他の生徒たちに混ざって桜たちも電車を待った。やがて到着した電車に二人で乗り込む。学校から屋敷まで本来なら直接にいけるのだが、この通常線は吉良瀬の屋敷の真下には停まらない。特別専用車両でなければ直に屋敷に戻ることは出来ないのだ。
一般の駅は少し屋敷から離れた場所にある。そこで二人は電車を降りた。少し歩く必要があるがとんでもなく離れている訳でもない。桜はいつものようにのんびりと奈月と並んで歩いた。住宅地の端にある駅から屋敷までは歩いて十分程度だ。
「そういえば水輝様は明後日にはお戻りになられるとか?」
他愛ない話の合間に桜は何気なくそう奈月に訊ねた。すると奈月が嬉しそうに微笑んで頷く。
「はい。やっぱり水輝さんと紫さんが居ないと寂しかったですよね」
「わたくしは寂しいと感じることはありませんが、店が忙しいのが難点ですね」
きっぱりと答えて桜はため息をついた。吉良瀬の屋敷の隣には小さな喫茶店が建っている。紫が趣味と実益を兼ねて開いた店だ。いつもなら紫と水輝も店に立っているのだが、旅行で留守にしている間はそうも出来ない。今、紫の代わりに店を預かっているのは渚という女性だ。金龍神である渚はどうも水輝とかつて姉弟の関係だったこともあるらしい、と桜も聞いている。
その辺りの記憶は桜にはない。本来は木龍神の使い魔として存在するべきだった桜の記憶はあらゆる面で欠けてしまっているのだ。
「渚さん、すごいですよね……」
ほう、と感心したようにため息を吐いて奈月が言う。桜は眉を寄せて難しい顔になった。
「青龍王様を追い掛け回しているところが、ですか?」
事あるごとに渚は水輝を殴っている。どうやら渚は水輝があちこちで色んな女性に手を出しているのが酷く気に入らないらしい。夫婦である筈の紫が何も言わないのに対し、渚は直情的に水輝を責めるのだ。
「かなり違います」
苦笑しながら奈月が言う。桜はさらに難しい顔をして小さく呻いた。他に渚が凄いと思えるところを思いつけない。
「申し訳ありません、姫様。わたくしには渚様が凄い、という意味が判りません」
渋面になって桜は根を上げた。困ったように笑って奈月が首を傾げる。
「お店、ほとんどひとりできちんと切り盛りしてるから」
水輝さん追いかけてるのはわたしも一緒かも。空を仰いで考えるように奈月が続ける。それを聞いた桜はああ、と苦笑した。
「確かに店の経営については素晴らしい手腕を発揮されていますね、渚様は。ですが姫様は青龍王様を追われている訳ではないのでは?」
小さく笑って桜はそう告げた。長い髪が雨に濡れないよう、胸の前にまとめて垂らす。桜はポケットに入っていたゴムで髪を器用に片手で束ねた。傘の柄を肩に乗せて髪を結わえる桜を奈月が横目に眺める。
「わたしは水輝さんと長く離れては居られないから」
ご迷惑じゃなければいいけど。呟くように奈月が言うのを聞いて桜は微笑を浮かべた。大丈夫ですよ、と奈月の肩を軽く叩く。
「月とは青い星に添うもの。互いに惹き合うからこそ存在可能なのではありませんか? 確固たる約束などなくとも、姫様と青龍王様は互いに補い合っておられるのだと思いますよ」
それはいにしえからの定めとも言えるかも知れない。桜は雨音に紛れるかどうかぎりぎりの小さな声で告げた。
「桜さんも、そうですよね。今はわたしが預かっているけど、早く復活されるといいですよね」
「はい、ありがとうございます」
気遣いの言葉を受けて桜はにっこりと笑った。奈月もつられたように微笑を返す。二人は仲良く歩いて吉良瀬の屋敷に到着した。大きな玄関を執事の男性が開く。互いに濡れた傘を使用人の女性に預けて私室に向かった。広々とした階段を昇って隣り合った部屋のドアをそれぞれが開ける。桜は部屋に入って手早く着替えた。これから喫茶店の手伝いをするのだ。
早く復活、か。桜はふと奈月に言われたことを思い出した。だが木龍神の復活は当分は先だ。まずは天の翠が誕生しなければならない。
天空の王と地上の王は相容れない。同時に地上に二つの魂が存在することは出来ないのだ。それ故に翠の誕生は待ち望まれている。が、未だに翠は現世に出てくる様子がない。
それにこの時期にあれが奈月に近付いてきたことも気にかかる。何故、今ごろになってハンターがわざわざ清陵の地に潜り込んだのだろう。ここは地の王、立城が強靭な陣を敷いた場所だ。通常では一介のハンターが入り込める筈がない。何らかの力が仲介をしているか、若しくは陣自体が弱まっていると考えられる。術者である木龍王が既に存在しないからだ。
でも、それだけかしら。桜は考えながら髪を梳く手を止めた。蘇芳克人と名乗ったあのハンターは奇妙な波動を持っていた。ハンターである証拠とも呼べる飢餓感が克人からは一切、感じられないのだ。が、間違いなく克人はハンターの気配がする。それに克人自身が害意を持ってなどいないことは桜も承知していた。その程度の思惟なら読むのは簡単だ。
背後にいる順については何を考えているかは判らないが、知らぬ仲ではない。何しろ順は毎日のようにあの喫茶店に姿を見せるのだ。
「直に訊くのが早いかしらね」
そう呟いて桜はスツールを下りた。
桜は桜で頑張って考えているのですw