「んー? あ、れ? 何だ。起きてたのか」
掠れた声で言って水輝が笑う。紫は涙の跡を消して微笑みかけた。
「うん。ちょっと前に」
「今日はもう何もないんだろ?」
欠伸をしながら水輝がごろん、と仰向けになる。うん、と頷いて紫はするりとベッドを降りた。椅子にかけてあったガウンを取り上げて身に纏う。
「おなか空いたでしょ? ごはん食べに行く?」
穏やかな声で訊ねながら紫はガウンの腰紐を留めた。あー、と間延びした声を上げて水輝が身を起こす。寝癖のついた頭をかきながら水輝は傍のテーブルから煙草を取り上げた。
「出かけるとまた面倒だしなあ」
まだ寝ぼけているのか、はっきりとしない口調で水輝が言う。紫は苦笑して水輝を振り返った。ルームサービスにしよう、という水輝に頷いて紫は備え付けの電話を取り上げた。水輝の言うのに従ってルームサービスを注文して受話器を置く。
「ん? あれ? もしかして紫、痩せた?」
「え」
唐突に声をかけられて紫は思わずびくりと身を竦めた。ちょっと来てみな、という水輝の言葉に従ってベッドに乗る。片腕に紫を軽々と抱き寄せた水輝が身体のあちこちに触れる。
「やっぱり痩せてる」
「でも胸は大きくなってるくらいだし」
くすくすと笑いながら紫は首を傾けた。すると水輝が困ったような顔でそっぽを向く。その頬が少し赤くなっているのを見て取って紫はからかい混じりに言った。
「なに? もしかして胸が大きくなるのは嫌?」
両脇からすくうようにして乳房を持ち上げ、紫は首を傾げてみせた。ガウンの合わせ目に胸の谷間がよりくっきりとあらわれる。それを横目に見た水輝が眉を寄せて舌打ちをする。
「阿呆。勃っちまっただろうがっ」
「うん、判っててやってみた」
けろりとした顔で言って紫はベッドを降りた。くそ、とぼやいて水輝が頭をかく。そこでタイミング良くチャイムが鳴る。紫ははーい、と返事して部屋の入り口に向かった。ワゴンにルームサービスを乗せて運んできたホテルマンが差し出した伝票にサインを入れてチップを渡す。行儀良く礼をして去ったホテルマンを見送ってから紫は自分でワゴンを押して料理をテーブルに並べた。
「ほら、おなか空いてるんでしょう? 食べないの?」
寝室でまだ拗ねているらしい水輝に声をかけて紫はくすくすと笑った。するとほどなく寝室から水輝が顔を覗かせる。下着一枚だけ着けた水輝は仏頂面でテーブルについた。
「くそー。なんかむかつく」
「いいからほら。君が頼んだんでしょ、これ。……本当に食べるの?」
不安を覚えつつ紫は一枚の皿を水輝に手渡した。乗っているのは真っ赤なソースがたっぷりとかかったステーキだ。が、確か間違いなければこのソースは激辛ではなかっただろうか。
「いんだよ、これでっ。くそう、今度こそ全部食ってやる」
カトラリーを手にして水輝がぎらりと目の前の皿を睨みつける。それを見て紫はなるほど、と苦笑した。どうやら前に訪ねたレストランで完食できなかったことが心残りだったらしい。ソースが濃ければそれにごまかされる分、食べ易いとでも思ったのだろう。
「でも、あのレストランの場合はたぶんに味付けがまずかっただけだと」
「よし! 食うぞ!」
紫の声を完全に無視して水輝がステーキに取り掛かる。勢いはともかく、水輝の食事の手つきだけはまともだ。何しろ水輝にはずっと昔から食事のマナーを叩き込んである。最初はカトラリーをまるで違う握り方をしてみたり、スープ皿に直接口をつけてみたりと大変だった。その時のことを思い出して紫はくすくすと笑った。
「うわっ、すっげー辛い!」
悲鳴を上げた水輝が慌ててテーブルのグラスを取る。当り前だよ、と笑って紫も椅子を引いた。
水輝が以前、記憶をなくしていた頃のことを思い出す。あの頃の水輝は龍神についての一切の記憶を失っていた。そんな水輝を拾って仕事をさせ、たまに食事に一緒に出かけたりもした。再会したばかりの頃の水輝は酷く他人を拒絶していて、自分から話をすることもなかった。恐らく記憶を失う寸前の衝撃が強すぎたのだろう。
とても不思議な感じがした。水輝をその状況に叩き込んだのは確かに自分だったのに、何故かそれすら忘れることがあった。本来の使命も何もかもを全て忘れて、このままずっと一緒に居られたらと願った。記憶を失っていることに苦しみ、足掻いている水輝の姿を見ながらも、紫はそのことを心から願っていたのだ。
結局は水輝は記憶を取り戻してこうしている。
「あ? 何だよ、変な顔して」
「え?」
我に返って紫は慌てて何でもない、と首を振った。グラスに水を注ぎながら水輝が苦笑する。
「旅行っつってもくそ忙しかったからな。今回は。今度はこっそり温泉でも行くか」
何の気なしの言葉だったのかも知れない。だが紫はそんな水輝の申し出に心底驚いた。仰天して目を見張った紫を訝りの目で水輝が見る。紫は戸惑いつつも微かな笑みを口許に浮かべた。
「ごめんね、少しびっくりしただけだから」
水輝が優しくて。そう言って紫は盛られたサラダを小皿に取り分けた。紫をじっと見ていた水輝が僅かに目を細める。だがそのことに紫自身は気付かなかった。
「あっという間に旅行も終わっちゃったね。明日は帰国だもの」
「ああ」
紫が差し出した小皿を水輝が受け取る。紫はふと違和感を覚えて水輝をじっと見つめた。
「そういえば水輝。いつもしていたピアスはどうしたの? ずっと奈月さんに預けたまま?」
「あー、そいえばそうだな。もう穴も塞がったかな」
フォークを咥えたままで水輝が自分の耳朶に触れる。もう、行儀が悪いよ、と苦笑して紫は水輝の咥えていたフォークを取り上げた。むー、と唸った水輝の手にフォークを押し付ける。
ごめんね。やっぱりわたしは水輝を手放したくない。遠い空の下にいる誰かに心の底で詫びて紫はにっこりと水輝に笑みかけた。
あ、今日は節分ですね!
豆まきはしないですが恵方巻きは食べたいです!w