と、今さら思ってる作者です。
エロシーンはありません。
閉店一時間前がラストオーダーの時間だ。店主である紫が留守だというのに店は相変わらず賑わっている。いつものようにラストオーダーをとりに渚がテーブルを回る。それを横目に桜はカウンターにいる奈月の元に向かった。いれたてのコーヒーを受け取ってフロアに向かう。
談笑していた男女の客のついたテーブルに寄り、桜はお待たせしましたと断ってコーヒーを置いた。この二人の客はこの店の常連だ。年配の二人連れの客は笑顔で桜にありがとうと言った。桜も微笑みを返して会釈をしてテーブルを離れる。
吉良瀬の屋敷の隣の敷地にあるこの店はいつの間にか有名になってしまった。吉良瀬の現当主である紫がいるからなのだろうか。それとも隣の屋敷目当てで客が寄ってきているのか。真相は定かではないが客足が絶えないことは確かだ。
その日も客は閉店時間ぎりぎりまで残っていた。最後の客が帰った後に桜は各テーブルのシュガーポットを集めて回った。カウンターにシュガーポットを並べ、順番にシュガースプーンで残っているグラニュー糖をかき混ぜる。こうして空気と湿気をきっちり混ぜこんでやらないと固まってしまうのだ。桜は残った砂糖を丁寧に解してから足りない分を注ぎ足していった。
キッチンにいた者たちが持ち場を片付けて早々に帰っていく。キッチンにはアルバイトの彼らが日替わりで三人ずつ詰めている。カウンター内部は簡単な料理が出来る程度には整っており、ここで奈月は放課後はデザートをコーヒーを入れたり作ったりしているのだ。
フロアに出ているのは常時二名以上。夕方までは桜と奈月はいないため、別の者が変わりに入っている。桜はふとシュガーポットをかき混ぜる手を止めてフロアを見た。アルバイトの女の子が帰ったところで渚がフロアを見回して小さな息をつく。それを見止めた桜はああ、と内心で呟いた。渚がどことなく元気がないのはきっと水輝が不在だからだろう。そういえば、と桜は何気なくカウンターを見た。すると奈月もやっぱり少し元気がないように見える。
「姫様。わたくしが変わりに片付けを致しましょうか?」
洗い物の手を止めてぼんやりとしていた奈月に桜はそっと声をかけた。すると奈月が慌てたように首を横に振る。
「わたしの仕事ですから」
妙に生真面目な顔になって奈月が言う。桜はそんな奈月にそうですか、と頷いてみせた。奈月は明日の客に出すデザートのことについて思案していたのか、それとも別のことを考えていたのか。多分、後者だろうと見当をつけて桜はカウンターをそっと離れた。柔らかい布で磨いたシュガーポットを乗せたトレイを両手に抱える。
今日は珍しくあの男は姿を現さなかった。用がある時に限って現れない順に対して心の中で文句を言いながら桜は手際よくシュガーポットを各テーブルに配っていった。桜の気配に気付いたのだろう。ぼんやりとしていた渚が照れたように微笑んで掃除を再開する。その様子を見て桜はこっそりとため息をついた。
奈月も渚も恐らく考えていることは同じだろう。桜はテーブルにシュガーポットを乗せながら何気ない素振りで告げた。
「そういえば二人が戻るのは明後日ですね」
意図的に名前を伏せて口にした桜の言葉に素早く二人が反応する。奈月が嬉しそうに頷けば、渚はそっぽを向いて今はいない者に向かって憎まれ口を叩く。やはり思った通りだったと確信しつつ、桜はため息混じりに言った。
「お二方とも何ゆえにあのお方に拘るのですか? わたくしがお見受けする限り、姫様も渚様も座位の示す立場をはるかに越えてあのお方に執着なさっていらっしゃるようですが」
淡々とした口調で桜はそう告げて深々とため息をついた。確かにあの男は座位的には、現存する龍神の中では尤も高位にあるだろう。だがだからと言ってそこまで惹かれる対象だとはどうしても思えない。本来、その座に位置するべきは違う存在のはずだからだ。
それ故に少しずつではあるが、何かがずれてきている気がする。桜は青龍王と呼ばれる水輝のことを思い出しながら胸中でそう呟いた。
「誰も拘ってなどいないし、執着なんてしてないわ。それは桜の思い過ごしじゃないかしら」
桜は右手から優しく言われて慌てて目を上げた。いつの間に近付いてきたのだろう。横にはモップを手にした渚が立っている。だが浮かんでいる微笑みは妙に冷たく見える。そうかと思うと桜の左手にはいつの間にか奈月が近付いていた。
「わたしは、水輝さんのものですから」
だから執着というのとは違うと言いたいのだろうか。桜はしばらく奈月の言葉について考えを巡らせた。だが言われている意味が今ひとつ理解出来ない。奈月は水輝の話を桜が持ち出すと必ず同じ言い方をする。そしてその件については渚も一切、口を挟まない。他の女性と水輝が交わると烈火のごとく怒り狂うのに、だ。
判らない。桜は眉間に僅かにしわを寄せて小さく唸った。
「本来であれば渚様は青龍王様の上に立つのでは? 姫様は座の預かりの訳ですから、当然青龍王様の持ち物などではないのでは?」
いつもなら黙っている桜も何故か今日は気になって二人にそれぞれ告げてみた。すると渚が途端に渋面になる。
「私は龍神の座位などに興味はないし、上下関係など気にしたことはないわ」
第一、水輝に上位に立たれている気はないもの。渚がそうきっぱり言って掃除を再開する。桜はため息をついて左手に立つ奈月に目をやった。
「立城さんは、いずれ、帰っていらっしゃいます」
ゆっくりとひと言ずつ区切って奈月が静かに言う。桜は僅かに目を細めた。残っていたシュガーポットをトレイごと抱えて隣のテーブルに移動する。
「木様がお戻りになられることは存じております。ですが、だから判らないのです」
かつて水輝は木龍神である紫翠を討った。そのことは桜の記憶にもきちんと残っている。それ故に桜は水輝に対していい感情は抱いていなかった。勿論、龍神としての力が強いことは桜にも理解出来る。だがそれとこれとは別問題だ。
銀色のシュガーポットをテーブルの隅に乗せる。次のテーブルに移る前に桜は奈月に向き直った。
「木様がそれをお望みとはわたくしにはどうしても思えないのです」
そう言って桜はトレイを抱えてフロアの奥に向かった。渚はこちらの会話を聞いてはいるらしいが口を挟んではこない。黙々と掃除を続けているだけだ。客のいない静かなフロアを行く桜の後ろから奈月がついてくる。
「一面で、量れるものではないでしょう?」
優しい声音で言われて桜は何気なく足を止めて振り返った。奈月は穏やかな表情を保っている。
「つまり、木様が青龍王様の傍にあられることをお望みと?」
紫翠にとって水輝は仇だ。そう認識している桜は迷いなく奈月にそう問い掛けた。いつもならここまで突っ込んだ話はしない。だがどうしてだか今日は桜も途中で口を噤む気にはならなかった。
「例えば、わたしが知る水輝さんは、わたしから見た一面だけです。全てを知ってるなんてことは有り得ません。桜さんは、立城さんの全てを知っているのですか?」
「いいえ」
桜は奈月の問いかけに即答した。全てを判っていれば、あの時にあんなに辛い思いはしなくて済んだ。主である紫翠が潰えるまで、使い魔である桜たちには何も知らされなかったのだ。無念に思う暇もなく、桜たちは主の命が消えたと同時に地に戻らざるを得なかった。
そして奈月のいう立城と紫翠もまた異なるのだろう。本来の性質が同じであっても人格は同一ではない。だからきっと桜には判らないことの方が多い筈だ。そのことは桜自身も自覚している。
まだ桜がちょっとまともに見える頃か…………。