暗くなり始めた空を人工の光をまとった大きな飛行機が横切る。轟音と共に行き過ぎたそれを水輝は感慨のない目で見つめた。水輝は誰もいないホテルの屋上にいた。屋上は誰かが頻繁に出入りするような場所でもないのだろう。入り口には厳重に鍵がかけてあった。空間を転移して来たはいいものの、大して珍しいものが見られる訳でもない。手すりにもたれてぼんやりと空港の様子を眺めながら水輝は煙草をくゆらせていた。
何であんな真似、しちまったかな。そう呟いて水輝は頭をかいた。いつものように紫が失神するまで交わるだけのつもりだったのに、中途で微かな気配を感じた途端に冷静さをなくしてしまった。あんな真似をすればさすがに紫も不審に思うだろうし、何より不安になるだろう。流れてきた紫の思惟を思い出しながら水輝は深いため息をついた。
煙草を引き剥がすついでに唇を指で撫でてみる。紫の股間に一時的に生えたペニスは残り香でしかなかった。意志やはっきりとした気配など到底、感じられなかった。そんなものはもう残っていないのだと再確認する羽目になっただけだ。
水輝は目を細めて無意識に左のわき腹を手で押さえた。先の事件で渚の座を確定するために戦った際に食らった傷は器の中で大きくなっている。今は傷そのものを力で包み込んで隠しているに過ぎないのだ。
「くそー……。腹減ったなあ」
不服を漏らして水輝は手すりの上で組んだ腕に頭を乗せた。この異常な空腹感はハンターの飢餓感にも似ているかも知れない。そんなことを思いながら水輝は組んだ腕に顔を伏せた。
かつて龍神たちを縛っていたルールは今はない。天輝が代変わりしたことにより、白紙になってしまっているのだ。そのために多くの龍神たちは警戒して身を潜めている。新しい規律が成立すれば、先のルールが潰えた直後に遡って裁かれることになるからだ。
その分、澱みは垂れ流しになる。いま、世に魔が多く生まれているのはそれが原因だ。裁かれて死にたくない、という龍神の生存本能を否定する気はない。だが本来の使命を放棄した龍神が余りにも多いために、世界がバランスを取るために魔を生み出しているのも事実なのだ。
魔の一体一体は水輝たちにとってはささやかな力を持つ者に過ぎない。が、人は魔に対して余りにも無力だ。世界のあちこちで勃発している混乱の多くは魔が見境なく澱みを食らっていることに起因する。本来であれば龍神が払わなければならない澱みが魔によって裁かれているに過ぎないのだ。
だが魔の力にも限界はある。余りにも歪み、淀んでしまった場合は魔でも食いようがないのだ。ため息をついて水輝は顔を上げた。
「またかよ」
空の一角、はるか遠くに気配を感じ取って水輝はやれやれと肩を竦めた。身体を起こして右手を前方に伸ばす。水輝の意志に従って右手の上に一つの龍宝珠が現れる。紅の深い輝きを持つ紅宝珠を握って水輝は右腕を真横に振った。一振りで宝珠が刀の形に変じる。
「漆黒の虚ろ」
短い水輝の呪文に応えた黒い闇色の力が器の中で蠢き始める。水輝はそれを強制的に力で変質させた。自分の身体を腕で強く抱き、息を殺す。じりじりとした痛みが走った背中に一気に漆黒の力が生える。水輝は出来上がった黒い翼を肩越しに見返った。よし、と頷いて翼をはためかせて空に舞い上がる。距離を考えたら白銀の翼を使った方が足が速いのだが、あの術は使用後に消すのが厄介なのだ。明日の朝一番の飛行機に乗らなければならないことを考えたら、とても使えない。
水輝は黒い翼を使って空を駆け始めた。滑走路から離陸した飛行機を追い抜いてあっという間に海の上空に出る。
甘いよね、水輝ちゃんは。へらへらとだらしない笑いを浮かべて言った順のことを思い出す。歪みや澱みを浄化するのは本来は金龍神である渚の役目だ。それは水輝も判っている。だが渚はまだ龍神として覚醒したばかりで、術を器用に操ることはおろか、力を十全に使うことは出来ないのだ。かと言って魔法士である奈月にそれを頼む訳にもいかない。奈月が使う魔法にも一定の制限があるのだ。しかも奈月の性格を考えると無慈悲に相手を裁けるとも思えない。
しばらくの間、高速で暗い空を横切って水輝は目を細めた。緑色の深い森の一角に赤い火の手が上がっている。どうやら問題のモノはそこにいるらしい。それを見た水輝は舌打ちをした。どうやら小さいながらも人間が住んでいる集落が近くにあったようだ。火を使ってモノを追おうとしているのは人間だろう。気配を正確に読みながら水輝は飛行速度を一気に落とした。空中で制止して気配を読む。
「五十人くらいか」
動いている人間の数を読んで水輝は出来るだけ火の近くに寄った。地上を行き来する人間から見えない角度を選んで制止する。右手に握っていた紅の刀を口に咥え、水輝は両手を胸の前で合わせた。手の間に翠宝珠を導く。
割に合わないじゃん。順がいつだったか膨れ面で言ったことがある。何のメリットもないのに動くのはばかげていると言うのだ。水輝は顔をしかめて思い出した順のせりふを頭から叩き出した。
意識を懲らして手の中の翠宝珠の力を導き出す。翠宝珠の放つ光が徐々に増す。次第に強大になる力を支えながら水輝は一気に火の手の上がる場所に滑空した。火の手の上がる場所で右往左往している人間の集団に向けて手の中の翠宝珠を放り投げ、そのまま火の中に突っ込む。一瞬で展開された翠宝珠の力がその場にいた人間たちをまとめて転移させる。背後にその気配を確認しながら水輝は火柱を超えた。口に咥えていた刀を右手に握り直して地面に舞い降りる。
一応、真面目というか、水輝は働いてる感じです。