このエピソードで四章は終わりです。
水輝がわき腹に食らったあの一撃のことを奈月は知っている。だが水輝にも、そして奈月にも癒すことの出来ない傷だということは判っているのだ。埋め込まれた傷は日々、大きくなっている。そしてそれが大きくなるにつれて立城の施した記憶の枷は溶けているのだ。
水輝は全身の力を抜いて身体を傾けた。そのまま倒れた水輝に驚いたのか、奈月が悲鳴を上げる。水輝は悪戯っぽい笑みを浮かべて奈月の膝に頭を乗せた。
「驚かせないでください」
涙を浮かべて言いながら奈月が膝を崩す。しっかりと奈月の膝に頭を乗せて水輝は小さく笑った。真っ白な柔らかい奈月のスカートを指先で弄ぶ。暗がりの中に水輝と奈月の放つ青の淡い光が広がる。
「……おれ、このまま帰ろっかなー……」
何気なく呟いて水輝は目を閉じた。奈月の膝に乗せた耳の奥に自分の鼓動が聞こえる。
「水輝さん……」
優しく水輝の頭を撫でていた奈月が複雑な表情になる。それを見た水輝は小さく笑って首を横に振った。
「冗談だよ、冗談。ごめん、ちょっと疲れただけだから」
こうして接触しているだけで奈月は水輝の心中を読んでしまったのだろう。そのことを申し訳なく感じながら水輝は笑って自分の言ったことを否定した。奈月に心配させるつもりはない。
不意に小さなメロディが鳴る。水輝は眉を寄せてポケットを探った。どうやらあの戦闘でも無事だったらしい。二つ折りの携帯電話を取り上げる。このタイミングでかけてくる趣味の悪さを心の中で罵倒しつつ、水輝は電話に出た。
「何だ。おれはいま、性質の悪い冗談に付き合う気はないぞ」
電話に出るなり、水輝は低い声で言った。すると電話の向こうで順があはは、と笑う。どうやら行動は筒抜けらしい。そのことを確信しながら水輝は奈月の膝の上で寝返りを打った。
『どう? 新婚旅行は。紫ちゃんとらぶらぶ?』
こちらの状況を把握しておいてこの言い草だ。水輝は苛立ちを覚えながら目を細めた。
「茶化すつもりなら切るぞ。下らない」
不安そうにしている奈月に何でもないから、という意味で首を振って水輝は本当に電話を切ろうとした。が、耳から電話を離した直後に慌てた順の声が聞こえる。
『待って待って! 悪かったってば! ちょっとした冗談よ!』
「冗談に付き合う気はないっつったろ。大体てめえ、最中だろが。何してるんだよ」
電話の向こうの気配を読んで水輝はしかめ面でそう言った。誰かとベッドにいる最中に電話をかけてくる順の神経が判らない。呆れたため息をついた水輝の耳に順の軽薄な笑いが聞こえてくる。
『いやあ。たまにはオレと飲みに行かないかと思ってねー。まあ、いつものお誘いな訳ですよ』
へらへらとした笑いを混ぜて順が言う。飲みねえ、と水輝は何となく呟いた。確かにいつも順は店に現れてはそんなことを言っている気がする。だが水輝は下戸に近い。それに特に順と飲んだところで楽しくはなさそうだ。そのために水輝はいつも順の誘いを断っているのだ。
「こっちは旅行中だってわかってんだろが。阿呆かお前は」
ため息混じりに言って水輝は目を上げた。そこに不安そうにしている奈月を見つける。流れてきた思惟を読んで水輝は少しだけ眉を寄せた。奈月には何か気がかりなことがあるらしい。だがそれが何なのかは水輝にもはっきりとは見えなかった。
『いや、別に今すぐって話じゃないよん? そうだねえ……オレも忙しいからねー。明後日くらい?』
既に水輝が了解したことにしているのだろう。順が楽しそうに言う。おい、と低い声で言ってから水輝はここ数日のスケジュールを思い出した。帰ってからは特に予定は入っていない筈だ。すぐにでも別の旅行に出かけようとは思っていたが、まさか帰った足で行く訳にもいかないだろう。
まあいいか、と呟いて水輝は改めて言った。
「そうだな。たまには付き合ってやるよ。何かちょっと疲れたし」
うさばらし程度にはなるかも知れない。そんな軽い気持ちで水輝は順の誘いに乗ることにした。すると電話の向こうで順が驚いた声を上げる。
『え!? マジで!? ホントに付き合ってくれんの!?』
「……あのな。誘ったのはお前だろうが。何かまずいのかよ」
仏頂面で言ってから水輝はため息をついた。だが水輝の疲れには一切気付かないのか、順がはしゃいだ声で言う。
『じゃあ、明後日ね。どうせ水輝ちゃん、店に出てるんしょ? オレが迎えに行くよ』
「……そうでなくてもお前は毎日店に来るだろうが……」
呆れた気分で答えつつも水輝は順の申し出に了解の意を示した。電話を切ってため息をつく。どこまでも呑気なやつめ、と折り畳んだ携帯電話に向かって文句を言ってから水輝はそれをポケットにしまいこんだ。
ふと視線を感じて目を上げる。水輝はそこに不安そうな奈月の顔を見止めて大丈夫だから、と笑みかけた。
「あのっ、水輝さん、わたしもご一緒していいですか?」
そう言って奈月が頬を染める。水輝はしばし思案してから首を横に振った。
「相手が順だからなあ。おれが沈んで奈月に手を出されると困るしさ」
だから遠慮してくれ、と水輝は苦笑した。すると奈月が寂しそうな顔になる。水輝は腕を伸ばして奈月の髪に触れた。宥めるように優しく髪を指で梳く。
「あの、心配なんです。人を疑うことは悪い事だと思います。でも……」
「あ? 順だろ? あいつが狙ってるのは紫なんだから大丈夫だろ」
水輝は欠伸をして奈月の膝に顔を押し付けた。ついついスカートをめくりそうになって慌てて手を止める。ここで奈月を抱けば戻るのが遅れてしまいそうだ。我慢我慢、と自分に言い聞かせて水輝は目を閉じた。
「紫さんを?」
驚きの声を上げて奈月が目を見張る。水輝は声に誘われるようにして片目を開け、奈月の表情を見止めて苦笑した。
「あいつは紫に興味があるらしいぞ。……って、けっこうあからさまに店に来てたりしてるだろ?」
どうやら奈月は今まで順が紫に気があることを知らなかったらしい。本格的に驚いて目を見開いている。
「そう、なんですか、でも」
軽く眉を寄せて言った奈月に水輝は首を傾げてみせた。確かに店に来た時の順は紫に対して軽口しか叩いていないように見える。傍から見ていると紫を単にからかっているようにしか思えないだろう。
「あれは紫の反応を見て楽しんでるんだよ。好きだからつついてんだろ」
そう説明して水輝は欠伸をした。どうも先ほどから眠気がある。一気に体力を消耗したから仕方ない話なのだが、だからと言ってこのまま眠ってしまう訳にもいかない。紫にホテルから単身で帰らせるような真似をすれば、張り付いている記者達が何を書き立てるか判ったものではない。
「あの水輝さん、戻る程度なら、わたしの力を使ってください」
言われて水輝は奈月を見上げた。そういえば奈月は魔法を使えるのだ。それならこめた力を消耗することなく移動可能だろう。水輝はそうだな、と呟いて目を閉じた。
「じゃあ、頼む。……おれ、ちょっと……寝るから」
安心したからなのか急激に睡魔に襲われる。水輝は奈月に身体を預けたまま、吸い込まれるようにして眠りに落ちた。
順が誘う時点で不穏ですw