あ、エロシーンはありません。
「ぼんやりしていると頭をぶつけますよ」
唐突に聞き覚えのある声で言われて克人は慌てて足を止めた。いつの間にか柱に向かって歩いていたらしい。ほんの少し前に傾くだけで柱に頭をぶつけてしまう位置に自分が立っていたことに気付き、克人は焦って少し下がった。
「あ、ありがとうございます」
慌てて礼を言って克人は傍にいた桜に頭を下げた。いつもと同じように冷ややかな目で克人を見てから桜が脱靴室に向かう。克人は今度はぼんやりしないように注意しながら桜の後に続いた。
転入して数日間を教室で過ごして判ったことがある。どうやら桜には同じ年頃の友達が一人もいないらしい。いつも奈月と共にいるから周囲は二人を友達同士だと思っているのだろうが、それは違う。奈月は龍神だが桜は使い魔なのだ。彼らの関係は友人ではなく主従だろう。桜が奈月のことを姫様と呼んでいることからみても間違いない。
友達いないのかな。一人きりで机についている桜を見ながら克人はそんなことを考えた。今日はどうやら奈月は休みらしい。克人の隣は空席のままだ。
「わたくしにはそんなものは必要ありません」
唐突に桜が振り向いて言う。克人は桜の反応に驚いて目を見張った。だがすぐに相手が力ある者だったことを思い出す。思考を読まれたことに苦く笑う克人に桜が冷ややかな目を向けた。
「それにあなたも人のことは言えないのではないですか?」
「あ、ボクは」
どうせすぐにここからいなくなるし。そう言いかけて克人は押し黙った。順から聞いた言葉が頭の中にこだまする。常識は覆されるものだ。だが本当にそうなのだろうか。克人は心の中で自問した。
「……言いかけて止めるとは人が悪いですね」
眉根を寄せて桜が嫌そうに言う。それを聞いた克人は我に返って慌てて詫びた。何ももったいぶるつもりはなかったのだ。そう言い訳してみる。だが桜は横目に克人を睨むだけで信じてくれそうにない。克人は仕方なく今朝の順とのやり取りについて、差し障りのない範囲で説明した。最初は冷ややかに克人を睨んでいた桜の表情が、克人が話を終えた頃には少しだけ穏やかになっていた。
「あなたの主の言うことはもっともでしょう。時は誰の上にも等しく流れています。永遠の不変はあの方々ですらもあり得ません」
隣の席のクラスメイトの男子生徒が不思議そうに桜を見る。だがその生徒もすぐに席を離れてしまった。きっと桜の隣に座っていても心地良くはないからだろう。桜が意図してそうしているかどうかは判らないが、不思議なくらいに清浄な空気が身を包んでいるのだ。そんな空気を始終感じていたら、さすがにどんなに穢れの少ない人間でも落ち着かないだろう。静かに席を離れて行った男子生徒を見送ってから克人は桜に目を戻した。
「永遠の不変、ですか」
何故だろう。言い回しが妙に心に刺さる。克人は僅かに目を細めてそう呟いた。桜がそんな克人をじっと見つめて重々しく頷く。
「時は流転していくもの。どんな魂も時の流れには逆らえません。時の神の元、全てのものは平等であるのだと、かつてあのお方は」
そこまで言って桜が唇を引き結ぶ。克人は桜の雰囲気の変化に気付き、俯きかけていた顔を上げた。いつの間にか桜は窓の外に目を向けている。空いた奈月の席を通り抜けた桜の視線がどこに向いているのかははっきりと判らない。だがその視線はやけに切なく見えた。
「……つまらないことを言ってしまいましたね。忘れてください」
「あ、ええと」
小声で告げられた桜の言葉に克人は戸惑いの声を返した。どう言えばいいのだろう。克人がそう考えている間に桜がさっさと前を向いてしまう。何となくこのまま話を終える気にならず、克人は桜に声をかけた。
「そういえば吉良瀬さんは今日はお休みですか?」
何となく訊ねた克人を桜が振り返る。その目には妙に剣呑な光が宿っていた。思わず言葉をなくした克人を桜が鋭い目で睨む。
「姫様は青龍王様とご一緒です」
硬い声でそう言い放って桜がふん、とそっぽを向く。克人は困惑しつつ頭をかいた。原因はよく判らないがどうも桜の機嫌を損ねてしまったらしい。
「ええと、青龍王様って……水龍神の長のことですよね?」
青龍王とは青い宝珠に表される者の別称だ。そのことを克人は知識としては得ていた。それとなく訊ねた克人を桜が嫌そうに睨む。
「それが何か?」
「あ、いえ。ただちょっと気になって」
青く美しい龍神と言えば克人はたった一人しか知らない。昨日、順に連れて行ってもらった喫茶店で久しぶりに見た沙耶のことを思い出しながら克人は考え込んだ。あれほど強く綺麗な色をした水龍神は他にはいないのではないだろうか。それにコロニーを離れるあの時、沙耶が何か言っていた気がする。確か沙耶は青龍神と名乗ってはいなかっただろうか。
じっと考えを巡らせていた克人は驚きの声を上げた。古今東西、例えどんなに水龍神の数が増えても青の名を冠する者はたった一人だ。
「も、もしかして神崎さんの言う青龍王様って……」
「思ったよりは鈍くないんですね」
きっぱりと言い切って桜が皮肉な笑みを浮かべる。侮蔑のこもった笑みを受けて克人は恥ずかしさに消え入りたくなった。どうやらずっと勘違いをしていたらしい。沙耶という名のあの龍神は、奈月や桜の知る青龍王と同一人物なのだ。
考えを進めていくうちに克人は青くなった。沙耶イコール青龍王ということがじわじわと実感になっていく。
「な、何でそんな凄い人が喫茶店に……」
カウンターの中に立ってコーヒーや紅茶をいれていた沙耶のことを思い出して克人は愕然と呟いた。呆れたような顔で振り返った桜が言う。
「今更、何を言うのですか。あなたの主も火龍神の長でありながら好きなことをなさっているのでは?」
思考が一瞬で停止する。克人は唖然と桜を見つめたまま身体を硬直させた。桜がもしもし、と呼びかけながら克人の顔の前で手を振る。だがそうされても克人はしばらく呆然自失していた。順がハンターの長であることは判っている。だが順は風龍神の身体から作られた、言わば人工の風龍神なのではなかっただろうか。以前、データとして教え込まれた情報を引っ張り出して克人は頭を押さえた。
かつて順が何故、そんなデータを克人に与えたのかは判らない。実際、多くの実験体の中でその情報を知らされたのは克人だけだった。今でも恐らくハンターたちは順のそうした経緯を知らないままだ。
だが克人に与えられた情報の中には桜が言ったような件はどこにも含まれていない。克人は混乱する額を強く手で押さえて呻いた。
「あの」
ためらいがちに声をかけた克人を桜が呆れたように見ている。だがその視線にこめられた侮蔑の色にめげずに克人は訊ねた。
「それは本当なんですか」
「一介のハンターに知らされていないのは道理かも知れませんね。あなたの主の思考は判りませんが」
それだけ言って桜が前を向く。克人はぼんやりと桜の背中を見つめて考えを巡らせた。左眼をそっと手で覆ってみる。いつの間にか左眼は熱を帯びている。片目から零れてきた涙を克人は静かにハンカチで拭った。
桜は奈月しか見えてない感じなのですが、意外と他も見てます。