「忘れもしません、あれは六年前の出来事です。わたしが小学六年生の夏でした」
わたしは今でも鮮明に記憶に刻まれたあの日の出来事を言語化していた。こうして口にするのも、約六年ぶりだ。懐かしい、当時は誰に言っても信じてなどくれなかった。なんとなしに、湯飲みの縁を親指で撫でる。
「聞かせてください」 と、わたしの対面に座る、真面目な表情の和服姿の老人。
鹿威しが小気味よい音を立てた。残暑を懸命に生きる蝉が命を燃やして鳴いている。
「たいした内容ではありませんが」
「言いにくいことだということは承知しています。金銭で済む問題ではないということも理解していますが、こちらの誠意を数値化するには適しているもので」
テーブルの上には十分すぎるほどの厚みを持った封筒があった。
「お金は、結構です」
「しかし」
「わたしも誰かに話してしまいたかったと思っていました。ほんの少しですけど」
わたしはおずおずと切り出した。格式高そうな和室で、まさかあのことを話すときがくるとは思いもしなかった。
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最初に起きた事件は、初夏も近づく暑い日でした。その時期の体育といえば当然水泳ですよね。わたしの楽しみの一つでもありました、泳ぎは得意だったのもあるかもしれません。
いつものように水着に着替えて準備体操をしていると、ふと眩しさを覚えました。太陽のように鋭角で、人工物のように冷たい。よくあることですよね? 車のフロントガラスだったり、ビルのガラスだったり。そういった眩しさ。
この煌きが無意識下で日常的な光であると認識していたからかもしれません。いえ、気づいていたとしてどうなるといった話かもしれませんが。
ほぼ毎回、水泳の時間に、視界の端に映る光。わたしはそのうち、それが近隣の民家の二階から発せられているのだと発見しました。
なぜなのだろうか。鏡? そういったいたずらが学校で一時期はやっていたこともあり、わたしはそこに人がいるのだろうと考えて、ためしに手を振ってみました。
すると担任が不審に思ったのか、わたしに手を振った理由を尋ねたので、あそこに人がいる、と民家の二階を指差しました。担任も、その方向見やります。
それ以降、光は、いまになってみれば予測はつきますが、望遠鏡のようなレンズの類が反射する太陽光はそれ以降見なくなりました。
問題はここからなのですが、それからしばらくったったある日、移動教室から戻ってくるとわたしの水着袋が無くなっていたのです。
「小学生の水着袋というと男子は紺、女子は赤の円柱コップ状の、縁の部分を紐で結ぶタイプの物ですな」
はい。当時のわたしはてっきり更衣室に忘れでもしたのだろうと思いましたが、どこにもありませんでした。使用後ということもあり、洗って乾かさねばカビも生えますし、とにかく探したのですが。
「見つからなかった」
でもどこにあるかの予測は簡単につきますよね。すみません、たいした内容ではなくて。
「それは今になった立場からすればの話です。お気になさらず。しかし奇妙ですな、どうして二階の民家の人物はあなたの名前と、水着を合致させることができたのか。加えてあの学校に侵入するのも難易度が高いように思える」
ご存知なのですか?
「なに、わたしの母校でもありまして。いや失礼、続けてください」
とにかく、このときのわたしは迂闊で、思慮に欠けていました。実はその、わが家はそれほど裕福な家庭というわけでもなく、特待生という形で入学できたのです。
「それはすごい」 老人は今までで一番の驚きを見せた。
なんだか気恥ずかしです、恐縮です。それで、スクール水着やタオルを無くしたなどと両親に言いにくくて。数日は学校に忘れた事にしたのですが、そんな子供だましは時間の問題でした。
両親はいじめの類なのではと思い込み、担任の先生に連絡を取ってあれよあれよと事態は大きく、そして曲解の度合いを大きくしていきました。
「曲解? 失礼ですが、スクール水着の紛失はいじめではなかったのですよね」
そうです。わたし自身、いじめを受けていたという自覚はなく、客観的にもそうだと思います。ですが現実には、わたしがいじめられている事を両親に隠したいが為に、スクール水着が紛失した事を隠していた。という事になっていました。
「ははん、なるほど」
両親は、なぜいじめられているという事を言ってくれなかったのかと涙ながらにわたしに訴えました。しかし、いくら違うといったところでわたしの説得力は、指折りの学校に特待生枠で入学した貧しい家庭の子、という事実の前には力を持ちませんでした。
「貧富の差が区別を生み、共通のサディズムが友情に似た脆い何かをコミュニティに形成するのはさして珍しい事ではありませんからな」
問題なのは、スクール水着が紛失し、両親が担任に訴えた以降から緩やかにわたしに対する陰湿な行動が始まった事です。つまり、現実にいじめと思われる行為が。
上履きや縦笛が無くなりもしました。
担任は、下校前の会で犯人を糾弾し、いわゆる怒らないから出て来なさいだとか、全員に目を瞑らせて、自覚のある者は手を上げなさい等といった行為をしてくれもしました。
「模範的な教師、と言いたいところではありますな」
何かあったら相談に乗るから、言いにくいこともあるだろうから二人きりで話そう、先生だけはきみの味方だとPC教室などに呼び出されることもありましたが、はっきり言って迷惑でした。なぜならいじめは存在しないと、あの時も信じて疑っていなかったのですから。
そのぶん、案じてくれる友人や両親に対して申し訳ないという気持ちが増大していきました。
そして、ある意味でわたしにとって運命の日がやってきました。
担任はPC教室で変わった事がないか、辛い事はなかったかと一通り話した後、見学した水泳の分の補講を行うのでこの後プールに来るようにわたしに言いました。
その日は水泳の授業は無かったので、当然にスクール水着は持ってきていませんでしたが、学校の貸出し用のスクール水着があると言われました。その時は半信半疑でしたが。
「たしかに、存在します。わたしも水着を忘れたときは体育教師に履くように言われた覚えがあります。遅めの時間に水泳の授業があると、洗濯済みであるのがわかっていても濡れていて、大変不快な思いをしたものです」
わたしも誰かが着たスクール水着を着るのは嫌でしたが、担任に、今日を逃すと夏休みに来てもらうことになると言われると、水着袋を受け取って節節に更衣室へ向かいました。
一人きりの更衣室はなんというか、とても不気味でした。静かで、棚の升目の空虚さが物悲しくて。
わたしが袋の中の水着を取り出し、それが無くなったはずの自分のスクール水着である事に戦慄するのと、校舎側の出入り口が施錠されるのは同時でした。閉じ込められたという疑念と恐怖、不安に駆られ、ドアノブに駆け寄ってみるも空しく徒労に終わりました。
ならばとプール側のドアへと向かい、嫌悪の予感に満ちた震える手でノブを回しましたが……
「大丈夫ですか、声が震えている。小休憩しましょう、口をつけておられないようですが、芋羊羹はお嫌いでしたか? なんなら」
いえ、お気遣い感謝します。やはりプール側のドアも鍵がかかっていました。どうしよう、どうしようもなく、棒立ちの状態でいると、ドアの向こうから担任の声が鈍く響きました。
「着替えたかい」
わたしは鍵を開けてくれと必死で懇願しましたが、担任は水着に着替えたら出してあげようの一点張りでした。
外に向かって助けを呼ぶべきだったのかもしれませんが、朝の雨でグラウンドの状態は悪く、室外で部活をしている人間はいません。仮に助けがきたとしても、一旦は鍵が保管してある職員室まで向かわねばなりません。その間に担任は男子更衣室からこっそりと抜け出し、何食わぬ顔で最初に助けの声を聞いた体面でわたしを助ける事でしょう。
「善意の第三者を二人目の発見者とすることで、一足速く職員室に鍵を取りにいった。更衣室の鍵を持っていた理由をそのように取り繕うつもりだったわけですか。あなたの証言と食い違うが、証拠が無いし、その後の報復を考えると難しいところですな」
わたしが摘み上げたスクール水着は嫌悪の対象であり、つまり、ああこれはもう自分のスクール水着ではなくなってしまったのだと、どこか他人事のように感じられ。到底着れたものではありませんでした。
しかし着なければ永遠にこのままなのだろうか? 閉鎖空間と大人という怪物に対峙する無謀さから、わたしは涙ぐんでホットパンツのホックを外しました。
そしてプール側のドアに向かって唯唯諾諾の言葉を囁きました。
担任がドアから離れるように言い、すばやく更衣室に滑り込んで、後ろ手に鍵を掛けるのと目を白黒させるのは同時でした。
「わたしの名前はレイパーマン! 非道な強姦を憎悪し、レイプの守護神とまことしやかに噂されるレイパーマンとはわたしの事だ!」
「な、なんだきみは、どうしてここに、どうやって」 と、混乱した担任の狼狽。普段着のキャミソール姿のわたしと珍妙な格好の闖入者を交互に見やる。
どうやってレイパーマンが更衣室に侵入したのかはわたしにもわかりません。わたしも担任と同じ疑問を抱いたのも事実です。ただ、外しかけたホットパンツのホックにかかるわたしの手を、レイパーマンがぞんざいに止めた事に比べればどうでもよいことです。
「教師という立場を利用し、己が欲望の為に虚構の加害者と被害者を捏造するばかりか実害を現実にもたらしめ、自らを唯一無二の理解者に祭り上げ、無理と分かれば強硬手段とは不届き千万。レイパーの風上にも置けぬ性犯罪者め!」
吐き捨てるような口調で闖入者。とりあえず怨嗟の感情だけは伝わってくる。
「な、なんのことだ。妙な言いがかりはやめろ!」
「いじめダメ絶対」
言い終わるや否や、担任とレイパーマンの立ち位置は入れ替わっていました。手前味噌ですがわたしの数少ない自慢は身体能力で、動体視力にも自信があったのですが何が起きたのかはわかりませんでした。
ただ、レイパーマンのライトハンドは虚空を掴んでおり、担任はビート版を股間に当てがっていました。
「甘いんだよ」 と担任。 「わたしはな、今のゆとりの絶対評価のようなヌルい世代じゃない。相対評価時代で体育の項目は優れに優れていたのさ」
「Yesロリータ、Noタッチ。きさまは始末する、いまここで」
「おもしろい。股間を防御されたこの状況で、どうす」
「レイパーパンチ!」
過去形とはあの状況を指すに真に妥当だと思いました。レイパーマンのレフトハンドが担任の顔面に突き刺さっていたのです。
鼻血を流し、瞳を涙で潤ませるも本能的な危機感から維持でもビート版を離そうとしない担任。
「ぶへぇ、ちょ、え? 顔ありなん? 股間は? てか小学校って言ったら顔面セーフ」
「レイパーパンチ」
「ふぅえぇ、内臓に響くような重いブローもありなん?」
「レイパンチ、レイパンチ、レイパン……レイパレイパ」
技名を省略し、雑に乱打されるレフトハンド。ほどなくして担任は気を失い、仰向けに倒れました。
「というか、リアルでわたしの母校でも手を出した教師がいると、数年ぶりに会った友人に聞いて凹んだ身として許せん。必殺、レイパービーム!」
ほどほどに膨らませた水風船を針でつつくとそのような音がするかもしれません。担任はエビのように跳ね、白目をむいて動かなくなりました。
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「なるほど、そのようなことが」と、感慨深そうに老人。
「たいした話でなくて落胆させてしまったかもしれませんが」
「とんでもない。老い先短い人生の最後の花になりました」
「そう言って頂けると助かります。それでこれが、そのときレイパーマンがわたしにくれた物です」
わたしは傍らに置いたポーチから、子供用の筆箱を取り出した。ちゃちなピンク色に正方形のシールが張ってある。
「こ、これが例のびっくりレイパーマンシール!」 わなついた手で筆箱を慎重に持ち上げる老人。 「しかも理由は不明だがあっという間に生産停止になったTheレイパーマン時代の物!」
「わたしがそれを貰い、お礼を言おうとした時には既にレイパーマンの姿はありませんでした。何故か開いていた校舎側のドアを開けてあたりを見回しましたが、グラウンドのど真ん中にある公衆電話ボックスから出てきた男性しかいませんでした」
びっくりレイパーマンシール。一時はシール目当てのため、チョコウェハースが捨てられるという社会問題にまで発展したお菓子だった。
もちろんわたしは捨てるなどということはしなかった。
レイパーマンがくれた初めてのびっくりレイパーマンシール。それはチョコウェハースでわたしは十二歳でした。
その味は甘くてクリーミィで。こんな素晴らしいチョコウェハースをもらえるわたしは、きっと特別な存在なのだと感じました。
「でも、そうではなかたったようです」
「というと?」
「レイパーマンが、きみはまだ対象年齢にない。六年後にまた会おう。そう言っていたのは覚えています」
「まさか、今日がその六年後ということですか」
ええ。と、わたしは日本庭園を見やった。立派なつくりだった。趣がある。特有の儚さのようなものが。四季の移り変わりを反映する機能を内蔵しているが為、夏の終わりと秋の始まりに死と生の連続性を無意識に関連付けてしまっている所為かもしれない。
「どうやら、わたしには会う価値もないようです」
「……そうですかな?」 と神妙な面持ちで老人。 「あなたは先程からこちらの用意したお茶菓子や飲み物にも手をつけていない。これはひょっとして睡眠薬の類を警戒しての事では?」
わたしの目には老人は齢九十を超えていそうだったが、鋭い慧眼が向けられていた。 「それにあなたの経歴、水泳を始め、あらゆるスポーツに通じておられる身体能力。これではさしものレイパーマンとて手を出せますまい」
「そう、かもしれませんね」
わたしが諦観にも似た呟きを零すと、老人は苦しそうに咳き込みだした。
「大丈夫ですか?」
苦しそうに喉をえづかせ、老人は言った。 「勝手なようだが、少し疲れました」 惜しそうに筆箱をわたしに返す。
「できればこのシールを譲って欲しかったが、わたしなんぞよりあなたが持っていたほうがよさそうだ」 言って、枯れた指を弾く。見た目とは裏腹に小気味良い音が鳴り、どこからともなく凛としたいでたちの執事が現れた。老人の背後に鎮座する十兆円を手際よく片付ける。
わたしは老人の豪邸を後にした。
自宅のマンションに戻り、洗面台の鏡の前に立った。こどもの時のように、兎が跳ねるようなツインテールをするわけにもいかず、しなだれるようなロングのツインテールではわたしだとわからなかったのかもしれない。
一度会って話をしてみたかったが、まあ仕方がない。
わたしは髪留めを捨て、ポーチから筆箱を取り出した。
二等身にデフォルメされた珍妙な姿のレイパーマンが、あの時とかわらずそこにいた。
いるだけだった。
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