【完結済】眠れる師匠のわて様を好きに使っていい日 作:あいいろ ののめ
―――初めての発情期が来た。
……来た…んだが……。
「あの…師匠……」
「どうしたのガジュ?…どこか痛かった?」
暗い部屋の中でベッドの淵に座っているオレの上には師匠が跨っていた。
オレがじっとしていても師匠の方が身じろぐので彼女の植物のような香りと微かにメスの甘い匂いがして、彼女はこちらに抱き着くような姿勢を取ってくるせいで身体の様々な所が様々な場所に押し付けられていた。
「あ、いや…大丈夫です……」
「そう?」
発情期が来てからはや数日。師匠は昨日までにもお風呂上がりに血液パックを求めて目の前をタオル一枚の姿でうろついたり、眠いと言って抱き着いてはオレにベッドまで運ばせたり、寝付けないからと延々神経の集中する尻尾や耳に一時間近く触れて来たりと……オレは自制心を試されていた。
しかし師匠の食事の時間にそんなことを言えるはずもなく、身体の様々なところに柔らかい感触がある状態に対する自身の様々な感情を抑え、オレは押し黙るしか無かった。
「ん〜…」
食事。
吸血鬼である師匠にとって、それは血を吸うこと。
オレが小さい頃に師匠がバルカリカさんから貰った『吸血衝動を促進させるお酒』を飲んでしまい襲いかかられたあの日から、時々師匠に頼まれてはこうして彼女の食事を手伝っていた。
(小さい頃は見栄を張って怖くなかったと言ったことを少しだけ後悔したけど……)
上半身に押し付けられた柔らかい感触にオレは、視線を逸らそうとするとかえって不審に見えてしまうと思い、師匠の顔をみつめようとした視界に彼女のラフな薄紫のパジャマが目に入る。
その胸元はオレに見せつけるかのように開いて…いや師匠の胸が大きいせいで隙間が空いてい…余計なことは考えない方が良さそうなので止めることにした。
「師匠…まだ、ですか…?」
「もう少し待ちなさい、痛くならないようにするのって大変なんだから…」
昔は師匠の方が背も高かったが、今ではこうやってうずくまっていると師匠の方が子供っぽく思えるくらい小さかった。
「あの師匠…やっぱりオレが注射器で血を抜くので…」
「駄目に決まってるでしょう、それで話が済むのであればわて様は最初から医療用の輸血パックで良いじゃない。
吸血鬼って本来は牙から血を吸う生き物で…時々どうしても口寂しくなってしまうのよ。だからこうして貴方に頼むしか無いんだから……」
そうしおらしく白状する師匠は庇護欲を誘う愛らしさがある。
普段はウェーブを掛けている白桃髪やハーフアップに纏めている後ろ髪も師匠がお風呂に入った後には解かれているので、こうして真っ直ぐなストレートヘア姿の師匠が見られるのも弟子としての特権だ。
それに…出会った頃から彼女はこういった弱味を見せるようなことも殆ど無かったから。師匠が度々こうして弱々しい態度でこちらに吸血を求めてくるとオレは、言葉にし難い優越感のような感情で満たされるようになってしまっていた。
いつもならそんな吸血鬼の師匠が首元に必死に顔を埋めてくる姿を堪能するんだが、今日だけはそうもいかない理由があって………。
「師匠、今日の昼に来てたアレ…大丈夫でした?」
「ガジュはわて様を何だと思ってるの。わて様は大吸血鬼だって、いつも言っているでしょう?」
「って言われても…流石にヒヤヒヤしましたよ。まさか診療所であんな騒ぎが起きるなんて思って無かったんですから…」
と言うのも今日は診療所を開けている時間に吸血鬼の来客があったのだ。その吸血鬼の男は師匠を口説きに来たらしく、そんな男を師匠は『ここは帝都の社交場じゃないのよ』と窘めた。
すると彼は診療所の受付を占領して自分の相手をするまで帰らないと喚き散らし、彼の執拗い行動に途中から患者の対応は師匠の代わりにオレがすることになっていた。
男の要求がどんどんエスカレートしていくとその声が遠くから聞こえてくるオレでも自分の表情の曇っていく自覚があって、それでよく診療所に来る患者さんが気を利かせてくれた所で受付の方に回ってオレが吸血鬼の男の振り上げた腕を掴んで止めようとすると…その腕がこちらに向けて勢いよく振られる。
…男の腕がオレに当たることは無かった。
これでもロノミアが時々調剤する薬品の材料集めを手伝っているので、危機を察知した身のこなしは余裕をもってその一撃を回避したつもりだった。
ただその後は酷いものだったとしか言えない。
吸血鬼の男が腕を避けたオレに意識を向けた瞬間、その首が真横に折れ曲がったように見えた…それはロノミアの翼が起こした風が男の胴を横殴りにした反動で男の頭部だけがその場に置いていかれたように残っていた瞬間であり、瞬く間に診療所の天井へと斜めに打ち上げられた男の顔面が師匠に掴まれて外に出ていくまでは本当に一瞬の出来事だった。
診療所の外では師匠が見上げる上空で、吸血鬼の男がサッカーボールのように上下に左右にと見えない壁に叩き付けられているような光景が拡がっていて。程なくして彼が地面に打ち付けられた頃には死に体という言葉でしか言い表せない、思わず目を瞑りたくなるような姿になっていた。
『…ここに来た時の貴方は診療所に相応しくないくらい元気そうだったから…良かったわね。今の姿ならこの診療所にも相応しいでしょう?』
倒れて動かない吸血鬼を見下ろしながらそう言った師匠の姿は…珍しく怒っていたんだと思う。それも一緒に住んでいても初めて見るくらいの怒り方だったから、こんな夜になっても不安だったのだ。
「ガジュが来てからは偶然鳴りを潜めてただけで、時々あんな輩が来るのよ。帝都ではお見合い相手を選ぶのが定番みたいだけれど、わて様の診療所で相手は選ばないでしょう…?」
「ああ、たまに師匠は殆ど無償で治療してるくらいですもんね…」
「アレは血液という代価を後で払って貰っているのよ、無償なんかじゃないんだから。
……それはそうと、むしろあの瞬間にヒヤリとしたのはわて様の方よ。ガジュ、貴方が身を危険に晒してまであの場を止める必要は無かった筈よ?」
「師匠なら危険じゃないみたいな言い方してますけど、それでも心配にはなりますよ……」
「心配性なんだから。…ほら、もう消毒液の準備もできたから血、吸うからね?」
結局こちらの心配は伝わらないまま、師匠は今までの話を誤魔化すように返事も待たず吸血を始めてしまう。吸血が始まるともう彼女が喋るのは物理的に不可能なので、オレの方も静かに彼女の行為が終わるのを待つしかない。
「んっ…んん…」
いくら心配するなって言われても……。
こうして膝の上に乗せていると昔は大きいと感じていたのが信じられないくらい今の師匠は小さく、顔を埋めている彼女のピンク色が混じった白髪の合間から見える白い首筋はオレの腕よりも細い気がするし、そんな華奢な師匠が血を飲むために吸い付いてくる姿は無性に応援してみたくなる一心不乱さで。
……でも師匠はずっとオレが昔の子どものままだと思っているからこそ、さっきの言葉やこんなにも無防備な姿が出てきているんだと思うと。オレはこんなにも近くに居る筈の師匠が遠く感じられた。
「…ぷぁ…っ。やっぱり…輸血パックとは違うのよね、ワインもプラスチックのコップで飲むのでは物足りないでしょうし…」
「師匠…それは解ったんですけど、この翼は…?」
師匠が一人で納得する間、もっと言えば彼女が吸血を初めてからは人よりも大きな黒い翼が周囲から覆い隠すカーテンのように閉じられていた。
「食事の時に淑女は口元を覆い隠すもの、マナーよ。人に食べているところを見られるのは、はしたないのだから…」
「あの、オレは良いんですか…?」
「それは仕方無いじゃない。
…でも、そういう意味でガジュは特別ね。普通その用途に使われるペッ…人は目隠しするものだから」
また、師匠はこんな事を言う。
普段はわがままや横暴なところがあるのに、ときどきオレに向かって『特別』だなんて今みたいに意味深なことを言っては微笑むのだ。この師匠の表情だけは何故か、小さい頃の記憶のひとつとして妙に印象強く残っていた。
…途中でペットって口を滑らせかけていたような気がしないでもないけど。
「ガジュ、痛かったりしなかった?」
「はい…大丈夫でした…」
「少しでも痛かったり、体調が変だったら言うのよ?
……じゃあ、また吸うから……はぁむ…っ」
師匠の吸血はこんな感じで何回かに分けられるので、一度食事が始まると結構な時間が掛かる。その間はずっと師匠に抱きしめられ て、普段ならここまで意識することは無いんだが、オレは自分がいま挙動不審になっていないかが不安で落ち着かなくて。
だから咄嗟に気を逸らそうと出てきたその話題は、オレにとっても完全に意図したものでは無かった。
「……。師匠は結婚とか考えていないんですか?…少なくとも相手は向こうから来てるみたいですけど。」
「ぷぁ…っガジュ、わて様ほどの吸血鬼が結婚していないとなんで思ったの?」
「っ…!?」
「フフ…冗談よ。結婚は昔に…学生の頃の片想いで少し考えたことがあっただけ…。
でもガジュ、わて様だってそんな事を言われたら気にするのだからね?」
師匠はそう冗談を言いながらオレの首元の消毒を終えると自分で作ったというお手製の薬用箱を持って立ち上がる。
「なら師匠も、軽々しく相手のことを特別なんて言い方をしないで下さい…」
「軽々しく?…貴方にわて様がどう見えてるのかは知らないけど、特別に思っているのは本当なのよ?」
今日のロノミアの薄紫色のパジャマは袖も長く、ネグリジェ姿で眠ることもある日などと比べれば布面積は多かったが、それでもやっぱり背中側は翼があるので大きく開いていて、彼女の後ろ姿は翼以外にも白い肌の肩甲骨が見えていた。
「…………。」
…オレはそんな彼女が薬用箱を置いた瞬間に、彼女の手を捻りあげるようにして壁際に押さえ付けた。
「…どうしたの?」
それなのに師匠は紫色の瞳を見開きぽかんとした顔でオレを見上げてくるだけで、彼女はこちらを異性の驚異として見ている素振りが全然無い。
「…師匠にとってどれだけ大切だったとしても、今のオレには意味無いですよ。
オレは…師匠と一緒に居られればそれで良いと思ってたのに、今日いきなり誰かも分からない人が師匠に言い寄ってきて…それでいつか師匠が誰かのものにされるかもしれないって、それがすごく怖かったんです。」
「……」
「師匠にそういう相手が居たら、きっとこれまでみたいに一緒に寝るのなんて許してくれないんですよ…オレにはずっと、師匠しか居なかったのに……」
「貴方にだっていずれ良い人は現れるわ。それによく診療所に来てた同い年くらいのあの子だって仲が悪い訳でも無いはず、わて様だけが貴方の全てでも無い筈でしょう……?
……それとガジュ、さっきから少し手が痛…」
「なんで話を誤魔化そうとするんですか」
「違うわガジュ、落ち着きなさ…」
「イヤだったら大吸血鬼の師匠が無理矢理でもオレの手を解けば良いじゃないですかっ…!」
オレは彼女にはそれが無理だと解っていた、既に師匠はしっかり力を篭めている状態なんだって。いくら吸血鬼でも純粋な腕力だけなら
それに師匠が得意な風を起こす力だってこの近距離ではお互いが無事では済まない、だから昼間のときも気が気じゃ無かったのに。
「…っ、わて様の話を聞く気すら無いようね…!」
「だから僕は……!」
心中を様々な感情が渦巻く。
もう状況は取り返しのつかない場所に来つつある事、師匠を取られたくない気持ち、でもこんな風に師匠を困らせたかった訳じゃ無い事、そして凄く自分勝手な理由で怒っている自覚。
様々な感情に押し潰されて言葉に詰まっていると、師匠の方が先に口を開いた。
「『だから僕は』…何かしら、わて様が貴方の言うほかの誰かの物になる前に襲いかかったの? 貴方の気がそれで済むのなら、わて様を好きにすればいいけど。
ああ……それとも
「…ッ!!!」
師匠の冷淡な声を聞いて、元から状況に取り返しなんて付くはずが無かったことにようやく気付く。
ひとたび魔が差してしまった自分の行為を咎めるような師匠の冷ややかな視線と挑発の言葉にオレは自分でも何をしてるのか、壁際に押さえ付けていたロノミアを今度はベッドに押し倒した。
次回は一週間以内に更新したいので前半投稿。
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