ふかふかな世界の甘々ヒーラー 作:カタナちゃん
暗黒大陸のただ中――荒涼とした岩肌が続く不毛の地から、ほんの少しだけ歩を進めた先。そこには、視界を遮るもののない、見事なまでにだだっ広い平原が広がっていた。
冷え冷えとした風が吹き抜けるその空間は、モンスターの気配こそまばらであるものの、一歩間違えば命を落としかねない死の領域に他ならない。しかし、そんな殺伐とした景色を背景に、今まさに世界を根底からひっくり返そうとしている張本人は、まるでピクニックの途中で良い場所を見つけたかのような、のんびりとした足取りで歩みを止めていた。
「よーし、この辺なら集落も離れてるし、亜人たちが暮らす気配もない。……見晴らしもいい、ちょうどいい特等席! って感じだ」
笑顔の後ろで先ほどからお供としてちゃっかりついてきているレッドキャップの少女――ルルは、全身をブルブルと震わせながらその場に立ち尽くしていた。
彼女の瞳には、目の前でこれから何が起きようとしているのかという恐怖と、数多の世界を渡ってきたとされる英雄。いや、英雄という言葉ですら足りない。最早神であると言ってもいい存在……と、思っていても不安は当然ある。神ならスタンピードくらい、と思う反面、自分のなかの常識が、思考ブレーキとなる。
言い知れぬ期待とがぐちゃぐちゃに混ざり合っているのだ。
「て、ていうか旦那様……! 本気で、本当にそれをやるつもりなんですか……!? 『スタンピード』ですよ!? 人間だろうが亜人だろうが、禁忌に触れたら容赦なく怒りに引き裂かれて、ドラゴンも含めた世界中のバケモノどもが全員でこっちに殺しにやってくるっていう、あの最悪のバグみたいな大暴走ですよ!?」
ルルは半泣きになりながら、ガタガタと震える小さな手を旦那様の衣服の裾に引っ掛けた。
彼女にとってのスタンピードとは、幼い頃から言い伝えられてきた『絶対に犯してはいけない禁忌。犯せば終焉を齎す』と言われていたもの。 犯せば例外なく死罪。それ以上の罪も与えられ、一族郎党皆殺し。そんな最大級の罰なのだ。
それを今から、目の前にいるこの彼が――ほんの出来心と好奇心で、意図的に引き起こそうとしているのだから、正気とは思えないのも無理はない。
「そもそも、そんな簡単に『火薬』とか『雷の要素』みたいな禁忌を、ここであっさり再現できるものなんですか……!? いくら旦那様がすごくて、この世界の大暴走そのものを意図的に起こすなんて、そんなの不可能なんじゃ――」
不安と恐怖で、ルルの言葉はみるみる早口になり、ついには泣き出しそうな声へと変わっていく。
もし失敗でもすれば、世界中を敵に回すどころか、この平原の真ん中で二人揃って文字通りミンチにされてしまうのだ。恐怖で足がすくみ、これ以上近づくなと本能が警告を発している。
だが、そんなルルのパニック状態を他所に、フッと余裕の笑みを浮かべたて頭を撫でてくれた。
その横顔には、死の恐怖など微塵もなく、むしろ難解な謎解きの答えを思いついた子供のような、純粋な好奇心とワクワクの色しか宿っていない。
「大丈夫大丈夫。心配いらないって、最悪収納魔法で退避させてあげれるからルルは絶対大丈夫。それで『できるのか』だけど……まあ、やってみなきゃ分からない面もあるけど、オレの経験則じゃこういうシステムの裏技ってのは大体相場が決まっててな?」
その小さな頭を優しく撫でてくれる。先ほどまでの混乱と恐怖が緩和されていく絶対的な安心感がそこにはあった。旦那様と崇める彼の技量を疑ったことはない。この世のものとは思えぬ力をもって、あの地獄から救い出してくれた時から、疑いようがない。
それを、改めて思い出したのだ。
そして、夜行性であるルルの目を焼かないよう、事前に施してある特製の視覚保護魔法が、青ざめたルルの瞳を優しく包み込んでいる。その温もりとブレない声音に、ルルはわずかに息を呑んだ。
「この世界のモンスターの生態を知るにはやっぱりスタンピードが一番効率的。と、言うより俺がワクワクしてる。色々試して向こうから喜んで挨拶に寄ってきた所で、楽しく『交流』かな」
「旦那様……」
「それに、ルルを危険な目に遭わせる気は最初からない。強引に付いてきたけど、主義でもあるけど、一緒にいる、って決めた以上、ちゃんと守るから。この世界の理、その深淵に近い事象を間近で見れる。ラッキー! くらいに思っていればいいよ」
それは根拠のないハッタリなどではない。
数多の世界で鍛え上げられ、あらゆる理不尽を力と知恵で攻略し尽くしてきた男が放つ、揺るぎない「絶対の自信」そのものだった。
――本当に世界を相手に遊んでみせるかもしれない。
そんな、常軌を逸した確信が、彼女の震えをピタリと止めた。
「……う、うん! わかりました……! 旦那様がそこまで言うなら、私、ちゃんとしがみついて見てますから……! おとも、させてください!」
覚悟を決めたように、ルルは旦那様の腕にしがみつき、しっかりと目を凝らした。
冷たい風が吹き荒ぶ平原の真ん中で、男はゆっくりと片手を天へと掲げる。
世界を敵に回す禁忌のスイッチを、今、この男が遊び半分で押し下げる――。
すべての始まりとなる、静かで、しかし狂気的なカウントダウンが、静かに音を立てて動き出そうとしていた。
天を仰いだまま、すっと右手を軽く宙へと突き出した。
その背にしっかりと腕を回し、特製の視覚保護魔法越しに彼の背中を見上げるルルは、心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響くのを抑えきれずにいた。
これから何が始まるのか。本当にこの男は、世界を敵に回すような真似を平然とやり遂げてしまうのか。
恐怖と、それ以上に圧倒的な好奇心が入り混じった緊張感が、彼女の全身を支配している。
「――よし。まずは手始めに、一番わかりやすい奴からいこうか」
呟いたその声には、緊張の色など一切ない。
まるで、どこかのカフェで注文を選ぶかのような軽やかさすらあった。
言葉の紡ぎと共に、周囲の空間がわずかに、しかし尋常ではない規模で歪み始める。
魔力の奔流が可視化され、見上げる頭上の青空がみるみるうちに塗りつぶされていく。
雲が切り裂かれ、その裂け目から顔を覗かせたのは、漆黒の闇と、宇宙の彼方から引きずり出された巨大な天体だった。結晶せし根源たる元素。
燃え盛る炎を纏い、凄まじい熱量を放ちながら急降下してくる赤い巨岩。
――隕石。前世のファンタジー世界や、この世界の歴史書においてすら「天災」そのものとして語り継がれる破壊魔法『メテオ』である。
「う、嘘……っ……!?」
あれは、なに? という疑問も出てこない。
あまりのスケールの大きさに、ルルは息を呑み、思わず旦那様の背中に顔をうずめた。
視覚保護魔法がなければ、その眩すぎる光と衝撃で一瞬にして視界を焼かれていただろう。
だが、旦那様は微動だにせず、ただ面白そうにその光景を見上げていただけだった。
「おっと、この位置なら完璧だな。それじゃ――ちょっと揺れるからしっかり掴まってろよ」
その声が聞こえた直後。
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!!!
想像を絶する轟音が世界を揺るがし、凄まじい衝撃波と爆炎の奔流が平原の一点を完全に呑み込んだ。
大地が激しく波打ち、耐えがたいほどの熱風と地鳴りが空間を引き裂く。
ルルは恐怖のあまり目を固く閉じ、旦那様の衣類を力いっぱい掴み締めた。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
やがて爆炎が収まり、もうもうと立ち込めていた黒煙が冷たい風に流されていく。
静けさを取り戻した平原の中心には、先ほどまでの平坦な大地が嘘のように消え失せ、直径数キロ、深さ数百メートルにも及ぶ巨大で底の見えない大穴がぽっかりと口を開けていた。
周囲の岩肌は高熱で融解し、ガラス質に変化してジリジリと煙を上げている。
「ふむ……。威力としては合格。発動も問題なし、地形を変えるくらいお茶の子さいさい、だけど……自然破壊はやっぱり趣味じゃないな。何もない所選んで正解だった」
旦那様は、自分が生み出したとは思えないほどの惨状(大穴)を眺めながら、満足げに一人で頷いた。
そして、その場にしゃがみ込み、周囲の気配を探るように軽く手をかざす。
ルルも恐る恐る顔を上げ、ガタガタと震えながらその様子を窺った。
人間たちが恐怖する「禁忌」――火薬や蒸気技術のような、物質的な大爆発。それをこれほどの規模で、魔法によって完全に再現したのだ。
これだけ派手にやれば、世界のシステムが「禁忌だ!」と盛大に反応して、モンスターの大群やドラゴンたちが一斉に押し寄せてくるはずだった。
だが――。
風が吹き抜け、遠くで不気味な鳥の鳴き声が聞こえるだけ。
世界は、どこまでも冷たく静まり返ったままだった。
地平線の向こうからモンスターの咆哮が聞こえることもなければ、世界の怒りを示すような不穏な予兆すら、微塵も起きていない。
数秒、そして数十秒が経過する。
「……あれ?」
ルルは小首をかしげ、ぽかんと口を開けたまま周囲を見回した。
何も起きない。あまりにも何もない。
「旦那様……? なにも、おきません、ね……?」
恐る恐る尋ねるルルに対し、旦那様は顎に手を当て、どこか納得したような、それでいて呆れたような、絶妙な表情を浮かべてフッと息を吐いた。
「んー。威力はちゃんと思い通りに出たからな。……ただ、どうやら仕様の判定が想像以上に厳格すぎるらしい」
「しよう……?」
「うん。人間たちが『禁忌』と定めてる、トリガーとなりえるのは、単なる大爆発や物理的な破壊活動のことじゃない。もっとピンポイントに、『火薬という物質の製造・使用』とか、『蒸気機関や雷の要素という特定の文明的・技術的タブー』に限定されてる可能性が高い、かな?」
つまり、どれだけ地球を滅ぼしかねないほどの巨大な隕石をブチ込んで、大地に数キロのクレーターを作ろうとも、この世界のシステムからすれば
「あ、派手な自然災害が落ちてきたのね?」
でスルーされてしまうのだ。
「なるほどなるほど。物質としての火薬そのものや、明確な技術体系としての『雷の要素』に直接干渉しないと、判定の網に引っかからないってわけか。中々どうして、く出来た検知システムじゃないか。誰が作ったり考えたりしたんだろ?」
感心したように笑う。仮に今の考えが、仮説が正しいのであるならば、このシステムそのものを作り出した存在が気になってくるところだ。どう考えても人間や亜人、モンスターが作れるようなシステムじゃないから。
ルルは冷や汗を流しながら、ぐったりと肩の力を抜いた。
世界を消し飛ばしかねない大魔法を放ったというのに、本人はまるで「遊びの延長」のようなノリなのだから。
「じゃあ物質的な大爆発が軽くスルーされるなら……次はもう一つだな。試しまくって壊しまくって自然破壊するのは辞め辞め」
旦那様は立ち上がり、さらに不敵な笑みを深くした。
ルルの背筋に、先ほどとは違う、しかし最高にワクワクするようなゾクゾクとした悪寒が走る。
「本命の、『雷の要素』の出番」
そう言って、次に静かに右手を掲げた。
バチバチ、と。
周囲の空気が一瞬にして重くなり、見えない静電気が肌を粟立たせる。
メテオのような派手な大爆発を起こすわけではない。無駄に周囲の山林を焼き払ったり、生態系を無意味に破壊したりしないための配慮か、彼は魔力の出力範囲を極限まで絞り込み、極めて限定された空間へとその現象を収束させようとしていた。
下手に山火事でも起こせば後が面倒だという、妙に生活感のある配慮がそこにはある。
「それじゃ、いきなり右ストレート(メテオ)放っといてあれだけど、初心に戻って軽くジャブ程度」
指先を小さく一瞥し、パチン、と乾いた音を鳴らした瞬間。
ピシャアアアアアアンッ!!!!!
地表を焦がすような鋭い閃光が走り、ほんのピンポイントの空間に、幾筋もの高圧的な稲妻がまるで雨の如く降り注いだ。
「ひゃああ!!」
轟音が鼓膜を叩くが、ルルには特製の視覚保護魔法が施されているため、目が眩むこともなければ怯えすぎることもない。ただ、しっかり見えるので、驚き声を上げることは止められなかった。
目の前でバチバチと青白い火花を散らす雷の奔流が、空気中の水分を電離させてオゾン臭を漂わせる。
「雷の要素に……、雷、そのものを………」
「んー、まだかな。システム側も『あ、少し強い雷が落ちたのね』くらいにしか判定してない? とか」
首をかしげ、軽く肩をすくめる。
メテオの時と同様に、一発や二発の魔法では、この世界の厳格すぎるセキュリティの網をすり抜けてしまうらしい。
普通の感覚(やってることは普通じゃないが)であれば、「ああ、ダメだったんだな」とここで諦めるところだろう。しかし、数々の世界の理不尽なシステムを攻略し尽くしてきたベテランな男は、そんなことで引き下がるわけがなく。
「なら、足りない分は回数と密度でカバーするとしようか。検知引っかかるまで、ひたすらバグを叩き込む感じ!」
「え……?」
ルルがぽかんと口を開けたその瞬間。
ピカッ、バリバリバリッ――!!!
ドドドドドドドドドッ!!!!!!
「ひゃうっ!??」
連続詠唱すら不要。旦那様の意思に呼応するように、平原のピンポイントな上空へと、次から次へと無数の雷撃が雨あられの如く叩きつけられた。
それはまるで、世界の許容量を無理やりテストするかのような、終わりの見えない雷の乱れ撃ちである。
ビシバシと空間を引き裂く電光の奔流は、しかし彼の完璧な魔力制御によって周囲の草木一本すら不必要に燃やすことなく、ただひたすら同じ一点の空間――「雷の要素」という禁忌の条件を、世界システムの脳髄に直接叩き込むように降り注ぎ続けた。
一発、二発。十発、百発。
常人であれば魔力枯渇でとうに気絶しているような濃密な雷撃の連打が、数分、あるいはそれ以上の時間にわたって容赦なく繰り返される。
『――【警告】。同一地点における、高密度な雷の要素の干渉を多数検知』
『――【エラー】。想定外の不法な魔力干渉を確認。ルール外の接触を感知』
『――【セキュリティ・オーバーライド】。……警告。禁忌の触発、およびシステムへの継続的な不正アクセスを確認』
と、言うような声が聞こえた気がする。
世界を統べる絶対のシステムが、バグの連続発生に耐えきれなくなったかのように、目に見えない次元で悲鳴を上げ始めた。
はじめはただの「派手な雷の雨」でしかなかったその空間の歪みが、徐々に世界そのものの根幹を揺さぶる巨大な歪みへと変わっていく。
それはまるで、分厚い氷の底に走る亀裂のように、世界の理に致命的な亀裂が入り始めた瞬間だった。
「……おおっ!?」
旦那様がふと手を止め、面白そうに目を細める。
その直後だった。
ドゴォォォォォン……ッ!!!!!
空から降る雷の轟音とは全く違う、地底の底から這いずるような、世界そのものが悲鳴を上げるような凄まじい低音の振動が、足元から全身へと伝わってきた。
「ひ、ひえぇぇぇっ……!? な、なんですか、今の音……!? 地震、ですか……っ!?」
ルルは恐怖のあまり、再び旦那様の腕にしがみつき、ガタガタと震え出した。
それはただの自然の揺れではない。空気の震えそのものが、この世界の生きとし生けるもの全てに対する「絶対的な拒絶と怒り」を帯びていたからだ。
足元の地面が波打ち、遠くの地平線の彼方から、それまで聞こえるはずのなかった地鳴りが一斉に押し寄せてくる。
世界中を覆うほどの膨大な数の気配が、一糸乱れぬ狂気をもって、ただ一点――今、雷撃を浴びせ続けたこの平原の真ん中を目指して、猛烈なスピードで移動を始めているのが肌で感じられた。
「あ、あれ!! モンスターの群れ、それに……っ! ああ、あんなところにまで……っ!!」
ルルがパニックを起こしながら指差したその先。
暗黒大陸の果て、普段なら絶対に人間の領域や平原になど降りてこないはずの、あの圧倒的な強さを誇る頂点種――ドラゴンたちの巨大な影が、何頭も空を覆い尽くすように飛び立ち、狂乱の赤い目をぎらつかせながらこちらへと殺到してくるのが見えた。
それは、理性を剥ぎ取り、ただ「禁忌を犯した者を根底から屠る」というシステムだけの命令に突き動かされた、狂気の大暴走。
数万、数億のモンスターと強者たちが、世界中から文字通り雪崩を打って押し寄せる、かつてない規模のモンスタースタンピードが、ついにその全貌を現したのだった――!
周囲を埋め尽くすほどの殺気と、大地を揺るがす圧倒的な数の暴力の奔流。
逃げ場などどこにもない絶望的な状況を目の当たりにし、ルルは恐怖で息を呑んだ。
だが、その中心に立つ男――旦那様の口元には、最高に楽しげで、どこまでも不敵な笑みが深く刻まれていた。
「おっ、きたきた……! いやぁ、流し続けた甲斐があった。……ほらほら見てルル。これが、この世界の本気! ってやつだ! 堪能させてもらいますか!!」
神の怒りすら、ただの「美味しいお祭り」として笑い飛ばす男の背中を見て、ルルは恐怖と興奮が入り混じった奇妙な高揚感に包まれながら、その衣類をぎゅっと握りしめるのであった――!