これを書いたときはまだ不明だったのよ。
谷くんの進路。
★★★(悠介)
僕は科学に憧れがあった。
科学とは、神様が図面を引いた世界の設計図を読み解く学問だと思っていた。
科学に携わることで、人は真理に手を延ばせる。
だから本を読むのが好きだった。
知識を得ることに喜びがあった。
歴史を知るのも好きだった。
歴史は人間の歩みだから。
歴史研究者か、科学者か。
悩んだこともあった。
そして最終的に選んだ仕事は、科学者。
工学系の大学に進み、大学院を修了して。
念願の企業の研究者になった。
そこで、色々と研究者の世界に触れることになった。
「この製品とこの製品を組み合わせて使用することを知ってるのは主任だけなんだ。……谷。これがこの会社のノウハウのひとつな? こういうのが大事なんだ」
「会社の情報を売る行為は仲間に対する裏切り。裏切りは最低の行為だ。会社で得た情報は誰にも話すな。例え親兄弟、嫁にもな。話した時点で仲間に対する裏切りだと思え」
……これが研究者の世界か……!
最初知ったとき、興奮してしまったのを覚えている。
仕事を通じて得られる新しい知識。
人間の世界とは一体何なのか。
知ることの喜び。
……だけど。
仕事は、喜びだけじゃない。
「何だこの意味不明の実施例は! 特許は審査官との論理での殴り合いなんだぞ!? 向こうは基本特許を認めるつもりなんてない! そこを論破して通させるのが特許なんだぞ!? お前は何を勉強してきたんだ!?」
「技術報告書が分かりにくい! お前は国語の成績どうだったんだ!? こんな国語力でよく学校に通ったな!?」
「お前、休みの日も休みなんてあると思うなよ? 空き時間は技術関係の書籍を読むのが常識だからな? 会社に入れたからといって安心なんてできんぞ? 要らない人は去ってもらうべきなんだからな?」
……これが、お金を貰って研究するということか……!
学校でやったことと全然違う研究環境。
多人数が研究に関わり、複数のテーマを研究する。
その環境からくる、様々な軋轢。
測定機器の数が限られていることによる、争奪戦。
人数が多いため、思う通りに進められない研究。
出世競争。
他人の成果に対する妬み。
……ここは、ただ勉強ができるだけの人間が生き残れる場所じゃない。
それについて、入社後1か月過ぎたあたりで気づくに至った。
特に学歴。
会社に入る前は、学歴が高いことは良いことだと思っていた。
だけど……
こんな事があった。
僕に全体集会で社長が語った内容について、訊いてきた社員がいた。
工場勤務の男性だ。
僕より年齢が上の、いい大人だ。
僕は親切心で、社長の話の内容に細かい解説を加えて話したんだ。
分かりやすい方がいいだろう、という気持ちで。
僕がみゆから学んだ精神のひとつ。
これは何も間違いは無いと思っていたんだ。
なのに
突然、その社員は怒り出した。
「良い大学出てるからって、調子に乗るな!」
……理解できなかった。
何故、今の話に怒り狂うんだ?
何故、僕が悪意を持ってると決めつけるんだ?
そのとき、僕の顔は青ざめていたかもしれない。
みゆには「悠介さんは顔に出ない」って言われてはいるけど。
ここでは、学歴が高いことが必ずしも良い方向に働くとは限らない。
一定以上の学歴は、ここに立つ必要条件で、安泰な社員生活を約束する十分条件じゃないんだ。
それを分からされた。
……なんて恐ろしい場所なんだ。ここは。
これが仕事としての研究、か……!
実際、脱落する同期の仲間が何人も出た。
最初の1か月でいきなり1人辞めた。
そして3ヶ月後、さらに1人辞めた。
これからも、脱落する仲間が出るかもしれない。
僕だって、みゆと結婚していなければ分からなかった。
過酷な環境だからだろう。
ほぼ満額出される残業手当、深夜手当、休日出勤手当。
珍しくない徹夜。長時間勤務。
そこから来る高い給料。
……お金を、愛しい人のために稼ぐことができる。
僕は他の職場を知らないけど……ここ以上の職場が、果たしてあるだろうか?
だから、辞められなかった。
みゆの人生を支えることだけを支えに、夏を乗り切り、冬。
冬のボーナスが支給された。
はじめて貰うボーナスだった。
……これで、みゆのために指輪を買うことができる!
嬉しかった。
本来は結婚前に渡すものが、僕にお金が無かったばかりに渡すことができなかった。
それの埋め合わせが、ようやく出来る!
「みゆ……遅くなったけど」
僕の目の前で、みゆはきょとんとした顔をしていた。
何が起きるのだろう?
そう、言いたげな瞳。
ようやく巡ってきた休みの日。
僕は手近なレストランを予約して、二人で食事に出向いた。
テーブルを挟んで、二人。
外出用の服を着て、やってきた。
あのときの、プロポーズのときのように。
僕は、みゆのために購入した指輪のリングケースを取り出す。
……決めていた通り。
冬のボーナスを全てつぎ込み、購入した。
テーブルの上に差し出す。
みゆはポカン、という顔をしていた。
可愛かった。
僕の顔とリングケースを見比べ、キョドっている。
みゆらしい反応だ。
「え、え、え」
事態を飲み込めていないのか。
変な声を漏らしつつ、僕とリングケースを見比べる。
「約束したよね。婚約指輪……順序が違ってしまったけど」
「え……!」
そこでやっと、事態が飲み込めたようだった。
みゆの表情が震え始める。
「そんな……いいのに」
言いながら、彼女はリングケースに手を伸ばし
「開けて良い?」
と訊いてきた。
僕は頷く。
みゆはリングケースを手に取り、開けた。
中には……ダイヤの指輪があった。
わぁ、という声が漏れた。
「嵌めてみて」
みゆは僕の言葉を受け、指輪を左手の薬指に嵌める。
ゆっくりと、噛み締めるように。
そして、指輪の嵌められた左手を僕に、スッと示してくれた。
「ありがとう悠介さん」
満面の笑み。
僕は嬉しかった。
そして。
自分がお金を稼いでくる意味が、本当に理解できた気がした。
お金を稼いでくることが納得できるなら、苦労にも耐えられるんだよ。