【ボラレフィリア】とは生物に捕食される事に性的興奮を覚える、いわゆる異常性癖の一種である。
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「完全に迷っちゃった。熊とか出ないかな……」
鬱蒼とした暗い森の中を、一人の女が地図を片手に歩いている。
ポケットに入れたスマホは光を失って久しい。リュックにぶら下げたコンパスの針はぐるぐると狂った様に回り続け、既に使用を諦めている。
出発時よりも半分程の重量になったリュックを背負い直し、女は折れかけのポールを片手に森を進む。
先程までは苔むした岩肌が度々足を取ろうとするような悪路だったが、いつの間にか若葉がパラパラと落ちている土の地面だった。
女は周囲を注意深く観察しながら、森の中を彷徨う。日差し避けに被った帽子とメガネの隙間、額に滲む汗を手袋を着けた手で拭いとる。
風が茂みを揺らし、女は体を強張らせる。数秒茂みを見つめ、何もいない事を確信してまた進みだす。
「え?」
そんな女の周囲を、一瞬で闇が覆い尽くした。
つい一瞬前までは薄暗いとはいえ、頭上の日の光を拝む事が出来た。だが今では自分の手元すら見えない。
女は自分の手を目の前にまで持ってくる。手が自分のメガネを触れる感触は返ってくるが、いつまでも視界に自分の手が映らない。
「ふふふ。外の人間は食べてもいい人間なんだよ」
透き通る様な少女の声が闇の中に反響する。
女は手を退け、声のした方に顔を向ける。
「ばぁ」
目の前に、逆さまの少女の顔が現れる。
「わぁぁぁ!?」
「博麗の印もない、服装も見たことがない。ちょうどお腹が空いてたから良かった〜」
女は両腕をがっちりと掴まれ、ものすごい力で地面に押し倒される。
胸の上に両膝を乗せ、少女は女の上にちょこんと座る。
綺麗な金髪は首元で切り揃えられており、黒い服に赤いリボンがアクセントとして付けられている。
「あ、あなたは……?」
女は状況が飲み込めない様子で少女に尋ねる。
少女はにっこりと微笑みながら、女の顔をじっと眺めた。
「私はルーミア、人喰いの妖怪。今からあなたは食べられるのよ」
「よ、妖怪? 私を食べる?」
「そう。あなたは不運だっただけ、観念してたっぷり恐怖してね〜」
ルーミアは口が張り裂けんばかりに笑顔を浮かべ、口を大きく開ける。
その瞬間、ルーミアは女の異常な様子に動きを止めた。
「はぁはぁ……ほ、本当に食べてくれるんですかぁ……?」
「……え、興奮してる?」
女は恍惚とした表情を浮かべ、湿った吐息をだらしなく緩んだ口元から荒く漏らしている。
ルーミアは顔を歪ませ、その女から顔を遠ざける。
「ぁえ? 食べてくれないんですか……?」
潤んだ瞳をルーミアに向け、女は切なそうな声を漏らす。
その妖艶さに、ルーミアは腹の底から湧き立つ気持ち悪さを味わう。
思わず飛び退いたルーミアは、女の事を訝しげに見つめる。
「な、何。あなたは……」
「あ。私は五島ミサって言います。五つの島って書いて、五島です」
「知らない知らないめちゃくちゃどうでもいい! 違う、そんな話じゃない!」
ミサはゆっくりと立ち上がり、背中側に付いた土を手で払い落とす。
「ところで、人喰いの妖怪ってなんですか? 本当に食べてくれるんですか?」
「うわぁ! 気持ち悪い! こっち来るな!」
ルーミアは自分の敗北を悟った。
今までに向けられた事のない感情に、ルーミアは思わず後ずさる。
女は後ずさるルーミアに合わせ、一歩近づく。
その瞬間、ルーミアは自分の中に存在する妖怪の本能が刺激された。
(人間から逃げ出すなんて、人喰いの妖怪の名折れ!)
ルーミアは下げた一歩を、前に踏み出す。
その時、ミサの顔が愉悦に歪んだ。
ルーミアは自分の二度目の敗北を悟った。
人喰いの妖怪である彼女が、愉悦に歪んだ、快楽を今まさに堪能しようとするミサのその表情に。
あまりにも人間を超越した、今にも蕩け出しそうなその顔に。
ルーミアは腰を抜かし地面に座り込んだ。
「ふへッ、うへへ……」
整った顔を破顔させ、ミサはルーミアに這う様に近づく。ゆっくりと手袋を外し、傷ひとつない綺麗な手をルーミアの開きっぱなしの口に捩じ込もうと近づけてくる。
ルーミアは歯を食いしばり第一の壁に。唇を固く閉じ第二の壁に。そして自分の手を第三の壁として口内への侵入を防ごうと試みる。
ミサはルーミアの手を解き、ペタペタと唇を触る。
「一回りも小さいのに、私を押さえつけるパワー。口を開いた時に見えた鋭い牙……」
ミサはルーミアの唇を剥き、歯の表面を指で撫でる。
ミサの両親指はルーミアの口に生えている二対の牙を優しく触れる。
「人間にはありえない。きっとあなたの言う通り、あなたは人喰いの妖怪」
ミサは片手でルーミアの鼻を摘んで塞ぐ。
「そして私は食べられたがりのボラレフィリア。利害の一致、目的の達成……! ふへぇ……」
ミサの口の端からこぼれ落ちた涎が、ルーミアの服に滴り落ちる。
鼻を抑えられ息苦しくなったルーミアは口を大きく開け、息を吸い込んだ。
「がぼっ」
その瞬間ミサの右手がルーミアの口に捩じ込まれた。
手の甲まで口の中に入り、ルーミアは苦しくなって顎に力を入れる。閉じようとする口に生えそろった歯が、ミサの皮膚に突き刺さる。
ミサは体を痙攣させ、顔を伏せ荒い吐息を吐き出している。震える顔を少し上げ、恐悦至極の瞳でルーミアを見つめる。
ルーミアは自分の闇よりも深いその目を見て、恐怖のあまり卒倒してしまった。
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ルーミアが意識を取り戻したのは数分後だった。
目が覚めると同時に口の中の血の味を味わい、あの恐怖体験が夢幻で無かった事に身を震わせる。
「あ、おはようございます」
「うわぁ!?」
突然声をかけられ、情けなく叫び声を上げる。
振り向けば、そこにはさっきの気の狂った女。
ルーミアはまたあんな目に遭わないうちに、ここから逃げようと思考した。
「あの、さっきはごめんなさい」
「……」
ミサは深々と頭を下げ、ルーミアに謝罪した。
ルーミアは状況がよく分からなかった。だが、謝罪をする程の理性がある人物だと判断し、妖怪らしからず話し合いでの解決と事態の収拾を図ろうとした。
「相手が嫌がっているのに、無理やりは良くないですよね」
その判断が誤算だった事に気づいたのは、すぐ後だった。
「……えっと、あなたは?」
ルーミアは静かに問う。妖怪が人間に対して行う問答ではなく、人間が人間に対する問答の様に丁寧な物言いで。
ミサは居住まいを正し、金色のボブカットを揺らしながら頭を軽く下げた。
「五島ミサです」
「そ、そう……」
ルーミアにとって予想外の回答だった。
ルーミアが期待していた回答は、〜〜の妖怪である。と後ろに付け足される回答。人外である者特有の回答だった。
だが、目の前の女。五島ミサは、ただ名前を名乗っただけだ。
ルーミアにとって最後の希望であった、何かの物怪であるという仮説は消え去った。
「私、昔から悪い癖があって……」
「へ……」
ミサは自分の頬に手を当て、ため息混じりに話を始める。
「昔祖父が魚の踊り食いを居間でしていて、それを見て自分も食べられる時はあんな風になるのかなって想像してしまったんです」
「……」
「その想像が忘れられなくって、いつしかそれに興奮してしまう様になったんです」
「……はぁ」
「それから野生動物を研究したりフィールドワークに赴いたり……自分がいつか食べられる事を夢見て生きてきたんです」
ミサは自分の右手を口元に近づけ、ルーミアが付けた歯形を舌で舐める。
「だから初めて自分を捕食してくれる対象に出会って『運命』を感じたんです」
背筋を這い回る悪寒から目を逸らすために、ルーミアは自分のスカートの裾をギュッと握った。
うっとりとした表情で自分の手の傷を堪能していたミサは、その瞳をルーミアに向け直した。
「それで、人喰いの妖怪というのは?」
「え……えっと……」
ミサは顔を少し近づけ、ルーミアに静かに問う。
ルーミアは地面に尻を擦りながら、少し距離を開ける。
「あなたはきっと、外の世界の人でしょう?」
「外の世界……?」
「ここは幻想郷っていう場所で、外の世界とは違う空間に存在しているの」
ルーミアは怯えを隠しながら、自分以外の何かに興味を持ってもらおうと必死に口を動かす。
「幻想郷には私の様な妖怪や神様とかがいて、各々生活しているの」
「へぇ、そんな場所が……」
ミサは周囲を見渡し、物珍しげに膝下の植物を撫でた。
「さっきの力の強さも、突然私の視界が真っ暗になった現象も、全部妖怪であるあなたの力って事なんですね」
「そう。幻想郷は……」
ここでルーミアの思考回路に七色の閃光が走った。
幻想郷には自分以外にも多くの人物がいる。その中には人喰いの性質を持つ妖怪や化物も大勢いる。
そいつらに興味を持たせれば、きっとこの人間は私の前からいなくなる。
「げっ! 幻想郷には他にも色んな妖怪とかがいて、中には人を積極的に食べる奴もいる!」
詰まりながらも、大声を張り上げそう主張する。ゆっくりとミサの顔を見れば、そこには口を張り裂けんばかりに歪ませ期待を膨らませる表情を顔に貼り付けていた。
「じゃ、じゃあそういうことで!」
ルーミアは背を向け、急いでミサから離れようと飛び上がる。
だがルーミアがその場から急いで立ち去ろうとしている事を察していたミサは、既にルーミアの足を両腕でがっちりと掴んでいた。
「ヒィィ……」
「まぁまぁ待ってくださいよぉ……ふへへ……よければ案内してくれませんかぁ?」
目を弧の形に歪ませ舌舐めずりをし、湿った瞳でルーミアを見上げる。
その姿はまさしく正真正銘の妖怪であったと、後にルーミアは語ったという。