早朝から昼前にかけて毎日霧がかかり、異界を思わせるような不気味な雰囲気を纏うこの湖。
人は霧の湖と呼び、近ずく者はいなかった。そんなある時、湖の側に大きな洋館が一夜にして立ったという。
赤い煉瓦造りのその建物には悪魔が住み、より一層誰もこの湖には近寄らなくなった。
「って話なんですけど、実際はちょっと違うんですよね」
「そうなの?」
湖の畔を歩きながら、二人の女は真っ赤な洋館を目指す。
片方は短い金髪にこの幻想郷では見ない現代的な服装。もう片方は黒い羽の生えた鴉天狗が、周囲の様子を時々手持ちのカメラで撮影している。
「まぁ会ってみてのお楽しみですよ。そっちの方が初見のインパクトがありますし」
「とは言っても知らない人と会うのはやっぱり心配ね。お土産とかいらなかったかな?」
「あ〜。ま、大丈夫じゃないですか?」
洋館の前に立つ門番は、湖に沿って近づいてくる不審者二人に既に警戒していた。
片方は見覚えがある。悪名高き鴉天狗、何度かこの紅魔館に取材やら新聞の勧誘だかで来ている。門前払いで問題ないと言われているが、もう片方に見覚えはない。
だが、どんな奴が来ても怪しい者にこの門を開く事はない。
その信念を胸に、大きく息を吸い込んだ。
「何用だ、鴉天狗! 新聞は取らん!」
先手必勝。あの鴉天狗は腕っぷしはないが、速度には目を見張るものがある。だからこそ近づかれる前に、牽制することが大事だと考えたのだ。
すると、鴉天狗は呑気に手を振りペースそのままで歩いてくる。
門番は訝しんだ。いつもなら手を揉みながら高速で接近してきて、媚び諂う様に新聞を取らないかとしつこく聞いてくる。だが、今度ばかりは事情が違う様だと悟った。
「あ、ほら。あの人が門番の紅美鈴さんです」
「へ〜。幻想郷には美人が多いのね」
「おい! 止まれ! 止まれって!」
門番の静止も聞かずに、二人はどんどんと歩いてくる。
ついに館の前にまでやってきた二人をみて、美鈴は首を傾げた。
「鴉天狗と……外の人間か?」
「五島ミサと申します。今日はよろしくお願いします」
「あぁこれはどうも丁寧に。紅美鈴です」
頭を下げ挨拶をする人間に釣られ、ついつい自分の頭を下げて挨拶をする。
そして何か引っ掛かる物言いに顔をあげた。
「今日はよろしくお願いします?」
「はい。こちらの館の主人は人喰いだと聞きまして」
「はい……まぁそうですね」
「なので今日は食べてもらおうと思いまして」
「……どういう事で?」
美鈴は首を傾げた。
何を言ってるか訳がわからない。だが、明らかな不審者。それに鴉天狗も一緒だ。絶対に何かを企んでいる。
美鈴は気を引き締め、拳を握る。
「何の御用かは理解しかねますが、お引き取り願います」
「あれ? 射命丸さん、許可は取ったと言っていませんでしたか?」
「えぇ、手紙は出しましたよ」
「それで、返事の方は?」
ミサの鋭い指摘が射命丸の喉を射る。声も出さずに、スーッと視線を逸らす。
鳩が豆鉄砲を食らった様子のミサを、美鈴は睨む。
「とにかく。館の者からの許可がないとここはお通しできません。許可を取ってからまたお越しください」
「残念ね、とにかく今日は帰りましょうか」
「いいや、ダメです」
二人の視線が射命丸に集まる。
「今日は何としても取材させていただきます」
「な、何を」
「記事は鮮度が大事。今日の朝幻想郷中にばら撒いた号外で、文々。新聞に注目が集まります。次号を出すのが早ければ早いほど、集まった注目が顧客に結び付きます。だからこそ明日の朝までには新聞を作らねば、後日の取材など熱い鉄が冷えてしまいます」
「コイツ……!」
明らかに異常な様子の射命丸を見て、美鈴はミサを指差した。
「妙な真似をしてみろ、お前の仲間を攻撃するぞ!」
館を守る使命を抱えた美鈴にとって、射命丸は天敵とも言えた。
重い一撃を入れる戦闘スタイルの美鈴にとって、速さで撹乱するタイプの射命丸は相性最悪。だが、幸いにも普通の人間を引き連れて現れた。
射命丸を脅し、ここは引き下がってもらおうと思い取った行動であった。
だが、それが逆に射命丸の逆鱗に触れた。
「ッ!?」
いつの間にか美鈴の腕には、天狗の高下駄が打ち下ろされていた。
広げた翼が太陽を遮り、射命丸の姿はその狂気を表す様に黒く輝いていた。
「私の商売道……友人に手を出さないでもらえますかねぇ」
「正気じゃない……!」
射命丸の足を掴み、捻じ切る勢いで美鈴は腕を回す。
だが、射命丸はその腕の回転に合わせ体ごと回り勢いを殺す。
足を掴んだはずの手を、射命丸に両手で押さえつけられる。
翼を大きく広げ、美鈴の足元に風をかき集める。
「まさか……!」
地面から突風が巻き起こり、美鈴と射命丸は一瞬で空へと打ち上がる。
美鈴は自分の手を掴む射命丸を剥がそうとするが、動きに合わせて風を操り上手く避けられる。
「文々。新聞の再誕なんです。あんまり邪魔しないでください」
射命丸は体を捻り、地面に向かって急降下を始める。
翼で風を受け、速度は更に増していく。地面にぶつかる直前、射命丸はまたも体を捻り美鈴だけを地面に叩きつけた。
土埃が舞い上がり、射命丸は地面に降り立つ。
そしてミサに笑顔を向け、館を指差す。
「さ、今のうちに中に入っちゃいましょう」
その時。土埃の中からぬるりと手が出て、射命丸の襟元を掴んだ。
「受け身を取らなきゃ骨が折れてた……これは正式に侵入者って事で対処してもいいんですよね」
土埃を体で掻き分け、顔に付いた土を拭いながら美鈴が呟く。
殺意のこもる目を射命丸に向け、自分の方に引き寄せる。
「そこまで」
両者の間に、一人のメイドが現れる。
二人の首にナイフを突きつけ、美鈴は素早く手を離した。
「鴉天狗は取材のマナーも知らないのかしら」
「急を要するものでしたので」
「それはあなたの勝手でしょう?」
ミサは状況についていけず、ただ茫然とそのやりとりを見ていた。
不意にメイドと目が合った。
「はぁ……お嬢様も物好きですね」
瞬きの間もなくメイドは背後からミサにそう声をかけた。
「お嬢様の【特別な】許可が出たわ、鴉天狗。その人間を連れて着いて来なさい」
「やった!」
「それと美鈴、よくやったわ。医務室で処置を受ける間は代役を立てるから休みなさい」
「はい、そうさせてもらいます」
ミサの背中を押し、メイドは館の入り口へと歩いていく。
ミサは館を取り巻く不気味な雰囲気に押され、緊張し恐れを抱いていた。
射命丸はそんな事には一瞥もくれず、ベラベラと長台詞で紅魔館の事を褒め称えている。
「十六夜咲夜。あなたが何者か知らないけれど、お嬢様に変な事を働けば命はないと思いなさい」
ミサは一瞬言葉の意味が分からなかったが、少し経って名前と敵意を向けられている事を理解した。
そんなミサの背後で、固く重い紅魔館の玄関扉は閉じられた。
紅魔館の内装はミサが思っていたよりもシンプルで、天井からは煌びやかなシャンデリアが。
玄関の真正面には映画で見るような大階段が備えられ、巨大な踊り場からは左右に分かれていた。
「お嬢様は最上階でお待ちです」
そう冷たくいい、咲夜は階段を先導して登っていく。
射命丸に背中を押され、ミサは恐る恐る階段を登る。所々に飾られる調度品には傷どころか埃一つなく、物品自体が気品を放っているかの様に錯覚する。
踊り場の壁には巨大な絵画が飾られており、そこにはそっくりな二人の翼を持った少女が笑顔で描かれている。油絵独特の温度感を閉じ込める様に、分厚い額縁で保護されている。
「ねぇ射命丸さん、あの写真の人物は?」
「あれはですね」
「あの方が紅魔館の主、レミリア・スカーレット様です。その隣が妹様のフランドール・スカーレット様です」
「へぇ、随分と若いのね」
「若いとは……いかにも人間らしい感想ね」
階段の上から声がする。全員が顔を上げるとそこには絵画に描かれた少女、この紅魔館の主であるレミリア・スカーレットが立っていた。
「その人間が例の手紙の?」
「レミリアお嬢様、お部屋でお待ちくださればお運び致しましたのに」
「物珍しい人間に一刻も早く会いたくなってな。気にするな」
レミリアは階段を降り、踊り場に立ち尽くすミサの頬を掴む。
そして果実の品定めをする様に扱い、ため息と共に手を離す。
「大して面白そうな品ではないな。てっきり恐怖を忘れた者かと思ったが、しっかりと怯えている」
「……」
「鴉天狗……よくも手紙であんな大口を叩けたな?」
「い、いやぁ……大口というか」
レミリアに詰め寄られ、射命丸は壁際で身を固くする。
救いを求める様にミサに視線を送るが、ミサはそれどころではなかった。
ミサ自体、食べられる事に恐怖は感じない。だがこの屋敷の敷地に入った瞬間から、ミサの体はある感覚を感じ取っていた。
それは死の予感。
強烈な死の予感が第六感を刺激し、ミサの中に恐怖信号を発していた。
そしてその死の正体であるレミリア・スカーレットを目の当たりにし、ミサは殺される事を待つ小動物同然に縮こまっていた。
「もういい、咲夜。手早く調理して頂戴」
「は、かしこまりました」
呆れた様子のレミリアが興味を失せた様子で背を向ける。
咲夜の鋭い瞳がギラリと光り、ミサに視線が突き刺さる。
「調理?」
強烈な死のイメージで硬直していたミサの体は、レミリアのこぼした一言で一瞬でほぐれていた。
「調理って言いました?」
「……えぇ。ステーキにでもして」
「生で食べてくださいよ」
ミサはゆっくりと諭すような口調でレミリアに直談判を始める。
咲夜はその様子に怒りを隠さず、ナイフを取り出しミサの後頭部に投げつける。
「おっと、足が滑りました」
「鴉天狗ぅ……!」
そのナイフを射命丸が蹴り上げ、ナイフは天井に突き刺さる。
レミリアは振り向き、ミサと向き合う。
「食料が食べられ方に口を出すのかしら?」
「私はここに死にに来たんじゃないんです。食べられに来たんですよ」
「……死の恐怖を忘れる程の熱意。いや、拘りかしら? どちらにせよ人間の癖に随分と傲慢ね」
「レミリアさんは進んで食べられようとする人間に興味が湧いたからここに通した」
「そうね。でも大したものじゃなかったわ」
「私のポテンシャルを全て発揮できるのは、生食だけです。わざわざ通して、私の全て見ずに殺すんですか?」
「……随分な口を聞くわね、人間」
レミリアが指を水平に動かす。その瞬間ミサの膝の裏に切れ込みが入り、踊り場に膝をつく。
「いっ……!」
「食べられるのは好きなのに、苦痛は苦手なのかしら?」
レミリアの周囲を二匹の蝙蝠が飛び回る。
その口元には、血がベッタリと付いている。
ミサはその様子に心を奪われたかの様に目を見張る。
そして後ろ手で自分の膝の傷を撫でる。
「その蝙蝠は?」
「体の一部を切り離して作り出した使い魔よ。やっぱり人間は私の前に膝を付くくらいがちょうどいいわね」
「食べたんですか……?」
「えぇ、そうよ」
ミサの頭の中で、静かにスイッチが入る。
体温は呼吸と共に上がり、脳は現実に反応して快楽物質を生み出し続ける。
身体中の水分が一箇所に集まり、どんどんと表情が艶やかに変貌していく。
口の端は裂けんばかりに持ち上がり、瞳孔は広がり細めた目の露出部を埋めていく。
「そ、その蝙蝠一匹もらえませんかぁ……?」
蕩けるような、熱い吐息の混じる言葉でレミリアに問いかける。
だがレミリアは動じる様な様子を見せず、口角を上げた。
「なるほど。生粋のボラレフィリア……嘘では無さそうね」
レミリアはミサに向かって手を差し伸べる。ミサは反射的に湿った手をその手に重ねる。
レミリアはわざとゆっくりその手を持ち上げ、自分の口元に寄せる。
「褒美だ。貴様の望むままに、踊り食いだ」
レミリアは指先に軽くキスをし、人差し指をミサが見えるように口に入れる。
吸血鬼特有の尖った歯の先で、まだ繋がっている人差し指を口内で転がす。
人差し指が口内を転がり回る度に、ミサは喉が詰まった様な喘ぎ声をあげる。
舌の先でミサの指先が舐められる。次の瞬間、レミリアは顎の力を一気に強める。
レミリアの歯が皮膚を、肉を食い破り、血管を傷つけすぐに傷口から大量の血液が噴き出す。
レミリアの口の端から飛び出した血液が、快楽に悶えるミサの顔にかかる。
その時、レミリアは顔を顰めた。
「……」
無言で舌を使い、ミサの人差し指を口から吐き出す。
その顔色は、どんどんと青くなっていく。
異常に気づいた咲夜が、レミリアに駆け寄る。
「ど、どうなされたのですか!?」
「……聖職者の味がする」
「せ、聖職者の……? 味?」
恍惚とした表情で出血の止まらない人差し指を見つめるミサの隣に、射命丸が降り立つ。
「一体何があったんですか?」
「き、気持ちよかったぁ……」
「あぁそうですか。それで一体何が?」
レミリアが口元をハンカチで抑えながら、ミサの事を睨みつける。
「お前……人間、どういう家系だ!」
「……え? 普通の家系ですけど」
「身内に聖職者は!」
「あぁ、父が牧師を」
「一親等に……! 生まれた時から祝福されてきたクチか……!」
レミリアは咲夜に支えられつつ、ゆっくりと立ち上がる。
「命拾いしたな、人間……名前は?」
「五島ミサ、です」
「そうか……この屈辱、いずれ死を持って償ってもらう」
「ウヒョ〜! あの紅魔館の主、レミリア・スカーレットから殺害予告! これはいい記事になりますよ!」
「覚えておけ……射命丸文!」
瞬きの隙もなく、一瞬でミサと射命丸は門の外にいた。
射命丸は鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔で、呆然と恐れたカメラを持って突っ立っている。
ミサはやっと落ち着きを取り戻し、ガクガクと痙攣する足を使って立ち上がる。
「どうして私が……?」
「やっぱりお土産を持って行かなかった事が不味かったんでしょうかね」
「ま、まぁ記事は間に合いそ……カメラが壊されてる! あんのクソメイド!」
射命丸は頭に刺さった無数のナイフを揺らしながら、カメラを分解しフィルムの無事を確認する。
そんな射命丸にじっとりと汗と体液で濡れた手が置かれる。
「足に力が入らないから……背負ってくれない?」
「嫌ですよ! あなたを背負ったらこの私の背中までよく分からん液体でべちゃべちゃになるじゃないですか!」
「どうせ帰る所は一緒なんだし、私のおかげでいい記事書けるんじゃないの?」
「行く所がないから仕方なく泊めてるだけでしょう!?」
やいのやいのと言い合いをする二人を、門番代理の妖精メイドは怯えた目で見ている。
渋々承諾した射命丸がミサを背負い、羽を動かしづらそうにはためかせ妖怪の山へと帰っていった。
翌日幻想郷にて発行された文々。新聞は、写真が全て少し焼けていたと言う。
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『文々。新聞 ○○の年、第○○○号』
『【食べられたがりの幻想郷逆食レポの旅】第二回』
『第二回の取材対象はこのお方。紅魔館の主人、吸血鬼のレミリア・スカーレットさんです。取材協力の申し出ありがとうございます』
『人間のとは違った吸血鬼独自の尖った歯が、まるで針の様に刺さるのが印象的でした。血を吸い出す事が目的の造りをしているので、痛みよりも異物感の方が強いです。ですがレミリアさん自体の人を食べるテクニックが素晴らしく、被捕食者の私に歯の感触を長く与えるというサービスまで兼ね備えていました。個人的には十点中九.五点を。』
『文々。新聞、次回の発刊は来月以降となります。ご留意ください』
『購読の申し込みは山鴉のポストまでご一報を! 今月中にお申し込みいただければ石鹸と洗剤を付けて一年半額に!』