空崎ヒナが先生と温泉郷でしっぽり過ごす話。 作:アカネカジカ
世間の目を逃れてヒナと付き合うことができても、お互いに忙しい私たちは都合の合わないことが殆どだった。
それから私は、ヒナと二人きりの時間を作れないか考えた結果、お互いの仕事の都合を合わせればいいと気付くことに、そう時間はかからなかった。
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彼女への気持ちをはっきりさせてから、不安を抱えるようになっていた。
特に何か問題が起こった訳でも無かった。ただ、私の中で欠けてしまった倫理観と、それを許されてしまう環境の中、ふとした時に自覚する背徳感が、理性に急な不安を煽るのだった。
恋は盲目とはよく言ったものだと思う。
見えなくていい現実が不安要素なら、ずっと見えないままでいいかもしれないのだから。
生徒に手を出したとか、秘密の関係だとか、それが公にバレてしまうのがリスクであることは、承知の上だった。
「──先生、聞いていますか?」
鋭く落ち着いた声が、自分の世界に入りかけていた私の意識を引き戻すのだった。
「……ごめん、あの時の状況を思い出してた」
「はぁ……どのみち、直接関係はなくても、事実上、先生が関与したことに変わりはありませんので」
低いテーブルを挟み、対面のソファに座っていた長身の女性、連邦生徒会行政官であり生徒会長代行の七神リンはため息を吐いていた。
彼女は目下にズレた、横長でフレームが薄いメガネを指先で上げ直し、私に鋭い視線を向けてくるのだった。
以前関わっていた、連邦生徒会所有地のリゾート群島が、騙された生徒たちによって不正利用されていた件についてだった。
解決したその後、特に音沙汰も無かったため、そこで終わった話だと私は思っていた。
そのリゾート群島の中、南東に位置する島は密林で出来ていた。その鬱蒼とした森の奥地に、温泉開発部が建設した温泉郷があるのだった。立地も相まって、まるで隠れ家のように存在を潜めた建物だった。
温泉開発部が作ったとはいっても、そこの源泉を見つけたのは私たちだった為、全く関与していない訳ではなかった。
運営自体は温泉開発部に任せていたものの、リンたち連邦生徒会から群島からの立ち退き命令が出てからは、以前と変わらず無人島に戻ったはずだった。
事の発端は、無人島のはずの南東の島で契約が無効になっていることも、立ち退きのことも知らずに働かされていたアルバイトたちから、働いた分の給料の請求をしに連邦生徒会に直接来たところから始まったらしい。
雇い主であり、ゲヘナの問題児とされる温泉開発部は相変わらずキヴォトス中を転々としているようで連絡が付かず、アルバイトたちは当然ながら来客もない中、しばらく営業をしていたらしい。
「結局、給料を求められて連邦生徒会まで抗議をされたアルバイトの方々には“それなりの対応”を行いました」
「それなりの対応……」
「はい。ですが、未だに設備は残ったままです。例え有益な設備だったとしても、このまま所有地に不法な建造物を残し続ける訳にはいきません」
「仕方ないけど、そうなるよね……」
「……そこで建設に“立ち合われた”先生に取り壊しの手配をお願いしたいのですが……よろしいでしょうか?」
これ以上、シャーレで作った問題を、殆ど蚊帳の外だった私たちの手を煩わせるなということだろうか。
リンはスラッと伸びた背丈に、凛々しい顔立ちによる澄まし顔と相まって、大人びた雰囲気を纏っていた。しかし、感情が顔に出やすいようで、今も私に向けて眉間に皺を寄せ、無理に口端を吊り上げて笑みを作っていた。
とても圧力の感じる笑み。
笑っているようで物凄く怒っていた。
確かに立ち退きの際、そこの関係をはっきりとさせず、把握出来ていなかった私の落ち度でもあった。こちらで処理を求められるのも、当然のことかもしれない。
「手間を取らせてごめんね……? 近いうちに手配するから、少し時間をもらえるかな?」
「ふぅ……ありがとうございます。では、後日、そちらの書類に記載して提出をお願いします」
私は、リゾート群島に残された温泉郷の取り壊しについての計画案を記載する用紙を受け取り、レセプションルームを後にした。
──シャーレの執務室に戻る途中、下校中の中学生を目にして胸の内にある不安要素の一つを思い出してしまった。
あの日の夜、ヒナに手を出してしまってからというものの、時々、彼女に近い背丈の少女とすれ違った時に、胸の内のどこかで、性の捌け口になってくれそうな少女を求めているのではないかと、自分が自分で分からなくなっていた。
普段関わっている生徒たちよりも、幼い少女をめちゃくちゃにしたいと思うような、どす黒い感情を常に潜ませているのではないだろうか。思うことは自覚のない感情を不安に思うことばかり。
ヒナへの愛情表現とか、綺麗事の皮を被って美化された、ただの性欲ではないのか。
そうして今も、不安な気持ちを表に出さないように、平常心を装いながら歩いている内に、シャーレオフィスの執務室に帰り着いていた。
「──あ! きたきた!」
「こんにちは、先生!」
「やあ、モモイ、ミドリ……もしかして私のこと待ってた……?」
執務室のドアが開くと、非番のはずのモモイとミドリがソファに腰をかけていた。
モモイの手にはゲーム機ではなく封筒が握られていた。
いつもミレニアムからの請求書が封入されている封筒と同じ、ミレニアムの校章が入った物だった。
少し前にユウカからシャーレ宛に請求書が送られてきたはずだったけれど、他にうちと関わりがあることで、モモイたちに依頼しただろうか。心当たりがなくて私は首を傾げていた。
「いえ、今来たばかりです」
「タイミングばっちりだね! はい、経費の請求書持ってきたよ!」
「……? この前ミレニアムから来た気がするけど……?」
「すみません、先生。お姉ちゃんがセミナーに申請を出し忘れていたみたいなので、こうして直接持ってきました」
「あ……あれゲーム開発部の、入って無かったんだ……ユウカには伝えてる?」
「それなら大丈夫です。直接持って行った方が早いとユウカに言われて、持ってきたので……」
「先生! この後、空いてる!? 空いてたら、一緒にレトロゲーム探しに行かない?」
「ごめん、今戻ってきたばかりで、今日の仕事に全く手が付いてないんだ……また今度ね」
「お姉ちゃん、レトロゲームよりも、この前ゲーム機の映像端子折っちゃったでしょ? 新しいの買いに行かなきゃ」
「うっ……! だって、あんなに細いし三本にも分かれてたら一つくらい折っちゃうでしょ……! 何で一本に纏まってないのさ! おかしいでしょ! ねっ、先生もそう思うでしょ!?」
「……当時はあれが普通だったから……何とも言えないかなぁ」
私は封筒を預り、持っていた書類と一緒にデスクに積まれた書類の山に重ねて、オフィスチェアに腰をかけて、二人のやり取りを耳にしていた。
小さな背丈の二人は、座っている私に対して屈まなくても殆ど近い目線に立っていた。
まだ発育の余地を残しているような細い手足に薄い体つき。
特に欲からではないものの、こうしてすぐにヒナと近い背丈の子を見ては、「いけない」と思い、何かを誤魔化すようにゆっくりと首を左右に振っていた。
不安に思うと次に考えるのはヒナのことだった。
背丈の低い少女を見て気付くのは、そこにある感情が、庇護欲とその裏で見え隠れしていた、ヒナへの獣のような愛欲だった。
──ウィーン……
私たちの背後から、執務室のドアが開く音がした。
デスクの近くに立っていたミドリが先に音のした方に目を向けると、モモイの袖を掴んでいた。
「あっ……ほら、もう当番の人も来ちゃった……邪魔したらいけないし、もう行こう? 先生、失礼しました……よければ今度一緒に、お買い物行きましょう……! ほら、お姉ちゃん?」
「え、うわぁっ……!? ま、待って! ミドリ、引っ張らないでぇ……! あ……じゃ、じゃあね、先生! ミドリぃ……!」
「ま、またね……」
「──……あら?」
「こんにちは……!」
「こ、こんにちはー……! もういいでしょ……! 自分で歩くからぁっ……!」
「お疲れさま……走ると危ないわよ?」
「す、すみません……!」
「ほらー! ミドリが引っ張るからー!」
「お姉ちゃんが先生の仕事の邪魔をするからでしょ……! 私だって、先生と……──」
二人と同じくらいの背丈の白髪の少女が、入り口で入れ替わるようにすれ違って、こちらに近付いてきていた。
「……お待たせ、先生」
「やあ、ヒナ。今日はよろしくね」
「うん、よろしく……元気な子たちね、さっきの二人……」
「そうでしょ、仲のいい姉妹だよ」
「そう、姉妹なのね……ところで、今日はそれを片付けるの? 相変わらず凄い量だけど……」
「う、うん……流石に今日全部終わらせるのは無理かな……」
「はぁ……そんなことだろうと思った。分かった、私もまだ終わってない書類を持ってきたから一緒に作業をしよう? もちろん、それ全部を終わらせるまで付き合う。めんどくさいのは私も一緒だから……二人で頑張るんでしょ……?」
ここまで積まれた書類を見ると億劫な気持ちになってしまうけれど、ヒナにそう言われてハッとした。
ヒナもそのつもりで来てくれているんだから、私がめんどくさがっていては話にならない。
それに、私たちが二人きりになれる限られた時間なのだから。
「あ……ふふっ、そうだったね」
「……っ、じゃあ、早速取り掛かろう?」
ヒナと恋人の関係を結んでから、やる事なす事に変わったことなんて殆どなかった。
お互いにあまり都合が合わず、稀にヒナに時間を合わせてもらい、お互いどちらかから会いに行って、少しの間一緒に過ごすだけだった。
まるでお互いに恋人を自称でもしているかのように繋がりが薄く思えていた。
そんな繋がりが薄い私たちが一度だけ恋人同士にだけ許される営みを交わしていた。
その日の私とヒナはデスクワークに疲れ、私とヒナは疲労と睡魔からか判断能力が鈍ったまま、一緒にソファで横たわっていた。
私はそこでヒナと一線を越えてしまった。
愛撫とか、そういった愛情表現もなく、ただお互い本能のままに、興奮状態の生殖器を交わらせた。
甘え下手なヒナも、この時ばかりは素直に私に溜め込んでいた感情を吐露して、私に目一杯抱き付いて離さなかった。
そんな夢現のような一時を過ごした私たちも、今はこうして日常に戻り、二人揃って専用のデスクに向き合い、黙々と事務作業を続けていた。
彼女は時々、自分といることが退屈じゃないのかと不安になるみたいだったけれど、居心地が悪いなんてことは全くなく、私はヒナの存在感を近くで感じられるだけで精神的な安らぎを得られていた。
──カリカリカリ……
向かい側のデスクから聞こえるヒナがペンを走らせる音。
こうしてヒナが付き合ってくれているのだから、これで終わらなかったなんてならないように、私もいつもより気合いを入れて書類の山を処理していた。
……そして、最後の書類に手を付けて目を向けると、連邦生徒会から今日預かったばかりの温泉郷取り壊しについての用紙だった。
目の前にいるヒナを見て、彼女たちには悪いかもしれないが、自治区外でも学園の生徒が問題を起こしていた場合にも風紀委員会が動いているのを思い出していた。
ヒナとの二人きりの時間を作る方法。
仕事の都合どころか内容を合わせてしまえば、少しでも一緒にいられるのではないだろうか。
私はヒナがペンを走らせる手が止まったタイミングで彼女に声をかけた。
「ねえ、ヒナ──」
* * * * * *
この気持ちを不安に思うようになったのはいつからだろう。
最初はしばらくの間、起きているのに夢見心地のような、地に足が付かないふわふわとした気持ちが続いてた。
先生に抱き締められていた感覚。
普段、髪を分けて露出している額に優しくキスをされたこと。
今思い返せば、顔が熱くなるほどお互いに愛を囁き合った時間。
あの時、普段なら絶対に恥ずかしくてできないような、先生に目一杯と甘えることができていた。
でも、時間が経つに連れて、夢見心地の気持ちと、あの日の思い出が現実だったと受け入れられるのにそう時間はかからなかった。
現実とはっきりと自覚した頃には、幸せの賞味期限でも切れてしまったかのように、気にしなければいけない不安が身の回りに多いことに気付いてしまった。
──今朝、フライパンに落とした卵の黄身が崩れてしまった。割ったときの殻が引っ掛かったんだと思う。
まるで目元に溜まった涙が溢れるように、丸かった形がドロッと崩れてしまった。
そして、固まり始めて白くなった白身の上に、溢れた黄身が涙痕を残すように広がっていた。
……もっと先生に甘えたい。
ジュゥッ……と卵を熱しているフライパンを前にして、私は独り言を溢した。
分かっていたけれど、フライパンを相手に返事が返ってくるはずもなく、私は続けて「はぁ……」とため息一つ溢した。
あの日、溜め込んでいた気持ちや泣き言を先生に全て吐き出してからというものの、私は気持ちの溜め込み方を忘れてしまったみたいに、思いが少し積るだけでも、それを吐き出したい衝動が強くなってた。
あの日のことを思い出すと、顔が熱くなり、胸の内からポカポカと暖まるような心地良さを感じていた。
そして、もう一度先生に甘えたくて、恋い焦がれた気持ちが、より一層私の不安を煽り始めていた。
あの日の夜、私は先生と繋がり合った。
普段は優しい先生が隠していた、暴力的にも思えるほど大きくてゴツゴツとした生殖器を目の当たりにした。
私はその生殖器を受け入れていた。
私の発育は小学五年生の時から止まっていた。
当然だけど、私よりも背が高い生徒はたくさんいる。
その子達が人生に一度、私と同じ背丈を経験するのと同じように、今の小学生、中学生にも今は私と同じ体格の子が必ずいるはずだった。
先生があれほど獣のように私に興奮してくれていたあの光景も、もしかしたら、日々、先生が幼い子供たちを目にする度に抱いてた欲求不満をぶつけられただけだったのかもしれない。思い込みと分かっていても、違うと思いたくても、先生の周りには私と近い背丈の子はいくらでもいるその状況が、私を不安にしていた。
そして、当たり前のように先生に会えているその子たちに嫉妬してしまうくらい、私は先生に会えていなかった。
会えたら、今すぐにでも抱き締められたかった。
今日は珍しく当番としてシャーレに向かう日だった。
『終わってない書類があったら、うちに持ってきて一緒に作業しない? 一緒に作業をすれば、楽しいと思うんだ。ヒナさえ良ければだけど、どうかな?』
私自身は一緒にできるなら喜んで持っていくけど、それは当番の手伝いとしてどうなのか疑問に思った。それでも、やる気にさせてくれるなら、それもまた立派な手伝いだから、先生にとっては十分だったらしい。
先生はズルい。
私が欲しいと思ったことを、できる範囲で叶えようとしてくれる。
先生と会いたかった。
最近お互いに忙しくて、で……デートの約束もできなかった。
そんなある日、先生からされた提案が、一緒にいる空間で仕事をすることだった。
そして、仕事が終わると、先生が私を子供扱いするみたいに頭を撫でたり、膝の上に座らせてくれたり、ほんの少しの時間だけ、甘えさせてくれていた。
子供扱いされるのは……別に嫌じゃなかった。
私にとっては長く一緒にいられないことの方が嫌だった。
一緒に仕事が終わって、少しだけ甘えて、それでお別れ。
『もっと甘えさせて、先生』
モモトークのテキストボックスに入力してから、送信をしないままアプリを閉じることが増えていた。
今日こそは目一杯甘えたい。
──ポーンッ……
色々思い返しているうちに、エレベーターは執務室のある階に止まった。
執務室のドアが開くと、デスクに座った先生と、その前に私と同じくらいの背丈のミレニアムの生徒が二人が話しているところが目に入った。
二人とも麦藁色の髪をうなじにかかるくらいに伸ばしたショートヘアーで、目の上で前髪を切り揃えていた。
雰囲気や目の色が違っても顔立ちがとても似ていた。姉妹かしら。
妹らしき子が、姉の袖を引っ張って駆け足気味に出入り口がある私の方へと向かってきて、二人とすれ違った。
私とそれくらい変わらない背丈。
……先生と何を話していたんだろう。
先生の中に、私の知らない思い出があると思うと、胸に針を刺されたような痛みを覚えるようになっていた。
独占欲。本当に子供の我が儘みたいな身勝手な気持ちがはっきりと芽生えていた。
大した痛みに思えなくても、ふとした時の衝撃でチクチクと私を痛め続けていた。
まるでそこから何かが抜け出しているような感覚があった。
細い糸を吐くように抜け続ける空気とか、温かい血液がそこから噴き出すように溢れるような感覚。
折角胸の中で実った恋心は、とても脆く、すぐにでも壊れてしまいそうだった。
今は先生と一緒に仕事をするのが、今日の当番として与えられた役割だったから、仕事前に私情を持ち出す訳にはいかなかった。
私は、ついさっき二人が出て行った出入り口に視線を向けて、チクチクと痛む胸の傷を埋めるつもりで先生に話しかけていた。
──お待たせ、先生……元気な子たちね、さっきの二人……そう、姉妹なのね……ところで、今日はそれを片付けるの? 相変わらず凄い量だけど……
向かい側の生徒用のデスクに座ってそこからお互いの顔が見えるかも怪しい書類の山がいくつもあった。
今日中に全部終わらせるのは無理って、日頃溜めなければそうならないと思うけど……
はぁ……そんなことだろうと思ってた。分かった、私もまだ終わってない書類を持ってきたから一緒に作業しよう? もちろん、それ全部を終わらせるまで付き合うから……
めんどくさいのは私も一緒だから……二人で頑張るんでしょ……? じゃあ、早速取り掛かろう?
ふふっ、二人で……か。
自分で言ってて恥ずかしくなってきたから、私は赤くなっていそうな頬が見られないように、誤魔化すつもりで先生の横を通りすぎて、先生用のデスクに向かっていた。
まるで聖人君子のように私たちを手伝って助けてくれる先生にだって、普通の人らしい一面はいくらでもあった。
傍から見れば無茶にも思えるほどタスクを抱えてでも、人助けをした代償が目に見える形で積まれた書類の山。
こうして一緒に作業をして、そんな先生の気持ちの支えになれるんだったら、私はいつでも一緒にいてあげたかった。
顔は見られなかったけど、私が先生を励ます直前に見せた口を「へ」の字のように曲げて肩を落としてた先生の声に、活気が戻ったように聞こえた。
……そっか、本当に私でいいんだ。
私はオフィスチェアに腰をかけて、赤らめた頬を書類の山に隠したのだった。
それから、しばらく無言の時間が続いた。
──カリカリカリ……
口は全く開かなかったけど、お互いに書類にペンを走らせる音で会話してるみたいだった。それと、書類が捲れ紙が擦れ合う音と、時々お互いの口から漏れる吐息。
この時間だけは、執務室がキヴォトスから隔離された二人だけの世界みたいに思えてしまった。
先生と付き合い始めるまで、私にとって何よりも不安に感じていたのは、この時間だった。
人より口数が少ない自覚はあった。
そして、出会った時から心許してくれている先生に対して、ずっと甘え下手だった。
さっきすれ違った双子だけじゃない。
先生と楽しそうに話す魅力的に思える生徒に、先生は愛想笑いなんて物じゃなく、ありのままの様子で頬を緩めて話を聞いていた。
『……つまらないでしょ? 私と一緒にいても』
いつの日か、同じように無言の時間が続いた時に、私からそう問いかけてみると、先生が花開くように笑って否定していた。
あなたのことが分からない。
分かるのは、私の事を信じてくれていること。私の事を理解してくれていること。私と静かにしてるこの時間を、先生は私とのコミュニケーションとして捉えてくれていたこと。黙っているだけなのに、包み込まれているような、抱きしめられているような心地を教えてくれた。
『ふふっ、別に良いと思うけど? 私は好きだよ、ヒナとこうしてる時間が』
大人としての気遣いに甘えてしまっていた。甘えるといっても、子供が大人の気遣いに我が儘を言うのが当たり前みたいな甘え方。
きっと年不相応な可愛げのない甘え方。
『ヒナはこうして過ごすのは嫌い……?』
……その聞き方はズルい。
二択しかないでしょ、その答えは。
『──す、好き……だけど……』
『えっ?』
『も……もう、言わない……! 聞こえてたでしょ……!』
『そんな、ヒナちゃん……』
『い、言わないから──』
──あの日のやり取りを思い出していた。
デスクに置かれた電源が落とされている真っ暗なディプレイが視界に入ると、溜まりに溜まって、めんどくさい事務作業をしているはずなのに、頬の緩んだ私が映っていた。
恥ずかしくなって、顔を小さく左右に振った。気が緩んでた、書類に不備があったらどうするの。それでも、いつも一人で仕事をするよりも進んでいた。
向かい側のデスクでも、先生の進捗が進むに連れて、書類の山は減っていき、見え隠れしていた頭部から目元まで見えてきて、殆ど書類が片付いた辺りでついに先生と目が合った。
「あ……ヒナちゃーん……」
「──っ……! そ、その呼び方、やめて……」
目が合った先生は、無邪気に笑って私に手を振っていた。
先生と私の年齢がまるで真逆になっているかのような気分がした。
「かわいい」
「先生……私の話聞いてる?」
「ご、ごめん……ヒナ……」
「はぁ……」
「えっと……そっちの進捗はどう?」
「……こっちはそろそろ終わりそう。先生は?」
「私はこれが最後かな? ──っ……あ、これ……」
最後の一枚の書類を手に取って、ヒラリと一度仰ぐように見せてくると、先生は書類に目を向けてから、口元に手を当てて黙ってしまった。
何かまだ決まっていなくて、考え込む程のものなのかしら。
仕事の事なんだろうと思って、黙って見つめていると、書類に向けられていた先生の視線が私の方へと戻ってきた。
「ねえ、ヒナ──」
先生の男性的な優しくも低い声が、いつもよりトーンが高かった。それから続く言葉が私にとってはあまりにも突拍子な事だったから、反応に遅れてしまった。
「──温泉に行かない?」
……温泉? 私が? 先生と?
私も先生も多忙なはず。
いくら恋人同士だからといって、私情で一日空けるなんて無理に等しかった。
きっと、それが叶うとするなら、駆け落ちとか、二度と戻れないような逃避行でもしない限りは……
「……ヒナ?」
「……理解が追い付かなかった。どうして、急に?」
先生に名前を呼ばれて、ようやく私は口を動かした。恥ずかしくも、声をかけられた表情のまま固まっているみたいだった。
先生に見せられたのは、連邦生徒会が所有しているリゾート群島に建設された温泉郷の取り壊しに関する計画書だった。
連邦生徒会の要求に対する文面以外、殆ど空白の書類。
……うん、把握はしてた。
ネット上でも話題になったくらいだし。
流石に私たち風紀委員会まで勝手に立ち入る訳にはいかないし、それにあの時、設備の所有権は一時的とはいえ先生たちにあったでしょう?
立ち入りの手続きをしようにも、所在がはっきりするまで手が出せなかったから……
でも、それが私たちが温泉に行くのと、どう関係があるの……?
先生の提案は、シャーレの権限を通して風紀委員会に取り壊しの依頼をかけられないかということだった。
連邦生徒会からのちゃんとした依頼だから、作業に必要な見積りとかを出すのも必要ということで、風紀委員会で揃って下見に行くという提案。
お互いに仕事の都合で会えないなら、仕事で都合を合わせてしまえばいいって目論みだったみたい。
……先生、温泉開発部が作った設備を、下見に行くついでに使うって、本気で言ってる?
従業員がしばらく過ごして問題が無かったぐらいだから、使っても大丈夫かもしれない、というのが先生の考えだったみたい。それに私たち以外の風紀委員も疲れているだろうから、ついでについでを重ねて、皆を労う良い機会かもって。
……私は悪くないと思うけど、風紀委員会がゲヘナを空けることになると、それを万魔殿のタヌキ達がそれを易々と許してくれるかしら。彼女たちのことだから、きっと予算の無駄遣いとか疑われそうだけど。
アコ? アコなら多分、まだゲヘナに残ってると思うけど。
それを聞くと、先生はスマートフォンを取り出して、何かを入力し始めて、終えたと思えばそのまま電源を切ってデスクに置いていた。
「先生、アコに何を送ったの……?」
「果報は寝て待てっていうでしょ。ゆっくり待──」
──ポーンッ……♪
先生が話している間に早速、先生のスマートフォンに通知が入り、デスクの上で音を立てて震えていた。
「……ちょっと、早すぎない?」
「う、うん……確かに……あ、許可取れたって。じゃあ行こっか?」
「ほ、本当に……?」
そう言ってる束の間、私のスマートフォンにも通知が入ってきた。
『委員長! 行きましょう! 温泉に!』
「……先生、アコに何を言ったの?」
「うーん……温泉から出た時に、アコに会ってあげて……?」
「……?」
その日の、ほんの短い時間の間に、私たち風紀委員会による一泊二日の温泉郷下見の計画の話が殆ど進んでしまっていた。