京は都、大路と小路が交わる。
商人からやんごとなき者の馬の歩みも 路を行く上においては等しく
四方へ広がる辻を皆一様に己が進まんとする方へと歩む。
人々の話声、土を踏む音、馬の蹄。
辺りの音を指折り数えてみるには両手の指では間に合わぬ程の様々な音が入り混じり、人にあふるる辻は賑わっていた。
斯様に忙しく行き交う往来の中央。
人の流れを阻むよう、市女笠を被った、むしの垂れ衣姿の小柄な娘が一人。
時折、俯いてはかがみ込んで再び立ち上がる。
それを何度か繰り返し 辺りを見回す様子は、少し距離おいたこちらからでも見て取れる程に困惑していた。
――― その姿があまりにもいとけなく、いとしかったので…
図らずも 声を掛けてしまった。
「 どうしたのかね? 」
糸 ~ い と ~
辺りのさざめきを抑え 舞い降りた低い声を頼りに、久秀を見上げる娘の瞳はたれ衣越しに露めていた。震える瞳がふと何かを訴えていることに気づき、そのまま彼女の視線を追うと履物の緒が切れている。
「 ああ…鼻緒が切れてしまったのか 」
久秀は口の端を柔らかく持ち上げたまま、まるで独語するかのように紡ぐ。目前に迫った娘を一瞥すると、遠巻きに思わせた通り可憐な容姿をしていた。微かに眉を顰めて不安に彩られた顔(かんばせ)も また、いとしく…それを目にして傍観に至ろうなど出来るはずもない。
「 なぁに大事無い、じきに直る。貸してみなさい私が挿げて差し上げよう 」
久秀が娘の前にしゃがみ込み 単の裾に触れようとした、折りしも 娘が声を上げる。
「 そのような!為りませぬ、あなた様のお手を汚します 」
「 いや、構わんよ 」
言葉より先に繰り出した久秀の両手が彼女の小さな右足を掬い上げる。
と、急な動きに娘の体がよろりと平衡を失い、久秀は宙を踊る手を咄嗟に掴み取った。
「 私の肩に手を置くといい 」
娘の手を支えながら肩へと視線を送って見せると、暫時 戸惑いの色を浮かべていたが
やがて久秀の誘うまま、彼の元におずおずと小さな手を重ねてきた。
その様子に小さく笑みを纏った久秀の唇が自身の羽織の袖端を探る。
紫紺の綸子柄に白き歯を立てたと思った瞬間、ぴりりと衣が裂かれていった。
同時に娘から、あ、と小さな悲鳴が漏れ、破かれた久秀の袖を名残惜しそうに見つめている。
久秀は、ささくれ立った袖口から頼りなくぶら下がった糸屑に構うことなく、紫紺を力強く糾い、彼の様子を見つめる娘をよそに、肩先から伝わってくる熱と重みを感じながら俯き加減に笑みを湛えていた。
「 全く呆れたものだ。これだけの衆目、誰も手を出してやらぬとは…
いやはや、血の通わぬ者も多くなった事だ 」
節高にゆるやかな皺を刻んだ彼の長い指が無駄の無い鮮やかな動きを繰り出していく。その様に彼女はじっと見入っているようだった。世の皮肉をぶら下げて、鼻緒を挿げている目の前の男が、まさか一国の主であり、その城主が都に忍んでいようなどとは夢にも思うまい。
「 さて、直ったよ。少し歩いて見なさい 」
最後に白き足袋を汚した土を払い、丁寧に指の隙間に出来上がった鼻緒を通してやった。
久秀は娘の手を取り、そのまま歩みを促してやると、彼女は恐る恐るに踏み出して数歩あるいた所で立ち止まる。
「 嗚呼、これは何という事にございましょう。かたじけなくございます。 」
娘は振り向きざまに、むしの垂れを片方の手で掲げながらに一揖する。
その間から覗く目縁には未だ露を纏ったままであるが、目が覚めるほどの眩い笑みが久秀に向けられた。
…さして、世の穢れに垢つきてもいない。清廉な笑い顔。
「 時に、供人はどうしたのかね? 」
聞くによれば。駕籠の揺れにやられ、酔い覚ましに徒歩で旅路を行く途中、京の露店に並ぶ珍物に気を取られている内に従者とはぐれてしまったのだという。
彼はその様子に世馴れぬいとけない娘であると眉目を綻ばせ穏やかに笑う。
「 ―― 姫様!」
行き交う人の向こうから、女の甲高い声が響いた。
「 こちらにいらっしゃいました! 」
「 姫!彼方此方とお探し致しましたよ、どちらにいらっしゃったのです? 」
彼女の供人の姿を合図に久秀自身も人ごみへと紛れ、彼も待たせておいた人臣の元へと歩き出す。
供等に連れられ、人の波へと消えていく娘の後姿を久秀は少し離れた場所から暫く見ていた。
待って、と供の衣を引いて振り向く娘の様子に、彼の者は怪訝な表情で辺りを見回しては首を傾げている。小柄な娘からは久秀を探ることは難儀なことであろう。
娘の口から発せられた音も辻の雑糅に呑まれ、やがて娘達の姿は無くなった。
「 松永様!」
「 ご無事で… 」
「 お戻りが遅うございましたので皆、心配致しておりました… 」
姿を現した主を見て数人の人臣が彼の元へと駆け寄り、息を切らしながら口々に言う。
「 済まないね、随分と待たせてしまったようだ 」
「 あまりお一人で御遊行になられては危のうございます 」
大事ない、と薄笑みを浮かべる久秀をどこか訝しげに見つめていた一人が主の異変を見つけた。
「 あの…お袖が破かれておりますが、
何かございましたのでしょうか?もしや、お怪我でも? 」
「 いいや、何でもないよ。案ずるな 」
彼らの心遣いもよそに、背を向けゆっくりと首を振って見せる折り、立ち去った大路を見遣る。
( まるで日輪のようだった )
万物の有様を例とうことなど薄ら寒い。まして、人の表情(こと)など。
しかし、まるで其れを思わせるような笑い顔であった。
…もしも、人々が信仰し、彼が其れを嗤笑している"神"や"仏"というものがこの世に在るとするならば
もう一度あの娘に会いたいと。
そう思った。
大和国、信貴山城。
「 松永様、霧嶋が参りました 」
その声に香炉を磨く久秀の手が止る。
やれやれと明らかな溜息を吐いては、桐の箱にそっと香炉を仕舞い込んだ。
「 …そうだったな。今日は盟約の日だった、すっかり忘れていたよ 」
重い腰を立ち上げて、再び吐息を漏らすと懐から覗いていた懐紙が揺れる。
先だって取り決めた日を忘れる程、正直此度の約束事は億劫でならない。
人臣を連れ、謁見の間に控えている客人の元へ行く回廊の途中、ふと中庭に目をやれば紫陽花が咲いていた。
( もう、そんな時期か )
気づけば、すでに水無月も中頃を迎えている。
――― 三月前。
久秀の元へ、その書状が送られてきたのは、早い処ではもう桜が咲く頃であったと記憶にある。
大和国周辺の小国が結束するその中心でじわじわと勢力をつけてきたのが送り主の霧嶋清彦だった。
されど、所詮は小国の主。手元の書を見た時は、送り先を違えたのかと携えてきた使いの者を疑うほど、それは唐突で異物な存在であったように思う。
書状は、敵対する国の襲撃に備え、助勢を請う内容のものであった。
『 松永様のご助勢に承りたく。暁には、大和国の御繁栄に我国全力で臨む 』
書面にあるように他国襲撃の真偽の程は定かではない。が、思うに、松永軍勢が大和周辺国をじわじわと侵攻していたことを危惧して先手を打ってきたというところであろう。畢竟、これが霧嶋の掲げる盟約の実意である。
久秀から言わせれば、清彦に古色の趣があると聞くその一点を除くものは、国力とも軍事力とも自国に劣る霧嶋に興味などなかった。盟約を結んだところで、取り立てた利益も何も無い。
一蹴するか、はたまた 踊らせてみるか、少々思案したが、しかし、舞い込んできた盟約を無碍にするよりも、こちらもそれを上手く利用してやろうと画策し、久秀は盟約を結ぶ代わりに霧嶋側にある条件を布いた。
広間には清彦と数名の人臣、そしてその後方に若き娘が一人平伏していた。
「 松永様 」
「 これはこれは霧嶋殿。遠い旅路、ご無事で何よりだ。
最近では国の境に山賊が出ると噂だが何事もなかったであろうか? 」
「 聞いてはおりましたが、それらしき賊にも遭遇することなく、やはり御国において は国境の警備も手抜かりはない、流石でございます 」
「 いやはや、それは恐れ多い事である 」
「 松永様…本日は兼ねてよりのご盟約を頂戴致します為、霧嶋清彦はせ参じました 」
「 ああ、私も心得ている 」
( 兼ねてから…、か )
久秀は男の言葉の端を捉え、一揖する清彦の姿に一瞥くれた。
―― 松永の傘下で慎ましやかに安泰に乗ろうという訳か。
さて、どのように、目の前の滑稽な男の冀望をへし折ってやろうものか、そして我の思い描く布陣図に転がしてやろうか?
久秀は、半ば上の空でそんな思慮を巡らせていた。
「 松永様の勇名は我国でも―― 此度松永様の――――に―――」
清彦の仰々しく祝詞を読み上げるような態に久秀は鼻白んでいたが、ふと視線を流した男に再び目を留めた。
「 此度の松永様の御意向…我々一同、それは深く感謝致しております。
よって、これより差し出すものはわたくしの誠意の証にございます 」
「 こちらに… 」
清彦が人臣に合図を送ると、後方に控えていた娘が俯き 膝を折ったままの姿勢で一歩前に進み出る。
三つ指を付き、深く額づく女も一国の架け橋として、或いは駒として投じられ、押し潰されんばかりの期待を背負わされている。眼下に見る姿は哀れなものだと、久秀は胸中で憫笑した。
「 娘の凪にございます 」
主の声に霧嶋共々が今一度、深々と頭を下げた。
面を上げよ、との久秀の声を聞いて、額づいていた娘がゆっくりとその声に従う。
後ろに束ねられた艶やかな髪が背中越しに去って、変わりに白い顔(かんばせ)が現る。
「 これは―――― ッ 」
二人の視線と視線とがぶつかり合った将にその瞬間 ―――互いが息を止めた。
久秀の口がぽかんと洞穴を覗かせ、それと同時に僅かに開いた娘の唇から小さくも 「貴方様は…」 という驚嘆が零れ落ちた。
普段何事にも動じない筈の久秀が見せた様子には、側で控えていた人臣も思わず目を見張り、言葉にならないどよめきがその場の空気を一斉に駆け抜け、松永と霧嶋、その場に居る誰もが一様に驚愕し、刮目している。
久秀が望む、娘 …凪。その凪の瞳に映る、彼の姿。
知性的な眉の下に黒く野心を滲ませる瞳も、端座する膝の上に置かれた長き指も。
それは紛う事なくあの日、彼女の鼻緒を挿げた男、久秀であった。
「 …いやはや、何という―― !世の中、面白きこともあるものだ。 卿は私を覚えているかね?」
「 ―― はい。京の旅路の折、今でもはっきりとあの日の事は覚えております 」
どよめきが去った後も、清彦は久秀と娘の顔を交互に見入っていた。
とんと、状況が飲み込めないといった風である。
「 霧嶋殿、信じがたいだろうが、実は貴殿の姫君を存じ上げているのだ 」
「 …松永殿が凪を…?それはまた何故に? 」
「 凪か……卿が…そうか。ははっ。済まないが説明したくとも驚いたというより他に言葉が出ないのだ。
嗚呼、全くどうしたものか ―― いやはや…… 」
久秀は掌で片方の顔を覆いながら、腹の底から溢れ出して来る笑いを堪えることが出来ずにいた。
京の都の辻で出会った娘が、今此許に、そう、目の前に居るのだ。
数多の”縁”が、日毎、宙(そら)に飲み込まれてゆく中で。もう一度と望んだ娘が目の前に現れるなどとは 一体、誰が予期しただろう。
灯りに戯れる虫の如く、辻にあふれる人波の中で、偶然足を止めた出会い。
まさか、その糸を手繰り寄せる事になろうとは思いもしなかった。
奇態な巡り合いに、久秀は、周囲の視線を忘れるほど、絶えず肩を揺らしている。
やがて彼の様子に息をのんでいた皆からも、ぽつりぽつりと抑えていた笑いが立ち始め、久秀に便乗するように暫しの間その場は哄笑に包まれた。
晴れて松永と霧嶋の盟約はそこに結ばれ、霧嶋の娘は松永の人質の身として当面の間久秀の元へ置かれる事となった。
清彦は帰り際に、自国より携えて来た名器と謳われる花器と古物の品々を久秀の元に置いていったが
両家の利害の一致を挙げるなら、迷う事なく誰もが久秀の得を問うであろう。
清彦と凪の別れを見届け霧嶋一行を見送った久秀に、小国風情が一体どれほどの価値のあるものなのか解りかねる、と人臣に密かに問われもしたが、彼は不適ともいえる笑みを浮かべたまま彼等に答えをくれてやる様子は無かった。
「 何やらご機嫌が麗しいようで… 」
後ろ手の姿勢のまま縁に立ち。中庭に望む四季の暦を一心に見つめている久秀の元に茶を運んで来た侍女が呟く。
久秀はその様子に目で答えた後、再び中庭に向きやった。
庭先に咲いた紫陽花。
その花が晴れた空よりも、どこか暗澹とした雲居の下の方が映えるように見えるのは気のせいだろうか。
あわい寒暖の色とりどりに小ぬか雨の露を纏った花弁は、より一層に艶めいて、まるで感嘆をそそるように彼の目交で微かに揺れている。
「 これからが楽しみだ 」
久秀は瞳を閉じて、小さく笑った。