紙をめくる音と、ペンが紙をひっかく音だけが流れている。
朝の温かい日差しが入り込むその部屋で、2組の手だけが動いている。
男が1人、机に向かい書類に何かを書き連ねている。書類の山に手を伸ばし、めくった1枚に目を通すと、書類に書き加えて別の書類の山に積み重ねた。
少女が1人、ソファに座り読書をしている。ページをめくる度に微かに揺れる金髪は、日差しの反射で美しく煌めいている。
男と少女はお互いを気にすることもなく、黙々と己の作業を進めてた。
静寂を破るように、部屋の扉が叩かれる。
「Admiral、Ark Royalだ。入っていいだろうか。」
男は入れとだけ伝え、ドアが開かれた。
「失礼する。」
部屋に入った赤髪の女性、アーク・ロイヤルは右手に重そうなアタッシュケースを携えていた。
彼女の艤装と同じく銀色に光るケースにはイギリス海軍旗…赤い十字とユニオンジャックがあしらわれており、それが官給品であることを示している。
軽く敬礼を済ませると、すぐさま少女の方を向いた。
少女は呼んでいた本を閉じ、笑顔で挨拶する。
「Good morning, Ark!」
「Good morning, Janus.」
アークはジェーナスと呼んだ少女に近づき、座ったままの彼女の頭を頭をふわりと撫でると、今度は男にも挨拶を返した。
「Good morning, Admiral.」
「おはよう、アーク。」
アークが男へ向ける声はいつもより低く、威圧するような声色が含まれていたが、ジェーナスはそれに気が付かず再び本をめくり始めた。
男はその姿を見ると安心したような、呆れたような顔を見せ、アークに向き直る。
「…それでこっちが申請書類だ。こちらは評価資料、経歴表、領事館との締結書類、それから…」
アークが説明しながらアタッシュケースから書類を取り出し、私の目の前に積んでいく。私が先程処理していた山に匹敵しそうな標高だ。
彼女が最後の書類を積み終えるとアタッシュケースを閉じ、ジェーナスを呼んだ。
「ジェーナス、ちょっといいか?」
「うぇ?」
自分が呼ばれているとは思っていなかったらしく、本を開いたままこちらを向く。
「このケース、私の部屋まで運んでおいてくれないか?」
「わかったわ。ところでそれ…何の書類?」
怪訝そうに机の書類を覗き込むジェーナスに、アークが答える。
「今度ジャーヴィスがここに着任するから書類を―」
「ジャーヴィスが!?Really!?」
その名前を聞いた瞬間、ジェーナスは満面の笑みを浮かべてはしゃぎ始めた。
「ホント!?ジャーヴィスが?アーク!提督!ありがとう!」
「ふふっ…J級はJ級でもこっちじゃ私が先輩なんだから大きい顔はさせないわよ~?」
はしゃぐジェーナスの肩をアークが優しく掴む。
「ジェーナス、喜ぶのはいいがここは執務室だ。あまり騒いではいけない。」
「あっ!そっか…ごめんなさい。」
「いい子。」
アークは腰を落としジェーナスの頭を撫でると、そのまま額にキスをする。
着任前、彼女の評価を担当した知人の士官によると―これはアークの癖らしく、ジェーナスのように親密な相手に対しては愛情表現としてよくやっているらしい。
同胞の艦娘達はもちろん、彼女の護衛を務める駆逐艦や同僚の空母に対しても気軽にしてしまうようで、そっちの気が出てしまったのも何人か居るとか。
くっきりとした目鼻立ち、情熱的ながら爽やかさも感じさせる赤いショートヘア、やや堅苦しさを受ける言葉遣いに反した慈愛に満ちた振る舞い。そちらからの人気が高いのも頷ける。
しかし、実際にキスをされたジェーナスの反応は芳しくない。
「ンもう…私も子供じゃないんだから、そういうのはいいってば!」
アークは顔を背け、やや焦りを浮かべながら謝罪した。
「ああ…そうか…すまない。」
アタッシュケースを持ったジェーナスが出ていっても、アークはジェーナスのいたソファーを見つめている。
そのままため息をつくとこちらに向き直り、その碧い目でこちらを睨みつけてくる。
「Admiral…正直に答えてくれ。ジェーナスに何があった?」
様々な思考が頭を駆け巡る。ジェーナスが私との関係を話したのだろうか?それは無いだろう。
2週間前にジェーナスとの情事があってから数日でアークはこの鎮守府に舞い戻ってきた。
大本営や本国との折衝が終わったようで、それからはずっとこの鎮守府で通常通りの任務に就いている。
ジェーナスが告げ口をするのであればアークが戻ってきた時点でするはずだが、アークの様子がおかしいのはここ最近の話だ。
おそらく…私でも気が付かないジェーナスの細かい様子の差異に気が付き、何かしらの疑いをこちらに向けたのだ。
「ジェーナス?普段通りのようだが。」
何もわかりません、といった風に答えてみたが、アークは先程より更に深い溜息を吐いた。
「やはり気がついていないのか…」
ごまかす事には成功したようだが…私への信頼はかなり薄いようだ。
「少なくとも私の目には普段どおりに映っているが、何か変な所があったか?」
「ああ。私のキスを嫌がるんだ。」
「は?」
脊髄反射で思わず声が出てしまった。もしかして彼女達はさっきのようなやり取りを四六時中していたのか?
アークは再びジェーナスのいたソファーを見つめ、経緯を語り始めた。
「あれは2週間ほど前、私がここに戻ってきた時だ。」
「久しぶりに会ったジェーナスにキスをしたのだが、何やら思いつめた顔をしてしまってな…」
「ジェーナスが言うには、こういうキスは赤子にするようなもので自分には相応しくないのではないかと…」
「長期間留守にしたのは悪いと思っている。だから私からのほんのせめてもの謝意だったのだが…」
「それからと言うもの、おはようのキスもおやすみのキスもあまりいい顔をされていない…」
「嫌われているのかと思ったが違うようなんだ。私がそのような事を聞くととても悲しい顔をしてしまって、あまり詳しく聞き出せていない…」
「私にとってジェーナスは家族、妹のような存在なんだ。なのにあの子の心中がわからない…」
「それで、私が留守の間に何かあったのではないかと。もしそうであってあなたがあるべき責務を果たしていなかったのだとしたら…」
アークの鋭い眼光が再び私を捉えた。
詰まるところジェーナスの異変を察知し私へ疑いの目を向けたようだ。しかも、はっきりと問題の時期について見透かされている。
正直私にとってかなり危険な状況なのだが、あまりにもバカバカしい経緯のせいでこちらの気も抜けてしまっている。
ここまで純粋な好意を他者に振りまいているのであれば人気が高いのも頷ける。本人は無自覚というのが余計に。
ひとまず、疑われているからには釈明をしなければならない。
「そんな事で悩んでいたのか…」
「そんな事、だと?」
アークは両手を机に置き、じりじりと近づいてきた。甘い香水の匂いに反し、その顔は険しい。
「子供が背伸びをするのは当然の事だろう。昨日は素直に大人からの好意を受け取っていても、今日は反抗心から素直に受け取らないなんてよくあることだ。」
「君は最初からその姿だから子供の気持ちはわからないかもしれないが…大人に認めて欲しい子供は意味もなく反抗したり、子供扱いを嫌うのさ。」
「むう…」
アークの目線が下に落ちる。しばし考え込んだ後、机から手を離し私に向き直った。
「それでは、ジェーナスは自然にああなったと?」
「ああ。ジェーナスも大人になりつつあるということだよ。喜ぶべきだと思うけどね。」
「そうか、いや…私の考えが足りなかったようだ。すまない。」
謝罪の言葉と共に、アークは深く頭を下げた。
顔を上げたアークの顔は…それでもまだ納得のいってないような複雑な顔をしている。
「まだ何か気になるのか?」
「それは、いや、その…」
彼女には珍しく、しどろもどろな回答が返ってくる。
「なんというか…その…寂しいんだ。私が。嫌われたわけではないのはわかっている!しかし…!」
「それくらいにしないと本当に嫌われるぞ?」
「ああ、うん、そう…そうだな。せめて…ジャーヴィスには同じようになって欲しくないな…」
先程までの凛々しさが嘘のように落ち込むアークを見て、今度は私が深い溜息をついた。
「アーク?ケース置いてきたわよ?」
戻ってきたジェーナスが執務室のドアを開け入ってくる。
「あれ?アークは?」
「アークなら書類の返送でまた出かけたよ。2,3日は戻ってこないらしい。」
「ふぅーん…」
ジェーナスはキョロキョロと室内を見回している。ソファーの裏、机の下まで確認し…探しているというよりは居ないことを確認しているようだ。
私の横に立つと、いつもよりやや小さい声で私に語りかける。
「提督…お話があるんだけど、いい?」
その顔は無表情を装っているが…目がしきりに泳いでおり、彼女にとってかなり緊張を要する話題であることが見て取れる。
「ああ。わかった。お茶でも淹れるかい?」
「私が淹れるわ!待ってて!」
散乱した書類を適当にまとめ、ティータイム専用のテーブルに向かった。
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それから、ジェーナスと私は無言で紅茶を飲み続けている。
カップに手を取る度に彼女の方を見てみるが、ジェーナスは自分のカップに注がれた紅茶をぼうっと見ているだけで微動だにしない。
ふと思い出したようにカップに口をつけるが殆ど量は減らず、皿に戻して再びカップの中の紅茶を見つめる。
「それで、話っていうのは?」
ジェーナスは問いかけた私の方を見るが、やはりすぐにカップに目を戻してしまった。そのままポツリポツリと話し始める。
「この前の答えを聞きたくて…」
「この前?」
「2週間前の…あの夜のこと。」
あの夜のことを思い出す。ジェーナスと身を重ねたあの日。
『どうして私にこんなことするの?』『じゃあなんでこんなことするの!?』
一度目は建前で答え、二度目は本心で答えた。だがどちらもお気に召す答えではなかったようで、ジェーナスの中では未回答ということになっている。
「なんで今そんな事を?」
「だって…アークが戻ってきてからはずっとアークがいて聞けなかったし…」
確かにあの後すぐアークが帰ってきてしまい、しばらくジェーナスを個人的に呼び出すのが難しくなっていた。
当然、アークのいる前であの話をするわけにもいかず、私の中でもずっと疑問として残っていたのである。
「何故あんなことをするのか、っていうアレか?」
ジェーナスは首を縦に振って答えた。そのまま俯いてしまい、表情は見えない。
「君のことが好きだからだ。あの日答えたのが私の本心だよ。」
「納得できない。」
俯いたままのジェーナスが呟いた。
「私の事が好きだからって、あんな事をするの?」
やや怒りを帯びた声だった。そのままに静かに語り始める。
「ラブ・ロマンスの小説は好き…前から読んでたの。男女の恋には障害があるけど、二人でその障害を乗り越えていくの。」
「コメディのコミックも好きよ?日本の駆逐艦の子が貸してくれて、コメディじゃなくて恋愛のパートも面白かった。」
「それと…その、こっそりアダルト向けの小説も読んでみたの。エッチな事もしていたけど…やっぱり両思いの二人が添い遂げる内容だったわ。」
「だから、私もそんなありふれた恋愛をするんだろうなって…思ってて…でも現実は違ったの。」
私は何も言えなかった。
当然、自覚はある。幼気な少女を己の欲のために振り回しているのだから弁解の仕様がない。
しかし、彼女の言葉には糾弾以外の意図も含んでいるように感じられる。説明の出来ない違和感。あの日も感じていたものだ。
「質問の内容を変えるわ。どうして私に…普通に告白してくれなかったの?」
「それは…」
普通に考えれば世間体だ。艦娘と恋愛関係、肉体関係を結ぶ提督は珍しいものではない。
ただ、それはあくまで戦艦や空母、重巡クラスといった年齢相応の見た目を持つ艦娘が相手であることが殆どだ。
もっと言えばジェーナスは海外出身だ。ただでさえ人間と艦娘の関係はデリケートなのに外交関係まで絡み非常に面倒くさい事態になる。
そこまで考えたが、それを答えとして発声することが出来なかった。
たった今私が考えたその答えは建前で、本当はもっと後ろ暗い理由でしかない。
「君に、拒否されると思っていたからだ…」
それが本当の理由だった。
彼女を一人のレディとして尊敬し、愛する気持ちはある。しかしそれ以上に、私は自分の邪な想いをぶつけたいと願っていた。
彼女と親密になってもその願いが叶うとは限らない。いや、そもそも親密になれるかどうかすらわからない。
それならばいっそ、過程などすっ飛ばして邪な想いをぶつけてしまえばいい…そんな短絡的な理由で始めたのだった。
俯いたままのジェーナスを見ることが出来ず、彼女と同じように下を向く。紅茶に映る私はひどく情けない顔をしていた。
「私も…同じなのかも。」
ジェーナスの声が横から聞こえる。いつの間にかテーブルから立っていたらしい。
「ああいう恋愛をしたいな、って思う時はいつも提督の顔が浮かんだわ。他にも人間の男の人は知ってるけど、いつも提督だった。」
「私はいつも提督と過ごしていたし、そのせいだと思ってて。自分が誰に恋をしているのかとか意識してなかった。」
「意識し始めたのは…提督に検査で体を見せてって言われた時。最初は嫌だとは思ったけど、提督ならいいかなって。」
「多分、そのずっと前から提督が好きだったのかも。でも言葉には出さなかったわ。」
「もし提督にそういう人が居たなら…邪魔になっちゃうし、今までの関係でも私は満足だったから。」
「私、提督にあんな事をされて恥ずかしかったし、怖かったけど。一番怖かったのは…多分提督に嫌われる事だったんだと思う。」
「提督に嫌われて…いつもの関係が壊れちゃうのが怖かった。」
「最初は嫌われてるからあんな事をされていると思ったんだけど、そうじゃないみたいだし…」
「だから、確かめるためにもう一度あの部屋に呼ばれたの。」
「やっぱり私の知ってる恋愛とは全然違った。すごく恥ずかしくて…何度も提督の事を嫌いになったわ。」
「一応、今でも許してはないわよ?」
「でも、全部が全部嫌ってわけじゃなくて…」
アークのそれとは違う、香水の香りを感じる。気が付くとジェーナスが私の手を両手で握っている。
「だからその…今からでも、普通の恋愛、出来ないかな?」
「私でも…いいなら…」
見上げた少女の顔には涙が滲んでいる。その顔には羞恥や恐怖といった感情は見られない。
笑顔でも、凛々しい顔でも、無表情でもない。前向きな希望を携えた、笑顔とも泣き顔ともとれない表情。
少女の両手は私の手を握ったまま、胸に手を当てて今にも飛び出しそうな心臓を抑えており、鼓動の激しさが私の手にも伝わっている。
何もかもがジェーナスの本気を示している。
自らの恋心すら自覚していなかった少女が、信頼する男性に裏切られながらも、なお自分の恋心と向かい合って出した結論。
己がいかに矮小な人間であったかを思い知らされると同時に、この少女の想いを無下にしてはいけないという声が私を奮い立たせる。
私は椅子から腰を上げるとそのままジェーナスに抱きついた。
「君の事が好きだ。始めて会った時からずっと愛している。」
「俺でよければ、恋人になって欲しい。」
抱きしめられるだけだった彼女は、その言葉を聞くと私を痛いほどの力で抱きしめ返してきた。
「私も…愛してる!」
その声は喜びに満ちていた。彼女の鼓動が私の心臓を揺らし、私の鼓動もどんどん早くなっていく。
ジェーナスは…お互いに抱きしめあったまま私に顔を見せず、そのまま私の耳にそっと囁き始めた。
「さっき言ってたアークが2,3日居ないって…ホント?」
「ああ…そうだが?」
いきなりアークの話が出たので、怪訝に想いながらも答える。彼女からの答えはない。
「ジェーナス?」
ひとまずジェーナスを引き剥がして会話を続けようとするが、何故か彼女は私に抱きついて離れない。
「提督…」
「普通の恋人がするような事、したいなら…してもいいよ。」
ジェーナスの鼓動がより一層大きく、熱くなっていくのを感じる。
相変わらず顔は見せてくれないが、真っ赤になっているのは間違いなさそうだ。
私はそのままジェーナスのお尻を持ち上げ抱きかかえた。
当然、向かうのはあの場所だ。