男たちの甘い囁きに蕩けた爛熟の陰唇
①贅沢なお嬢様
戦中生まれの私が物心ついたころ、我が家はすでに裕福な家庭でした。
もともと、祖父がやっていた小さな町工場を引き継いだ父は、商才があったのか、時の流れに乗ったオモチャを製造して、たちまちのうちに工場を大きくしました。
父のおかげで、長女の私は横浜の山手にある某ミッションスクールに通い、元町で買い物をするような贅沢なお嬢様でした。
私は高校から同じ系列の女子短大に進み、短大を卒業したあとも就職はせずに、お茶の水にある語学学校で英語を学びました。
英語のほかにも茶道や華道などを習わせてもらい、本当に苦労知らずの箱入り娘だったと思います。
長女である私の下には3歳ちがいの弟がいましたが、父も母も男の子である弟には厳しくても、私には甘い親でした。
このように過保護のもとに育てられた私にも、22歳くらいになると縁談が持ち込まれるようになりました。
当時の父は、100人近い社員を抱える会社の社長でしたから、相手もみな立派な経歴の持ち主でした。
私は4度もお見合いをしましたが、どの人も欠点はないのですが、今ひとつピンと感じられるものがなくて断ってしまいました。
いずれの方も世間的に見れば申し分ないお相手でしたから、断ったのはあくまで私のわがままですが、娘に甘い父は、
「お前がイヤなら仕方ないさ」
と、おうように構えていました。
そんな私が恋をしたのは23歳のときでした。
相手は学生時代からの友人の従兄で相沢紘一といい、私より4歳年上のひとでした。
彼は業界新聞の記者をしており、男らしい顔立ちと、頑固なまでにまっすぐな性格が魅力でした。
私はたちまち彼にのぼせ上がり、初めて会ったときから、
(結婚するならこの人以外にはいないっ!)
と、まで思い詰めていました。
その思いが通じたのか、出会った数日後には、デートに誘われ、私は天にも昇る心地でした。
当時は男女がつきあうにしても、結婚までは純潔を守るのが常識でした。
とくに、私は躾に厳しいミッションスクールで教育を受けたので、いくら紘一に夢中になってもプラトニックな関係を壊すことはありませんでした。
彼のほうも正義感の強い堅物でしたから、あえて私に触れようとはしませんでした。
お互いの気持ちを確かめ合ったうえで、紘一が私の両親に挨拶をしにきたのは、お付き合い始めて6ヶ月くらい経った頃でした。
「どうかお嬢さんを僕にください」
平身低頭のしゃちこばった挨拶は、今から考えると滑稽なようですが、本人たちは大真面目でした。
紘一は茨城県の出身で両親は農業をやっていました。
彼は三男なので家を継ぐ必要はありませんでしたが、会社を経営する私の父から見れば、農家の息子というのは、
「ちょっと、つり合いが悪い」
と、感じたようでした。
しかし、父も母も結局は承諾してくれました。
彼の人柄が真面目なのと、何より肝心の私が、
「紘一と結婚できないなら一生結婚などしないっ!」
と、まで思い詰めていたからです。
こうして私は紘一と結ばれ、都内にアパートを借りて暮らし始めました。
まさにバラ色の新婚生活でした。と、言っても今から思えば何もかもがオママゴトのようでした。
私は張り切って家事に励み、とくに料理を作るときには張り切り過ぎるせいか、失敗することもたびたびでした。
そのようにして懸命に夕食を作っても、新聞記者である紘一の帰宅が遅くなることも多く、ひたすら夫の帰りを待つ私は、寂しさのあまりすすり泣いてしまうこともありました。
私は紘一と結婚するまで正真正銘の処女でした。
男女間のことは一応の知識としては知っていましたが、今のようにふんだんな情報があるわけではなく、初夜を迎えた時は不安でたまらなかったものです。
それまで、まったく性体験のなかった私にとって、キスをしたり肌を優しくまさぐられるのはうれしくても、肝心の行為はあまり楽しいものではありませんでした。
なにより、脚を広げて夫を迎え入れるときの、あの恰好が恥ずかしくて・・・・・・。
正直に言うと、苦痛に感じられるくらいでした。
(キスだけで終わってくれたらどんなにいいかしら)
と、私は本気で思いました。そのくらいオクテだったのです。
それでも、夫が求めてくれば、応じないわけにはいきませんでした。
愛する旦那様に従うのは当然と、自分に言い聞かせていたのです。
その後、長男次男と立て続けに子供が生まれると、新婚の甘いムードが薄れ、私は母親としての喜びに浸るようになりました。
とにかく2人の幼い息子が可愛くてたまらず、
「世界でいちばん」
私が愛していたはずの夫も、王座を譲り渡すほかありませんでした。
子供が一番、夫は二番という生活が始まったのです。
幸い夫も無類の子煩悩でした。
パパとママにぞんぶんに愛情を注がれ、2人の息子はスクスクと育ちました。
私の両親も彼の両親も、孫たちを心から可愛がってくれました。
ただし、そのころ私の実家はちょっとした問題を抱えていました。
父の会社がうまくいかなくなったのです。
いっときは飛ぶように売れた玩具も、次々と新種の商品が現れるとすぐに飽きられてしまい、経営は暗礁に乗り上げていました。
一方、夫の仕事のほうも、その後は順風満帆とはいきませんでした。
長男が小学生になったころ、夫は経営者と意見を衝突させ、それまで勤めていた新聞社を辞めました。
夫は別の業界紙に移りましたが、ここも長くは続かず、次に就職したのは広告代理店でした
しかし、生真面目な堅物の夫には、営業の仕事はあまり向かなかったようです。
顧客からあからさまにバックマージンを要求されたことに腹を立て、代理店も3年ほどで辞めてしまいました。
たとえ夫が失業しても、もはや私の実家には頼れない状態でした。
むろん夫は責任感の強い人ですから、すぐに次の就職口を見つけてきましたが、中途採用はやはりふりです。
夫が新たに勤めたのは社員15人ほどの小さな印刷会社で、給料もガックリと減ってしまいました。
そのころに比べると、苦労知らずのノンビリ屋だった私も、少しは世間のことを知るようになっていました。
夫のことは相変わらず愛していましたが、
(もう少し、融通のきく性格だったらいいのに・・・・・・)
と、小さな不満が芽生えたのもそのころです。
夫のように常に正義感を振りかざしたのでは、人間関係もギクシャクするし、出世は到底望めません。
私は裕福な両親に甘やかされて育ち、欲しいモノややりたいことは何でも叶えて来ただけに、息子たちにも同じように育ててやりたいと考えていました。
しかし、夫の収入ではそれも無理です。
当時の私たちは賃貸マンション住まいでした。
いち日も早くマイホームが欲しいという私自身の夢も、このままではいつ叶うかもわかりません。
そこで、私はパートの仕事を始めることにしました。
40歳で、息子たちはそれぞれ中学3年生と中学1年生。もう充分に母親の手を離れ子育ても一応必要としていませんでした。
「いち度も働いた経験がないお前になのができるっ!」
と、夫は言いました。
そんな風に言われると、こちらもついムキになって、
「立派にやってみせるわよ」
と、けんか腰になり、言い返してやりました。
しかし、実際にはなかなか良い職は見つかりませんでした。
たしかに、私はいち度も働いたことがないのだから、それも無理ないでしょう。
ベルトコンベアーで流れてくる工場のラインに立つのは体がきつそうだし、スーパーのレジ打ちにも自信が持てませんでした。
②○○○の誘惑
あちらこちらと当たってみた結果、私がようやく見つけたのは英会話スクールにおける受付の仕事でした。
結婚前に語学学校に通い、日常会話程度の英語ならマスターしていたことが役にたちました。
私の勤め先は、当時は相次いで開校された”地元に精通している教師”が、売りのスクールのひとつで、生徒の大半は仕事上の必要から英語を学ぶサラリーマンでした。
会社に命じられ、にわか勉強に苦心惨憺(さんたん)するビジネスマンも多かったのです。
私の勤務は午前10時から午後の4時まででした。
ビジネスマンたちは忙しい仕事の合間に受講するので、遅刻者や欠席者が目立ちました。
私はそんな彼らの為に、できるだけ受講時間をやりくりしてあげました。
「相沢さんの顔を見るとホッとするよ」
と、よくそんなふうに言われました。
いくら地元に精通しているといっても、教師はみな外国人ですし、教室内における会話の言語はすべてが英語で行われ、日本語の使用が禁止されていました。
だから、受講を終えたばかりの彼らは、受付デスクにいる私と日本語による会話を交わすと、
「ホッとする」
と、言うのです。
「俺はとてもついていけそうにないよ」
と、弱音を吐く人もいました。
私は出来るだけ明るい調子で、
「大丈夫ですよ。頑張って!」
と、励ましました。
そんな私は受講生たちに受けがよく、いつしかマドンナと、呼ばれるようになりました。
とくに、何人かの受講生はしきりと私に付きまとい、デートに誘ってきました。
今になると、私がモテた理由も冷静に分析できます。
いくら有能なビジネスマンでも、英語が不得意ですとコンプレックスを覚えるものです。
でも、英会話の教師は容赦しません。
とくに、アメリカ人の女性教師は気が強く、年上のビジネスマンたちを大声で叱り飛ばしたりしました。
「外国人の女性は慎みがなくて嫌だなぁ。やっぱり大和撫子にかぎるよ」
大手の商事会社に勤めている稲垣泰明はそう言いましたが、大かたの人も同じ気持ちだったのでしょう。
教室内でさんざん恥をかいたり、冷や汗を流したあとに私の顔を見ると、実際以上に私が魅力的に見えてしまったに違いありません。
しかし、当時は私も勘違いしていました。
複数の男性からチヤホヤされ、デートに誘われて、
(何だ。私って、こんなにモテるんじゃないっ!)
と、すっかり舞い上がってしまったのです。
オクテだった私は23歳まで恋愛も知らぬまま、初恋の相手の紘一と結婚しました。
小学校からずっと女子校で過ごし、箱入り娘として育ったせいで、男女の駆け引きなど何も知らないままでした。
それにしても、大勢の男性から言い寄られるのは、何と楽しかったことでしょう!
しかし、彼らは社命で英会話を学んでいるくらいで、近い将来世界に羽ばたいていくはずのエリートビジネスマンです。
すっかり舞い上がった私は、まさに女王様気分でした。
なかでも、私の興味を惹いたのは、私を大和撫子と、評した稲垣泰明でした。
「こんなに何度も頼んでいるんだ。いち度くらいデートしてくれてもいいでしょう?」
彼は私より5歳年下の35歳。
目鼻立ちのはっきりした顔、今で言えばイケメンでした。
「なかなか手に入らないチケットなんだ。ぜひ清沢さんと行きたいんだよ」
ある日、彼がそう言って取り出したのは、イタリアオペラのチケットでした。
海外オペラの公演はただでさえ高いのに、今回の公演はとくに人気が高く、チケットの入手は困難だと聞いていました。
大手商社に勤める泰明は、そのチケットを仕事関係のルートから手に入れたのです。
「ええ、ご一緒するわ」
少々考えたあとで、私はうなずきました。
オペラなんて独身の頃に、2~3度見たきりです。
娘時代はクラシックのコンサートにもたびたび出かけたものですが、結婚以来、いち度も行ったことはありませんでした。
夫の紘一はまったくといっていいほど音楽には興味のない人でした。
美術にも無関心。
本を読むことは読むけれど、ドキュメンタリーや評論などが主体で、小説好きの私とはこれまた趣味が合いません。
私はそんな夫に不満を覚え、芸術的な刺激に飢えていました。
まあ、このように言い訳がましいことをいっている私です。
たしかに、オペラも魅力的だったけれど、私はそれ以上に泰明という男に魅力を感じてデートに応じたのです。
堅物で不器用な夫と違い、オシャレな彼は話し上手で、ユーモアのセンスもありました。
その夜のオペラ トスカ は素晴らしく、興奮冷めやらぬ私は泰明に誘われるまま、お酒の席に付き合いました。
「これまでは、冗談めかして口説いていたけど、僕が本気だということはわかっているでしょう?」
飲みつけないカクテルでほろ酔いになった私の耳元で、彼は囁きました。
「毎日あなたののことばかり考えて、仕事も手につかないくらいだ」
「だけど・・・・・・、私は結婚しているのに・・・・・・」
「それでも好きになってしまったものは、しかたないじゃないか」
酒場を出たあと、私は暗い夜道で泰明に抱き寄せられ、キスされました。
「ダメよ、こんなこと・・・・・・」
私はかろうじて彼の腕を逃れましたが、言葉とは裏腹に、甘美な興奮に全身を震わせていました。
言い訳になるかもしれませんが、その頃の私は、泰明は独身だとばかり思いこんでいました。
彼は結婚指輪をはめていなかったし、家庭があるような素振りはいち度も見せたことがなかったからです。
その点でも私は甘ちゃんでした。
つづく