時候にまつわる小咄その1(お彼岸&おはぎ)になります。
おはぎを食べながら榮美里が彼岸・此岸と、そこを歩む六連とヒツキを夢想する話です。
まったく、何でこうして集まっているのかしら。
どうして集まる事になったのか、いくら考えても思い出せない。
忙しいと言っている時期のせっかくの合い間なのだから、もっと有効に使えばいいのに───それはこうして集まる前にも言った覚えがあるわね。
「いやあ、忙しくてなあ」
「やっぱりこういう職だと暦のいわれとか大事だわ」
秋分。暦の上で此岸と彼岸がもっとも近づく秋の日。
それは時候だけではなく、人ならざるものや一部の特殊な人間たちの動きにも影響する。簡単に言えば、頃合いだと『何か』を成す為にそれなりに凝った仕掛けを用いて準備をしたり、妙な動きをするものが出る。それを防ぐために忙しくなったというところだろうか。
何しろこの子は、そういう物を取り扱う事務所の所長なのだから。
今年もお彼岸には帰れないと便りを送ったよ、と笑うこの子───六連の隣には当然ヒツキが居る。そして目の前のテーブルには───お茶とおはぎ。
この時期だからおはぎ、萩の花だ、いいのを買えたぞ、なんて笑う六連に、ぼた餅やおはぎ以外呼び方があるのは知っているかなと、ヒツキが返す。
「ぼた餅は春、おはぎは秋だけれども、夏と冬にも言い回しがあるんだよ」
「夏には『
もっともこれは彼岸やらには何も関係のない、作り方からの言葉遊び由来の名だけれども、と示された解説に、六連は感心したような声を上げた。
「へえ、面白いな。色んな名前があるのか」
「あんまり名前とか気にした事無かったなあ」
「『萩の花』だって、ばあちゃんが言ってたのがそのままこっちに感染っちゃっただけだし」
ぼた餅は『牡丹』で、おはぎが『萩の花』だよな、と確認を取る六連に、ヒツキがそうそうと相槌を打つ。
まったく、何でこんな会話を聞かされているのだろうか。
別にわたし達は何か共同で作業をしていて、その休憩がてらにお茶と茶菓子をしているという訳でも無い。色々片付いて時間も空きがあるから季節のものでも、なんて六連が呼び、わたしが来たといった感じだ。ヒツキは呼ばれたというか元から六連の傍に居て、『色々な片付け』の顛末も見た上で付き合っている。
そして「どうせならわたしじゃなくて片付けてくれた部下やらに振舞ってあげればいいのに。一生懸命動いてくれたんだからねぎらいなさい」なんてこちらの言を封ずる役目も担っている。
───「すべてやった上できみを呼んでいるんだよ」と、全てを見て来た立場で言葉無く訴えて来るのだ。
「『ぼた餅』は知ってたけど、牡丹の花がどんなもんか知らなかったんだよな」
子供の頃の話だよ、と前置きしながら、六連は語った。
「ばあちゃんが「牡丹の花の形をしているから『ぼた餅』だよ」って言ってたのは覚えてて、じゃあ『牡丹』ってどんな花なんだって事になって」
「何か本当にそのままの、粘土か何かを丸めた様な形しか想像出来なくってなあ。随分と変わった形の花なんだな、って思った覚えがあるよ」
「その後で姉ちゃんらが園芸にハマり出して、ほら六連くん牡丹よ、きれいでしょう、なんて買ってきた鉢植えを見せて来られて、ようやくこれかあ!って気付いたよ」
それまでも近所やらで見てた筈なんだけどな、『ぼた餅』や思ってたぼとっとしたようなのと全然違うから、それが『牡丹』だって分からなかったんだ。
「近所で見かけたかもしれない『牡丹』よりも、ずらっと並んだぼた餅やおはぎの方が印象に残ってたのかもな」
あら、花の話から少し趣が変わってきたわ。
それでも話は留まりもせず、まだまだ続く。
「田舎だからなのか、それともうちが一族みたいな単位で一括りみたいになっている所だからなのか知らないけれども、子供の頃はこの時期になるとずらーっとおはぎが並んだなあ」
「春分もか、とにかく、春と秋のお彼岸になると親戚のばあちゃん連中がおはぎを作るんだよ。うちのばあちゃんも勿論作ってた。だからこの時期になるといつも手作りを食べてたって訳だ」
「子供の頃はそんなもんかと思ってたけど、今思うとずらっとおはぎが並ぶ光景と言うのもなかなかに壮観だったなあ。大人になってこっちに移ってからはそんなもん見られないもの」
いやあ、ばあちゃん達に感謝だね、なんて思い出に浸る六連を眼にしながら、わたしはちょっと考えてしまった。
六連のおばあさま。たくさん居て季節ごとにおはぎを作っていた親戚の老女たち。そして牡丹を植わっていた近所に住まう人びと。
───その中で何人が、彼岸の向こうに渡ったのだろうと。
おばあさまと六連が『姉ちゃん』とする従姉たちは違うのかもしれない。
この人たちに関しては顔を合わせた事こそなくとも、そんな色合いでの話を聞いた事が無い。明るく話そうとしてもどうしても独特の影と湿度が含まれる。居なくなったものについて語るとは、そういうものだから。
人は割とすぐに去ってゆく。それはわたしも、そしてもちろんヒツキもそれは知っている。ヒツキに関してはわたしよりもそれを実感することが多いだろう。彼は塞ノ神、人びとの守り手だ。すれ違う顔をちゃんと覚えてどんな人だったのかとちゃんと心に刻み、旅立つ時もちゃんと最後まで見送ったのだろう。かつて居たらしい村でも、そして村を去り、彷徨うことになった後でも。
わたしは見守る立場じゃないし、ちょっと接しただけの人間の顔なんて覚えちゃいない。我ながらいい加減なのだ。
それでもこの何百年を生きていると、幾人もの人間とすれ違ったという事実だけでも覚えているものだ。
彼岸、向こう岸。遠い向こう側。当然、わたしは行った事がない。一度行ってしまったなら、もう二度とは戻れぬ場所。
六連はまだ何か言っている。郷里の思い出、子供時代の話、そんな事を並べて語っている。
ねえ、あなたも。あなたもいずれは行くのよ。
その時にもあなたは、そんなに明るく思い出話を語るのかしら。
───ええ、きっと。
恐らくこの子はそうするのだろうと、そう思った。
この子はきっと遠い旅路に際しても、自分の心痛や苦難を語りはしない。残されたもの達の為でもあるだろうし、この子を成す大切な要だから。決して表に出して取りこぼそうとは思わない。
ほら今だって。親戚が多いんだと語る口は今までに参列した葬儀の数を隠し、更にその眼の中には専門の職に就いてから見送って来たご同輩や、たまたま居合わせた人びとの姿を秘めているでしょう。
忘れることなんか出来ないでしょうに。
彼岸と此岸に咲く花で足元を照らされながら、彼は岸を船で渡るのだろうか。それとも陸路がいいと、旅路を道の形として眼前に置くのだろうか。
『まっすぐ』を好み「泥にまみれながらも歩き続けるのが俺のやり方だ」なんて、おかしなことを言う子だものね、きっとその形で旅をするに違いない。
足元が燃え盛ろうが気にしない。どんな泥で汚れようが気にしない。
だって、それを選んだのは自分だから───そんなやり方と心持ちをきっと、最後の旅でも変えはしないでしょう。
そうして歩く内にヒツキと一緒になる。先に行っているのか、後から来たのか、それは分からないけれども。とにかくお互いに待ち合わせた様に合流して、一緒に歩き始める。
所在をなくした後もヒツキは見守るものとしてあり続けた。ずっと人を見送り続けてきた寂しさなんて滲みはしない。見守るもの、道しるべ、どんな形であれ、人を見て来た。
それでも、いずれ終わりは来るだろう。いつ、どのようにかは分からないけれども。そしてもし『その時』が来たならば、彼もまた旅路を行くのだろう。
こうなったら重々しい話も少しはするかもしれない。けれどもきっと、主に話すのは今みたいな馬鹿な話じゃないかしら。この道行ですら楽しい旅なのだ、この二人にとっては。
「だから何で羊羹だったんだよ」なんて、よく分からない思い出話から六連がヒツキの肩を抱く。それに対して、もらいものだったんだよ、いいものだっただろうと、焦点がズレた様な答えを返すヒツキ。
満面の笑みと、表情の薄い、それでも感情の巡っている顔。対照的だ。
ずっとこんな感じで行くのだろう。
この二人はずっと一緒だ。どんな時であっても。
「ずらーっとしたおはぎに話を戻すとだな、最近はやらなくなったんだって。何でも、人手が無くなったからって」
急にまた話がそっちに戻った。
「ばあちゃん連中も殆どが居なくなって、若い世代はそういうのやりたがらない。行事ごとに自分達でやるのは手間がかかるからな」
ほら、姉ちゃん達だって別に花育てたり菓子だけ作ったりして生きてるわけじゃないし、と、向こうの身内をはっきり知らない身としてはよく分からない言を挟みながら更に続ける。
「一時はまだ居るばあちゃんらと乗り気な奴らだけでやればいい、って収まったんだけどな。今度は『あそこがやってるのにうちがやらない訳にはいかないだろう』ってな風に圧してくる奴が出たみたいで。結局『負担になるから全面的にやめる』『各々の家で買いに行け』って事になったよ」
外野で喰うだけだったみたいな俺からしたら寂しいけど、しょうがないんだよな、と少し寂しそうに六連は笑った。
「だって物事ってのは流れていく、変わらずにはいられないんだから」
───それでも、お彼岸をやろうと集まる気持ちは皆あるのでしょう。
遠方に住まうとか忙しいとか事情はある人も居るにしても、行事そのものを中止はしない。色々考えて負担なく参加出来るものにしている。これは習慣になっているからだけじゃないと思うけど。
そう伝えると六連は、そうだったらいいなあ、と笑った。俗っぽい人付き合いもあるからそれだけの話にはなりにくいんだと言ったような、何だか諦めが混ざった様な、含みのある笑い方だった。
わたし達───人ならざるものは若干浮世離れしていると、そのように見られる。
それは『世俗的だ』と自分で思っているこのわたしですら例外ではないらしく。時折こうして『超然的』な方向で物を言ってしまう。これではいけないと無理に『世俗的』な方に舵を切ると、今度はそっちの要素が多くなり過ぎる。うまく噛み合わないのだ。
それは、六連に対しても同じで。
先程の六連の声、寂し気な笑みを伴なったその声に、川の流れを思った。此岸と彼岸を結ぶ川は常時流れ、留まる事を知らない。
時も状況も何もかもが流れている。留まってはいられないものなのだ。
───まあこの子に関しては、世俗と超然の釣り合いは取れている。色々あやうげな所が無い訳では無いけれども、これに関してはあまり心配し過ぎないようにしよう。
目には見えぬ川の流れを忘れるように、和菓子切で目の前のおはぎを切り、大きな塊を口に運んだ。うまく切り分けられなかった塊は大きく、口に入れた一瞬、喉に詰まらないかと心配になった。
それを見て六連が、大きくいったなあ、大丈夫か、と心配をまぶした妙に目に残る笑顔でこちらに視線を向ける。
大丈夫よ、心配いらないわ。
そう言いながら飲み込んだ塊は甘く濃厚で、だからこそ再度の心配を表す六連に『おいしかったから』と切り返す事が出来た。
そう何も心配なんて、いらないんだから。
あなた達は何も気にせず、馬鹿な話だけを続けていればいいのよ。
時も状況も何もかもが流れている。留まってはいられない。
けれども、せめて今だけは。
こんな風に何でも無い時を過ごせる、今だけは。
榮美里はヒツキの過去(今までの旅の詳細・『彷徨う塞ノ神』なる訳の分からない存在になった理由)を明確には教えてもらっていませんが、何となくは知っております。人を見つめ守るものだったけれども、何かあってそれが叶わなくなってしまった・あてどもない旅に出る事になったと。
六連との友情もそこまで深くなった詳細は知らないけれども、「共に在り続ける親友を得たのだな」「ほんの少し傍に居ただけでも『今まで』を変えてしまう程の存在なのだな」と理解している。
六連自身に関しても「どんな時でもヒツキと歩き続ける事にした・歩き続けているのだな」「きっとどんな時でも共に在るのだろうな」(ヒツキを討った後の後追いとかではなく)と思っております。
六連とヒツキの交わした『約束』も知らないけれども、もし知る機会があっても全く衝撃は受けない。
(自分へ語られた情報としては聞いてはいないけれども)「そういう物だと既に知っている」から。
彼岸花は美しいですが、『死人花』・『幽霊花』・『蛇花』という別名を持ち、家に持ち帰ると火事になるという俗説など、不吉な要素が沢山ある花です。
自分よりも先に逝くであろう人の子と、色々あっていつ消えてもおかしくない不安定な状態の友人を見送る光景(夢想)にしては一見すると不適切かもしれません。
しかしながらこれは、どんな道でも(例え足元が燃え盛っていようとも)この二人なら楽しく話しながら歩き旅するのだろうという確信の表れなのです。
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