※いつも以上に抽象的な文面・独白がバーッと並ぶ回です。
どれ程否定しても、目を逸らそうとも、あなたは彼の『ほしのおひめさま』。
色男に伊達男、美男子、ハンサム───いい男なんて星の数ほど居るけれど。わたしの周りにはまるで居やしない。
はあ、とため息なんか付いてもしょうがない。
しょうがないけれども、思ってしまう。
一体どうして、こうなったのかしら。
携帯電話を持つことにしたのは、勤め先の女将の先が長くない、故郷の川に戻るという話が出たからだった。
『先は長くない』とはいうけれどもあと二十、三十年程は大丈夫らしい。けれどもやはり一刻も早く郷里でゆっくりしたいとのことで、今回引退を決めたのだという。仕事の引継ぎも後釜にちゃんとされているので、目立った支障は出ない。けれども、全く問題が無いわけでもなかった。
女将は齢千をも超える、数々の神通力の類も使える存在だ。
わたし達もその恩恵にあやかり、同じ店に勤める子ら同士は『念』で指示を聞き、また勤める者同士でもそうして『会話』することが出来た。それは女将だけの力であり、仕事を引き継いだ若い側は───それでも、わたしよりはずっと年上なのだけれども───その力は引き継がれも真似も出来ない。だから、今まであやかってきた恩恵と利便性は、ここに来て途絶えることとなる。
幸い急な話ではなく、代わりにどうしようかという話をちゃんとまとめる時間はあった。
まあ、わざわざ『まとめる』でもなく結論は簡単なものだったんだけれども。
人の作った通信機器。特殊な場合を除いて、おのおのの能力など関係なく使えるし、制約もない。特殊なものを望まなければ、これほど便利なものもなかった。
携帯電話に電話番号を登録する際、せっかくだから手帳やらの住所録の整理もすることにした。残すのは必要な相手だけ。ここ何年も会っていない相手、あまり関わらなかった相手はいらない。
───ひょっとしたら家に置いている電話を止めて、こちらばかりを使う時も来るかもしれないわね。
それでも不便のない相手だけを、残す。
その時に、寝るだけだった相手たちの番号も消した。ここ最近会っていないし、こちらから呼ぶこともないし。最後に会った時に何をしたのかも───寝る以外にだ───あいまいな相手だ。ひょっとしたら顔さえもうろ覚えだったのかもしれない。
だから、呼び止められた時にあんな反応になったのかもしれない。
しばらくぶりだと声を掛けられ、盛り場に立つその男を目にした時。まず思った。
「こんな顔だったかしら」と。
誰なのかはすぐに思い出せた。大きな怪我でもして顔などが大きく変わったなどということもなく、雰囲気もさほど変わっちゃいない。そのはずだ。
ただ、冴えない。こんな冴えない相手には声を掛けたりしない、応じたりしないはずなのに、と、そう感じた。
ただ、それがどう『冴えない』のかが、上手く説明できない。
その男は自分の近況をばっと話し、今夜はどうかと聞いてきた。断り、そういうことはもうやらないの、よそに行って、と続けても、向こうは別に残念がりもしなかった。お互い相手ならいくらでも居るのだ、別に不思議はない。
それよりも、今の自分の気持ちの方が不思議だった。
前に見た時にはもっといい男だと思っていたはずだけれども。どうしてわたしはここまで冷め切っているのだろう。
どうして一緒にあれこれしたいとは、思わないのだろう。
思えば、ここ最近のわたしの周りには『いい男』がまるで居ない。
ここ百年とか五十年とかそういう話じゃない。それなら、人間たちやそれと交わる人ならざるものの価値観が変わったとかで説明が付く。
わたしが言っているのは本当にここ最近───自覚している限りでは、ここ数か月のことだ。
本当にいきなりだったから、「何か大きく気落ちでもしているんじゃないか」と自分のことが心配になった。気が落ち込むと今まで良いと思っていた物が思えなくなる、と聞いたことがある。そしてそう感じるのは何も人間だけに限った話じゃない、とも。
そんな風に何かにすごく落ち込んで、認識まで変わってしまっているのに自覚がないのかもしれない。それは大変なことだと、そう考えたのだ。
けれども、それも違っていた。
気落ちしているなら、何もかもが色褪せて見え、食べるものもおいしくは感じないと聞いた。わたしはそれにあてはまらない。むしろここ最近は目に見えるすべては色鮮やかでうつくしく、食べる時に舌に滲み染み入る味も鮮やかで、『美味』という位置から色褪せることなく感じ続けている。
───ここ数か月の間、ずっと。
大きく気落ちした時は誰かとまぐわうのですら億劫で苦痛でしかないとも聞いたけれども、それも違う。
鮮やかな感覚で誰かと混じるのは気持ちがいい。目に見える色も、脳に瞬く連続する閃耀も、何もかもが冴え渡って身体に沁みる。
熱くなる身体。火花を散らしそうな脳とは対照的に、周囲を取り巻く空気は段々冷えてゆく。
熱せられた肌で、かじかむ程に冷涼な空気を感じて。
熱を発するか奪われるか、隔たりの中で感じ続ける、そんな時間。
───絶好調だ。
こんなに気分がいいと、夜空を見上げて物思いにでもふけりたくなってくるわね。
わたしの部屋には大きな窓がある。夜にその窓を開けると、夜空がよく見える。何もかもが鮮やかに感じる今、その空の明るさは───群青の夜に広がる満天の星明かりは、どこまでも無限に広がっているように感じた。
意識の奥底、眠る夢の中でも、あいまいな闇の向こうでも、どこまでも。
そんな途方もなさの元でならば、どんな夢も、馬鹿馬鹿しいことも、口にしてしまってもかまわないと、そう思えた。
ならばいっそ、すごく馬鹿馬鹿しいお願いを。
夜空を見上げて、うやうやしくお祈りしながら、こう願うの。
───いつか、わたしの元に、素敵な王子様が来てくれますように。
『おひめさま』なんて、ガラじゃあないけれども。この際いいじゃない、そんなことは。
星に願いを、なんてベタすぎる状況だから。これぐらいベタで馬鹿馬鹿しいのを徹底してやるぐらいで丁度いいのよ。
吹き込んだ涼しい風がモビールを鳴らす。
天井の照明を遮らないように吊るしたモビールは連なるトンボ玉。中東産の青が風の涼しさを伝えてくる。
収納部分を覆う布はダマスク織を模したもの。今こうして着ている服にも中東の幾何学模様が絡む。
元からこういう意匠は好きだった。元は、わたしの力の使うには鏡や反射する飾りを身に付けなくちゃいけないから。せっかくなら凝ったものにしようと集めるうちに、反射しない飾りや服もそういうものが多くなったのだ。
そういえば、この部屋に入るなり別の国に来たみたいだ、これが『異国情緒』って奴かあと、そんな馬鹿なことを言いながら笑ったのは、誰だったかしら。
───いつも変なことばかり言う、馬鹿な子。
ああ、『王子様』だなんて考えてたら、俺かな?なんて馬鹿を言い出してくる顔が浮かんでくるわ。
違うわ、あなたじゃない。
どうしてそんなにこにこと得意そうな顔をするのよ。この前だってそうだったじゃない。
少し前にわたしは楽しくお酒を飲んでいた。にぎやかな夜の街の盛り場。いい夜だったからカウンター席でお酒を引っ掛け、その隣に座った男とも酒を交わしながら話が盛り上がった。こうして軽く接するにもよく、それでも滲み出た教養も深い、いい感じの相手だった。話す度に怪訝な顔というか、曇ったような表情が目に付いたけれども、まあきっとそれは気のせいよ。
そんな風にお互いに楽しく飲んでいた時だった。
「よう、お待たせ」
───そんな声が割り込んできたのは。
びっくりした。お待たせも何も、待ち合わせなどしていない。
わたし達の間に割るように背後に立つ六連を見上げる。妙に眼がきらきらとした、これまた妙に得意気な笑顔だった。次いで隣の男の顔を見る。面食らっているだろう中で見えた感情。先ほどまでのあいまいな怪訝さは消えてゆき、明確な白けが見て取れた。
六連は男に、待たせていたんだ、その間をありがとう、などと簡単な礼を言った。そして、わたしの方に手を差し出し、その場を後にした。
歩きながら六連は終始笑顔だった。
「困っているのかと思って間に入っちゃったけど、違ったみたいだな」
「でも、あんまり知らない奴を困らせちゃいけないぞ」
なによそれ、と聞いたけれども、終始そんな感じの得意げな笑顔で答えない。
その顔と、せっかくの夜を過ごそうと思った興を削がれてしまったのが癪で、気持ちが納まらないからわたしを引く手から指を離し、腕に絡まり直した。そして身体をくっ付けた。それでも得意げな、嬉しそうな顔は変わらない。まあいいわ、行きましょう。
そうしてわたし達は共に、夜の街を歩いた。
こんな風に、六連はよく訳の分からないことを言い始める。
最近の話ならカップケーキのこともだ。
ハロウィンに───正確にはその近辺のお休みの時に、あの子はカップケーキを眼を付けてどうしたの、と聞いてきた。質も見目形ももっといいお菓子はたくさんあるし、いっぱい食べただろうに───いつもの店の和菓子を用意した。おもてなしのつもりだったけど、いっそ買い過ぎたかもしれない───それでも、興味を持った。まああの中では数少ない洋菓子だったから、それで目立ったのね、きっと。
わたしが作った奴よと返すと、何故早く言ってくれない、と言われたっけ。
いったい何処で作った、細かな好みに沿うのは、作るのは嫌いなんじゃなかったのか、なんてうるさいから、順を追って説明したわ。
───勤め先で一緒に働く子は煮炊きするのが好きで、オーブンやらなんやらお菓子作りのための設備もある。そこを貸してもらった。
───わたしは煮炊きは好きじゃないけれども、楽しいことにこういう形で参加するのもたまにはいいかと思った。
───あなた達にはお世話になっているから、一番形のいい奴を寄こした。自分用にも作ったし自分でも食べるつもりだけれども作り慣れている訳じゃないから、味は保証しない。
そこまで説明すると、六連は何だかとても納得したような顔になっていた。
そうかあ、じゃああのチョコバーはカズトからかあ、と呟く顔が徐々に明るい笑顔になってゆく。
今の話にそんなに喜ぶような要素はあったかしら、と聞くわたしに、彼はこう答えた。
「だって、こうして作ってくれたから」
好きじゃないのに、苦手なのに、手を伸ばしてくれた。他の物も方法もいっぱいあるけれども止めたりせずに、俺達の為に作ってくれた。
───それが、すごく嬉しいんだ。
何をそんな子供じみたことを、と思わず口から漏れた。
それでも、別に彼の笑顔は曇らない。
「いいじゃないか、子供染みていて。嬉しいんだから」
本当に明るい笑顔だった。あんまりいい笑顔だったから、その手の平に包まれたカップケーキさえも素晴らしく上等な金色に輝いて見えるぐらいだった。
カップケーキというにはあまりにも雑な、塩とコショウを振って食べたらちょうどいいような代物が。
それでもその輝きの中では、そんなものでも上質な甘みとなめらかさを持つように思えたのだった。
───わあ、きみ達の目もぴっかぴかだねえ。
『光り輝く』で少し思い出した。
───そんな風はしゃいだのは、どこの誰だったかしら。
ちょうど六連の話をしていたのは覚えている。
六連本人に会うずっと前、六連について語るヒツキの目の中を見て、そのかがやきにわたしも興味を持ったから、六連の目の話、もしくは六連に出会ってからの自分達についての話をしていたのだろうと、想像は付く。
でも、誰とそんな話をしたのかを思い出せない。
男、それも青年と言っていいぐらいの年若い相手だったのは何となく覚えている。ふわふわとした話し方も耳に付いている。でも肝心の顔を思い出せない。どうやってわたしの横に来て、どうして話すことになったのか、それも分からない。
ヒツキではないことだけは確かだ。
だってヒツキは六連のことを『六連くん』だなんて、呼ばない。
こうして話にも出る通り、六連は光を振りまくような眼を持っている。それも決してカンカン照りの太陽のようではなく、絵に描いたような愛嬌やら甘さ由来でもなく。夜の空に散りばめられた灯のような、落ち着いては居るけれども、それでも人を静かに照らし続けるような、どれだけおどけおちゃらけた空気を出そうとも消えない、真剣さと清浄さがあるのを知っている。
───けれども時折そのきらめきが深まり、こちらを射抜く程に鋭く熱くなるのも知っている。
あの目の輝きは尋常ではないと常日頃思っていた。
───もしかして、これは『邪眼』なのではないだろうか。
そんなことさえ、思った。
本来ならあり得ない話だった。この五百年生きてきて、『邪眼を持った人間』なんて見たこともないし聞いたこともない。もし仮に持って生まれたとしても、即座に力に飲まれて人では無くなる───どういう由縁であっても、持ってしまえば即侵蝕する。邪眼とはそういうものだと、どこかで聞いた。
でも、あの子なら。あの子なら分からない。
どうしてもその考えが消えないから、だから『対抗策』を取ることにした。
『邪眼には、見るに堪えないものを』。
今まで邪眼に接したことなんてなかったけれども、この対抗策だけは知っていた。だから、それを用意することに───そう装うことにした。
馬鹿げた衣装に振る舞いに。そうやって邪視の影響を避けようとした。
そんなまっすぐにこちらを見つめないで。こんな馬鹿馬鹿しい相手には何も刺さりはしない、何もかもが無駄なのよ、と。そうやることであの眼差しから、逃れようとした。
でもそんなものが効く訳がない。
だってあの子はただの人間で、『尋常ではない』なんて、わたしが感じるだけなのだから。
本当に邪眼を持ったまま人間として生き続けている存在とかならば、もっと前に他の誰かが気付いているだろう。あの子の身近な存在で例えるならば、ヒツキ。人を守るものである彼が見過ごして、ずっとそのままにしているなんてことはないだろう。あやうい道を歩む親友を、放ったままにしているはずがない。
本当に、一体どうして、こうなったのかしら。
───六連くんと出会えて、きみは幸せなんだねえ。
そう笑う声を思い出す。
ふわふわと安定しない、するりと隙間に入り込むような声。何も持ち込まず、何も残さず、そのまま居なくなる、あやふやさというものをそのまま表したような、そんな誰か。
何も持たず、何も得られない。記憶にも残らない、そんな誰か。
怖いとは思わなかった。ある意味での哀れみや切なさも抱きはしなかった。
程度の違いはあるけれども、こういう『だれか』はそれなりに居る───もしかしたら術やら体質やらなのかは分からないけれども、そこまで極端でなければ珍しい状態でもない。
深く関わらず、誰かの傍に立つだけ。与えもしないし失いもしない。適当に誰かと関わり、そして何も残さず去ってゆく。そんな『だれか』。
───なるほど、だからこの『だれか』は六連に目を付けたのかもしれない。
あの子の面倒くささは肌に絡むし、お腹に溜まる。
あの子の瞳は見つめたものを逃さない。
一見単純な稚気と慈しもうとしてくる重い情と。もしそんなものに絡まれてしまったら、与えもしないし失いもしない状態を保つなんて、寂しいと感じるなんて無理な話だもの。
あの子は自分の面倒も誰かへの面倒も苦にはしない。
世話を焼かせたなら自分の思う補填をするし、自分が焼く方なら何も求めはしない。
絡み付く黒髪のように肌を守り、ひそみ見つめる蛇のような粘り強さで気を張り続ける。
───本当に馬鹿な子だ。
勤め先やら知っている女同士で集まって呑む時に「いい男なんて星の数ほど居るんだから」と言った後で、「でも星には手が届かないのよね」と混ぜっ返すのが定番になっている。
それに対してひどいわあ、とか言いながらふざけるのまでを含めての絡みだ。
いつもいつも聞くし時に加わる、こんな馬鹿げたやり取りを真面目に考えるのもおかしいのだけれども、今ならこう思う。
星は届かないからきれいだと思えるのだ。
もし星に手を伸ばせる程に近づけたなら、すぐさま身体が焼け焦げてしまう。
そんな目には遭いたくない。
だから、星は遠目で見るに限る。
自分に関わりのない遠くから、遠目で「きれいだなあ」と思うぐらいが、丁度いい。そうすれば、焼け焦げるなんてことはない。
突然この身が空の上まで飛んでいったり、星がこちらに落ちて来たりしない限りは、ありえない。
そんなことは起こり得ない。だから、大丈夫だ。
そう思いながら、生きて来たのに。
あの子は愚かだ。何かに焚き付けられてすぐに熱を上げる。
そうでなければ、人間だったらかなり昔の、子供時代にあったことを恩義に感じて動き回ったりしない。
そうでなければ、恩を感じた相手だけでなく、他の助けにもなろうと───守りたいだなんて思わず、身体を削ったりしない。
ほんの少しのこと、恩義を与えた張本人にとっては当たり前のことを受け取っただけでもこうなるのだ。
もし、わたしが少しでも、甘い言葉をささやいたら。
もしほんの少しでも、あの子の望む通りに動いたなら。
───「愛している」なんて、ほんのちょっとでも口にしたならば。
あの子は舞い上がってすぐに熱を上げてしまう。うんと温度を上げられた熱せられた気持ちに何もかもをすり減らして───
そうして瞬く間に、燃え尽きてしまう。
妥協はしない、出来ない性質の子だ。惜しみもなく舞い上がった気持ちのままにすべてを投げ打ってしまうだろう。
だから、何も残らない。
そうなってしまったなら。どこを探しても、何をかき集めても、もうどうにもならない。
熱の名残だけを残して全ては失せる。熱くはないか、苦しくはないか、なんて聞いても、何も返っては来ない。
消えてしまうのだ、なにもかも。どこにも居なくなるのだ。
燃え尽き砕けた身体を夜空に散らし、無数の光だけを残して。
もしそんなことになってしまったらどうしたらいいの。
あなたの光で網膜を焼いて。大気に残るあなたの名残をかき集めて。
焦がれたらいいの?凍えればいいの?
ねえ、いったいわたしはどうすればいいの。
───ああ本当に、こんなことになるなんて思わなかったわ。
ここまで来ると、こんなことになるずっと前、あの子とのやり取りを自慢げに語るわたしを、ヒツキはどんな風に見ていたのだろうとすら思う。
ヒツキの目は静かだ。感情が分からない、ぼやけて見えるとよく言われるんだとヒツキ自身が口にするぐらいに、そこに在るものを読み取るのは難しい。
その静かな目にあの時のわたしはどう見えていたのか。
ひょっとしたら、今から蛇風呂に沈められるとも知らずに武勇伝を語り、いきがる女囚のように映っていたのかもしれない。
ああ、かわいそうに、どんな目に遭うのかも知らずに。
ああ、気の毒だ。自分の今までが、何かが通じると思っている。
そんなこと、できるはずないのに。
そんなちょっとした感情を抱き、それでもいつものことだ、別に特別なことじゃないよと仕事に戻る、静かで堅牢な目を持つ刑務官。
塞がった一つ所に詰められた蛇たち。わたしの肌の上を這い、ありとあらゆるやわらかいところに絡もうとするひんやりとした黒い鱗も、姿勢を正し鎌首をもたげた幼蛇の、こちらを見上げるいとけなき眼もすべて、その静かな目でただ見つめている。
───そんなイメージが、浮かんだ。
いえいえ、流石にこれはひどい。
ヒツキはそんなひどいひとじゃないわ。それに、そんなどろどろしたものとは無縁よ。
ヒツキはそうね、あえて言うならば、真昼の墓のような存在だ。
やわらかい日差しが照り、優しい草のにおいに包まれた、山奥の墓。静かな山奥で人は来ない。そこには穏やかさがある。穏やかな時間だけが流れている。
それは日の照り具合こそ違えど、わたしが元々居た村の
村外れの墓。傍を行き交い通りすぎるものはあれど、立ち止まる人は居ない。だからとても静かだった。行き交う顔を覚える必要はないし、掛けられもしない声に応える必要はない。誰にもかまわれないから、かまわないで済む。
だからそこに立ち尽くしているだけの日々は、とても楽だった。
けれどもその楽さも少しづつ、変わってきているのかもしれない。
ねえ、とヒツキに声を掛けられた。その顔は真剣で、表情の読めない眼からも伝えたいことがあるのだという以上の何かを感じ取ることが出来た。
「きみの友達として忠告するよ。自分の気持ちに素直になった方がいい」
───そして、彼の親友としてお願いするよ。彼の真剣な気持ちを無下にはしないでやっておくれ。
何かと思えば珍しく、こちらの動きに口を挟んできた。言い換えれば、それだけ真剣に考えて決めた、ということなのだろう。
あらでも困ったわ、こうも分からないことを言われてしまっては。
ちょうど返事に困るお手紙をあの子から貰ったばかりなのに、また悩むことが増えちゃったじゃない。
あの子は───『死装束を着ているようだ』なんて言われた白い着物のあの子は、色々あって今は病院に、いや、『更生施設』かしら、そこに居る。色々悩んで大きなことをやってしまった結果なのだ。
今のあの子には癒しが、休んで自分を見つめ直す時間が要る。そして十分癒された後はまた迎えに行きたいと、常に思っている。
でも、それにはまだ少し時間が掛かるようで。
手紙のやりとりが出来るようになったのもつい最近だ。最初の方の手紙は、何を書いているのか分からないようなものだった。そこからわたしや巻き込んでしまった子供らへの詫びをちゃんとした文面で書けるようになり───今では、ある程度は安定した話が出来るようになっている。事件からすぐでこんな風に回復するのは嬉しい。でもまだ治ったと喜ぶには早い。だって時折筆が乱れてしまっているから。
それもあって、返事には困っていたのだ。
もう、みんな難しいことを持ってくるんだから。
はあ、とため息なんか付いてもしょうがない。
何かしら動かないといけない。それは分かっている。
わかっているけれども、動けない。
───こんな『異国情緒』な部屋の中に居ると、何だかそういう国のお姫様に見えるぞ。
ほら、アラビアンナイトとかそこら辺の、なんて子供っぽく大雑把に括ってくる声を思い出す。
それしか思いつかないの、もっと色んなものがあるでしょう。
───いやでも似合ってるぞ。綺麗だ。
そう言って金の簪をわたしの髪に差し直し、刺繍の描かれたショールごと肩を抱く。
女を褒める言葉さえ単純で、子供っぽい。
きっと彫られた幾何学模様も、縫い取られた意匠にも、まるで興味がないのだろう。
───本当に単純で、馬鹿な子。
色男に伊達男、美男子、ハンサム───いい男なんて星の数ほど居るけれど。わたしの周りにはまるで居やしない。
あの子のにこにこした得意げな顔が浮かぶ。
違うわ、あなたじゃない。
ヒツキが気遣うような顔で言う。
お互いに歩みを決めてのことだろうから、口を出すべきでもないのかもしれないけれどもね───それでも、ちゃんと伝えないと、きっと後悔する時が来るよ。
───だって思いは伝え続けても、余るなんてことはないのだから。
あの子がなめらかに綴る。
「『篝 六連さん』というのは、あの時私を止めてくれた人の子の事ですね。えいちゃんがずっとお手紙に書いてくれるから、すっかり細かい所まで覚えてしまいました」
「あの時は色々ありましたが、こうしてお話を聞くと素晴らしい方だと分かります」
「えいちゃんが大切に想える方と出会えて、幸せになってくれて、とても嬉しいです」
違う、違うわ、そうじゃないの。
六連というのは愚かな子だ。
ちょっとしたことですぐに喜び、感謝の言葉を述べる。
恩義に感じたことを忘れられず、全力で動いてしまう。
簡単に焚き付けられ熱を上げて、嬉しくなってのぼせてしまう。
俺は単純だよ、なんて言う口の後ろに、細やかな影を隠し持つ。
そうして考える瞳の中にはいつも、十二の灯を抱き続けている。
ともしびの周りには、こまやかにまたたく無数の星が在る。
───そう、わたしが見上げる夜空はきっと、あなたの眼窩の中に。
燃え尽きたあの子のかけらはきっと、きらきらとかがやき続けるだろう。
山に射す朝日の中で、街の灯の点る夜の中で、平凡な住宅街の昼の中で───どんな場所でも、どんな時でも、うつくしくきらめき続けるのだろう。
どんな背景でもかまわず常時きらめき、光はわたしの目を焦がすだろう。
形など留めちゃいない、留まってはくれないのに、ずっと目の中に残り続けるだろう。
きっとこんなうつくしいものなど他にありはしないと、もう他の何にも心動かされはしないだろう。
うつくしい光にずっと焦がされ、後悔の中でずっと、見つめ続ける。
だから。
───だから、ちがう。
榮美里は友達などの親しい存在は居るけれども、ある意味ヒツキよりもずっと空虚です。
自分が深く欲するものの意味を上手く受け取れていないし、相手の存在・湧く感情にずっと焦がされ続けている。
その概念が自分にとってどんな意味があるのか理解した上で区切りをもうける・拒否しているのではなく、概念が齎す物に翻弄され続けて何を受け取れば・どう動けばいいのか判断出来ていないというか。(ヒツキは自分に何が大事なのか・どう線引きするかをちゃんと分かっている)
ひょっとしたら深入りする=溺れてしまうのが本能的に分かってたから、深い情念に接するであろう関係性においては表面だけを触り立ち入らないという生態だったのかもしれません。
今まではそれでよかった、けれどもうそれは成り立たない。
(『今まで』がグズグズに崩れていっている)
作中の『邪眼避け』・対応策も同じく。
邪眼というよりも正眼(青眼・星眼)のが近いかもというのは置いておいて、これも当人としては大真面目&しかし思うような効果は得られない(ジリ貧)のは同じ。でも通用しない。
何故なら六連がそんな物は元から持っちゃいないというのは当然として、六連は好いた相手がどんな姿になろうとも『見るに堪えない』とは絶対に思わないので。
カップケーキは前話より。
これも不器用さの表れでもあります。
最後らへんの手紙の『あの子』はこちらで出てきた『死装束の乳の親』です。親友である彼女が捕まり保護施設に入所した後、榮美里はずっと手紙でお互いの近況や嬉しかった事を伝え合っていました。
『何も持たず、何も得られない。記憶にも残らない、そんな誰か』(生前・死後関わらずちょくちょく登場している奴)
『想い思い合う相手から妙な理論・傍から見るとよく分からない危惧により逃げ続ける』というのは、関係無い第三者からすると「もどかしい」、「面倒くさい反応だなあ」としか思われないでしょうが、これも当人にとっては大切な過程だし、決して間違いではありません。
少なくともこの件に関しては本人の頭の中だけの思い込みではない。(六連に感じる危うさは、果たして思い込みなのか?)
この小説にどのような描写を求めていますか。
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