前回の続きです。
六連の過去と一応の幕引きと。(まだお話は続きます)
あの夏の日、俺とカズトは他愛無い話をしていた。
内容は覚えちゃいない。今しがた食ったアイスキャンデーはやっぱり殆ど水だよなとか、神様もテレビ番組とか見るのかいとか、そんなどうでもいい、下らない話だったのだろう。
だけれどもそれは同時に、忘れちゃいけない物でもあって。
少なくともあんな物よりはずっと俺の人生にとって価値があり、大切な記憶だったのは間違いないだろう。
夏の陽が鋭く、眼を刺した。
開いた眼は閉じられない。見開いた眼、涙をいっぱいに湛えた瞳。カズトの腕の中。庇われ抱きかかえられ移動するカズトの腕の下から見上げた太陽と、こちらを覗き込む眼。
網膜が焼かれても尚、閉じる事は出来ない。
逃げるカズトと並走する、いや飛行する獣。俺を守ろうと一生懸命に走るカズトの速度に悠々と追いつき、時折体当たりをして、カズトの身体を確実に削っている。
茶色や黒の斑と縞模様の浮いた毛皮を持ち、龍の如き身体を僅かにくねらせ。こちらに並ぶ速度を演出しながら、俺達が疲弊し切ってしまうのを心待ちにしている。
ひと思いに喰らうのは楽しくない、十分に遊んでからにしようと、俺達に力を出す必要など最初から持たないままで。
金色に成り損なった黄土色の眼が、俺を覗き込んで嗤う。
黄土色の上に走った夏の熱。
光はとても熱く、そして輝いて見えた。
はい、パース、と明るく気の抜けた声を出しながら、ニシカが脚を振り上げた。
その爪先の前にあるのは、スチールロッカー。捨て置こうかとギリギリまで迷っていた備品入れは、まるで缶蹴りの空き缶の様に軽々と宙を舞う。
危うい所で直撃は避けられた。が、落ちた振動で足元が揺れると同時に床に膝を着いてしまった。
手加減された一方的なじゃれ付きの中でも確実にこちらの体力は削られ、本格的な消耗が始まっている。
今や長く伸び嵩を増した髪もこちらを射貫く瞳も、身体を覆う膚さえも、金色の輝きを有していた。趣味の悪い誰かなら「女神の様だ」なんて評するかもしれない。
───俺には到底そんな風には思えないけれどもな。
網膜を突き刺す光と視線、膚に張り付けた金色。振り乱れても尚野生の優雅さで渦を巻く髪の色素は完全に金色となり、周囲に突き刺さる輝きを振り撒いている。
メノウがあの趣味の悪い飾りやらなんやらの一式についてニシカに尋ねていた場に、当然俺も居たんだ。居て、ニシカの挙動やらを見ていた。
───そうか、あいつは『ケンヤ』というのか。
「ね?可愛いでしょ?」
あの時、あの場に居た俺に、ニシカはそう問うた。
可愛いもんか。
俺は動物は嫌いな方じゃない。猫も好きな方だ。
だけれども、あれは違う。
龍の如き身体をくねらせ獣の脚を延ばし、鈍く短い角と、石をも軽々と砕く金剛石の牙を持ち、妙な持論で子供を喰らおうと付け狙い追い回す。
そんな奴を『可愛い』なんて、とても思えない。
そもそも、あいつは猫じゃない。
三毛猫や錆猫は雌しか居ないと聞いた。だから、その面でも違う。
男だろう、あいつは。
あの時初めてニシカを、こいつの眼から放たれる輝きを見た時、俺はこう思ったんだ。
───ああ、あの獣が倍ほどの年月を生きていたなら。
もっと血を飲み、あれ以上に人々を蹂躙し喰らい、力を蓄えていたなら。
苦悶と絶望の顔、裂かれた肉体の断面を見つめ、脂肪と臓物のぬめりをもっと得ていたならば。
きっとあいつの眼は、こんな風に輝いていたのだろうなと。
人を突き刺す輝き、永遠に責め苛む金色に。
そしてそれは、やっぱり間違っちゃいないようだ。
伸びをしたポーズばかりが目立って溶けてしまった様な顔。あまりにしょぼついて訳が分からなくなった顔。
そんな物は、俺は知らない。
俺が知っているのは、こちらを嘲り笑い、ギリギリまですり減らした上で喰おうと狙う獰猛な面ばかりだ。
カズトを抉り、記憶を司る部位のひとかけを吹き飛ばし、俺達が離れ離れになる原因となった、あの獣。
しかしながら俺の知らないあいつの表情を、このニシカは知っているのだろう。
色々持っていた猫を象った品の、歯の部分が透明でないのは技術的な意味で諦めたのか、それとも何か意味合いが隠されているのか、それは分からない。
───貴様は、あいつよりも、あの『ケンヤ』よりも、数倍は歳を重ねているらしいな。
───訳の分からん理由で子供を追い回して喰らう奴なんて、可愛いもんかい。
俺が口から漏らした言葉に、ご機嫌だった表情が一瞬、真顔になった。
それからまた一瞬で元に戻り、尋ねてくる。
「へえ?あいつ、死んだの」
どうりで待ち合わせに来ねえ筈だわ、へえ、こんな奴にねえ、と唄う様に言葉を続ける。こちらへの問いではなく、独り言ちる、もしくは頭に溜まる筈の思考がそのまま漏れ出てしまっている、といった具合だ。
「数倍……そんな婆ァじゃねえよ」
「こちとらたった七百年しか生きてねえっての」
まったく、何を言ったんだかあの馬鹿は、とひとしきり笑った後、ニシカは未だ膝を着いたままの俺の方に向き直った。
いい笑顔、それこそ『輝かんばかりの』いい表情だった。
「馬鹿と馬鹿がやり合って、馬鹿が生き残った!ずいぶん単純な話じゃねえか!!」
色彩が、こちらを襲った。
撒き散らされ流れ零れる血液や脂肪は、瞳に色を添える為に。
悲鳴も苦痛の噎び泣きも、引き裂かれた四肢や臓器の、ぬとついた断面もこの為に。
今まで成してきた所業によって瞳の金色は磨き上げられ、こちらを圧する鮮明な色彩を放つ。
網膜に無遠慮な輝きが突き刺さる。
永遠に終わらぬ様なあの夏の日が、この場に顕現していた。
大口からは笑い声が響いていた。
けらけら声なのか咆哮なのかはしかと分からない。それらが混ざり合い遥かに大音量で耳障りにした、耳を劈き鼓膜を潰さんとしてくる、そんな響きだ。
たまらず耳を押さえる。それでも鼓膜への振動が突き刺さって来る。
蛍光灯が何度も明滅し破裂した。初撃から数回は耐え抜いた窓ガラスもメリメリと音を立て、やがては一斉に砕け散る。
照明も光を反射する硝子も、全てが消えた。
今この場で光るのは、膝を着いて動けぬ俺を見つめるニシカの眼だけだ。
砕けた硝子が床に散る。けらけらとした笑い声は尚も続く。
「我が名は
わざとらしく仰々しい名乗り。大きく広げた両手。衝撃が迫る。
───やられる。
そう感じて思わず目を閉じた。が、次は来ない。
「あー、なんか、楽しくなってきちゃったなあ」
そう言ってへらへら笑っていた顔を引き締める事もせず、更に笑い声を上げる。満足げな、しかし何かを思案しているような、そんな様子だった。
───せっかくだからさあ、もっともっと面白い事してもらおうじゃねえの。
そう言うなり窓が嵌め込まれている壁に拳を振るった。たったの一撃、それも全力という訳でもない一振りで、あっけなく壁は叩き割られ、崩れ開かれた空間から外気がどっと入り込んでくる。
冬の冷気に髪をはためかせながら、ニシカが笑う。
「じゃーな、バカガキに石っころ」
そしてこちらを向いたまま、後ろへと倒れ込んだ。
まあ、精々もてなしてくれよ。
そう言い残して、ニシカの姿は外へと落ちてゆく。
立ち上がって壊れた窓辺に駆け寄った。
下を見るまでも無い。居ない。あいつは去った。
これから何かを確実にやるだろうという、嫌な文言だけを残して。
「『イッショー』!」
その声に振り返ると、カズトがそこに立っていた。
表情は普段と変わらないが、一旦は移転先に向かったもののすぐに取って返してきたのだろう。服装が乱れている。しかし怪我をしている様子は無い。よかった。
構わず行けと言っただろうという俺の言葉を遮り、六連、顔を、と俺を示すカズトの指。顔を触ると血が出ていた。よく見ると、服の上にも血やら硝子の粉やらが沢山付いている。砕けた硝子を浴びて顔やら首やらに擦り傷を負ってしまっていた事を、この時初めて気付いた。
大丈夫だ、何も心配いらない。
駆け寄るカズトをそう言って制する。
砕けた壁、大きく穿たれた穴から外の冷気が吹き込んでくる。
俺は無事だ、何もされていない。
そう、俺だけは。
───精々もてなしてくれよ。
その声が、痺れた耳の奥で響いた。
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