『ウツツギ』は、奴自身の能力を練り込まれた香によって捕らわれていた。
製法は知らない。覚えていない。手順を記した書や成分表はあったものの、十分に検査を重ねる前に情報が消えてしまった。資料からだけではなく、調査をしていた連中の頭の中からも。
今はもう、誰も覚えちゃいない。
俺達の手元には、捕縛先に残されていた複数の完成品と、辛うじて製造出来た試作品だけが、残った。
数こそ少ないが、この香は強力だ。
それは実証が乏しく不確定な部分が多すぎるという点を補って余りある。
この香は───匂いが広がった範囲への出入りを限定する。
正確に言うと、香炉が設置された、もしくは投げ込まれた先に居た奴をそこに縛り付け、後に入ってくる奴ら───俺達の用途で表すと『中の奴を討つ、もしくは捕縛目的で投入された人員』の数を制限する。
───一人、多くとも二、三人。それ以上は弾き出されてしまう。そして、どんな奴かによって中からの影響も変わってくるのだ。
俺達の場合であれば何も起こらない。かつて俺達にも影響を及ぼした幻は今や何の苦とも感じる事は無く、悠々と標的に辿り着ける。
あの時、俺達と共に捜査に関わっていた奴らなら───メノウや早乙女、犬養達だ───幻に少し悩まされはするが大きな影響は貰わない。香り立ち込める空間から自力で抜け出せもするし、抜けた後で呆けるのも数分、数十分で終わる。少し面倒だが大した問題とはならない。
俺達の元には居るが、あの時捜査に関わってない奴らを香を焚いた中にやるのはおすすめしない。感覚を大きく乱されるだけではなく、香の下から抜け出せたとしても、何日かは幻覚や感覚異常に苛まれ、呆けた状態が続くからだ。
俺達と提携を取っている機関の奴らは例え効能を試したい・協力したいと申し出てくれたにしても、行かせては駄目だ。
───俺達と縁遠い存在は、例え友好的な者であっても、香の漂い続ける範疇内からは絶対に逃れられない。抜け出すには外から誰かが引っ張り出してやらにゃならない。そして引っ張り出される前も最中もその後も、意識はずっと幻に惑わされたまま帰ってこない。数か月を病院のベッドの上で意識が戻らぬまま過ごし、戻ったら戻ったで今度は数週間ほど幻覚に惑わされ、足元の感覚も視覚もおぼつかないままに回復を待たないといけない。
───自主的に治験者となってくれたとはいえ、これは俺達に巻き込んで申し訳なくすら思えた。
標的に対しては効果はまちまちだが、数少ない実施の中では身体の大きさや種族に関わらず、それぞれの目的に最も適した効果が表れてくれているように思える。
俺達が───あの時、あいつの最期を見た俺達だけが、何の効果も受けずに居られる。
───どうしてだ。
どうしてあいつはそこまで俺を気に入ってくれたのだろうと、カズトに聞いてみた事がある。
長年の友人、親友だったというなら分かる。
凶行を止める方法が他に見つからず、やむを得ない気持ちを汲み、受け入れたというならば。
過去の所業により仇敵として追っていたというなら分かる。
奴の性質により朧気になる記憶の中でも糸口を探ろうとあがき、必死に追い続けるその姿に感嘆、もしくは同情したというならば。
熱烈な信奉者として崇め奉っていたというなら分かる。
存在を崇めながらも、ひとつところにはいられない、誰にも何にも覚えては貰えぬ性質を憐れみ、この辛い状況を自分ごときでは覆せぬのなら、いっそこの手で息の根を止めて差し上げようと『崇拝』を振り上げ、それに絆されたのなら。
───最後のは正直、俺だったら御免被りたい。
相手が人間なら警察に任せるし、俺達の管轄ならばあらゆる手を使って、飲まれぬ様に回避する。こんな相手に友達や知り合いやらが狙われるのも嫌だ。絶対に嫌な目になんて遭って欲しくない。
独善的な『敬愛』で勝手に崇め憐れまれ、命を狙ってくるなんて、実に勝手で迷惑な話だ。
けれども、どんなやり取りでも『つながりだ』と見做すあいつなら、喜ぶかもしれない。
しかし勿論、俺はそのどれでも無い。
俺はカズトの提言から捜査をし、奴と接触して危険な奴だと見做し討伐した。単純な話だ。
全ては唐突に目の前に現れて、これまた唐突に目の前から去っていってしまった。
だからあいつが俺に思い入れていた風だったのは分からないし、ここまで助けてもらえる筋合いも無い。
そんな事を軽くまとめて話した後、カズトは少しばかり考え込んでいた。考え込んで、ようやく口を開いた。
「それは、きみが彼にとって一番欲しい物を、『答え』を与えてくれたからじゃないかな」
まったくこの通りじゃないかもしれないけれどもね、と前置きをし、カズトは話し始めた。
「彼はきみの中にそれを見た。最初はぼくを通して、そこから探り、最後にはきみ本人に行きつき、やはりそうだと確信した」
「何年も、何百年も探し求めていた答えを、自分だけではどうしても見つけられなかったものを、ついに見つけたんだ。彼にとっては時間なんて関係ない、一見で巡り合えてよかったと感じられるものだったんだ。その過程で命を落としてもかまわないと思えるほどに」
ぼくとしては生きたままで幸せになって欲しかったけれども、こればかりはしょうがないね、と軽く溜息の混じった声で、カズトは続けた。
「彼はきみに出会えて、十分幸せだったんじゃないかな」
───奇跡を、奇跡を見せて。
あのすがる様な声を思い出す。
だからだというのか。奇跡を見たいから、与えられたから、力を尽くしてくれるのか。
「こんなのはなんてことはないのだ」と魔法染みた事を、易々とやってのけてみせるのか。
───なんてな。
こんな仮定はあまりにもこちらに都合が良すぎる。第一死後も『ウツツギ』の力が作用しているなんて、そんな事は証明されてはいない。力が働いているにしても、生前の奴の思考がそれに反映しているとは限らない。生前のあいつが妙に俺を眼に掛けてくれたからといって、現在発生している香の作用がそこに関係しているとは限らないのだ。
───第一あの香は、あいつが創ったものじゃない。
奴を囲っていた奴らは───祝詞やら呪文やらを歪めてネオンで表した、あの罰当たりで悪趣味な酒場を経営していた組織の上層部も、『ウツツギ』の能力を香に固めた開発者連中もすっかり居なくなっていた。
海外に高飛びしているならばまだいい───本来なら何も良くは無いし、これはこれで別の厄介事になるが、まだ理解も対処も可能だ。
しかしそうではない。あの香を開発した連中もそれを決定した上層部も、消えてしまっていた。情報も微かな物品も、何の痕跡も残さず、それこそ『煙の様』に。
捕縛した構成員達も上役も───こいつは『ウツツギ』の捕縛や香の生成に何も関わっていなかったらしい。ある程度の地位はあるが蚊帳の外、だからこそ生き残れたのだろう───当該の連中についてまともに答えられなかった。口が堅いのではなく、記憶から消えかけているのだ。
長年の上司と思わしき存在について「いたかもなあ」と語る声は虚ろで、それを妙だと思えないのだという事を、不気味に感じた。
───あいつら、一体何の力を借りたんだ。
妖しげな香を使っての商売は元からやっていた。その時点からの付き合いなのか、『ウツツギ』を捕縛する為に何かしらの契約をしたのか、そこは分からない。
とにかく、それは莫大な代償が必要だった。そして取り立ては速やかに行われた。
そして、何も残らなかった。
───俺達があの香の下で平気なのも、もしかしたら、その『何か』のお陰かもしれない。
俺達は『ウツツギ』の思いが香にも表れているのだろうと勝手に思っているが、そんな事は誰も言ってはいない。実証されていない事は不確かだ。真実とは言いきれない。
本当は何だか分からない存在に力を借りている状態で、知らぬ内にかなりの後払いで、もしくは眼には見えぬが大きな代償を支払い続けているだけなのかもしれないのだ。
───それでもやるさ。
別に特別視されて加護を得たいとかじゃない。今必要なのは奴を───ニシカを惑わし、感覚を狂わせたままで居させる事だ。奴の動きを封じたまま、こちらが通常通りに動ける事。これだけだ。
───そしてその為なら、どんな代償を払っても構わない。
───六連くん。
ぼくは奇跡を見たよ、六連くん。
移動しようと後ろを向いた時にそんな声を聞いたような気がした。
あの時の様に弱々しくは無く、「がんばって」と、今からやる事の後押しをしてくれる様な、そんな声。
どうやら『ウツツギ』は俺をえらく気に入ってくれたらしい。
───やっぱり都合が良すぎるな。
次の地点に向かおうと足を進めた。
なるべく早く到着して準備を済ませたい。その為には色々気にしている余裕は無いんだ。
だから、振り返ったりはしない。
穏やかな笑い声は、俺がその場から遠ざかるまでずっと聞こえていた。
何をどうしたのかは判然としない部分はありますが、『ウツツギ』の力は神獣にも通じるのは確かです。
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