俺は高台へと向かった。ニシカの居る小山のすぐ近く、走り回っているであろうハイキングコースが良く見える場所だ。
現在、ニシカは『ウツツギ』の香で惑わされている。それにあの境界からは出られない。だからこちらに何か仕掛けてこれやしないだろう。
双眼鏡を覗く。居た。
俺達の予想通り、ニシカは区切られた領域の中をデタラメに走り、動き回っていた。
そしてその近くには、行方不明となっていた地元住民の姿もあった。
『熟柿の様に潰れた』という言葉があるけれどもそこまでじゃ無かった。ちゃんと硬い部分も残ってはいる。
その手頃な硬さを伴った『果肉』は、ニシカの足指を覆っていた。
両足ではなく、片足だけ───ニシカの右足、その爪先は男の頭蓋を見事に貫いていた。頭蓋骨の硬さをものともしない爪先はしかし、こびり付いた『果肉』の残骸も、その下にぶら下がる手足や胴の重さなどまるで存在しないかの様に軽やかに───頭を潰された男の遺骸はまるで履物かの様にニシカの足に収まり、足下の頭部も付随する胴や手足も引き摺り振り回され、あと少しでそこいらのボロ屑と見分けが付かなくなりそうなまでに損害を受けていた。
髪を振り乱しながら、雑木林も遊歩道も区別無く早足で駆け回って。一見力強い歩みはしかし無軌道で、本来の残忍さや勘を存分には揮えていない───迷走している様だった。
ほら現に、俺がこうやって見つめている事にも気付いちゃいないじゃないか。
───双眼鏡から眼を離す。少し離れたところに居るメノウが「こっちの準備は出来ましたよ」と手を挙げる。
それを見て、こちらもです、と振り返った犬養が一瞬妙な顔をする。
「これも準備の内だ」
それは必要なのですか、という言葉に先回りして答える。
必要なんだ。それこそ、関係ない奴らからすれば、馬鹿馬鹿しい装いだろうと。
───今更俺は離れたりはしませんよ。
今度は、犬養が先読みして答えてくる。
「お前の所、子供が産まれたばかりなんだろう」
産まれたばかりって、もう二歳ちょいですよ、と返す声に同じ事だ、と返した。
まだ見守るべき幼い子供が居て、その子を共に見守る相手が待っているのには変わらない。
色んな意味で眼を離したくない、責任があるのは同じだ。
しばしの沈黙の後、だからですよ、と犬養は返した。これも分かっていた事だった。
「自分の子にこんな事をやったと自慢出来る父親になりたいんですよ」
「自分だけが危険や義務を免除されて、状況がどうなろうと、只、なすがまま、されるがままを見つめるだけなんて、耐えられない」
「それに、あんな奴を野放しにしちゃ、我が子の安全も保障されませんしね」
冗談を言う時ですら表情を変えぬ、真面目くさった顔が言う。
───守りたいんですよ、俺は。
その言葉に嘘が無いのはよく知っていた。
犬養は責任感の強い男だ。メノウの様に目に見えて熱くなるなんて事は無く、常時平熱を保っているかの様に見える奴だけれども、その実、情が篤い奴でもある。
眼に見える脅威をさておいて、自身の安全を優先したりはしない。幻惑という布石こそ敷いてはあるが、万が一でもニシカからの危害を喰らいかねない立場を他に譲りはしない。過不足無く能力が足りていて、明確な適任が他に居る訳でも無いのなら、言うまでも無く。
妻子が、守るものが居るだろうと言われても、だからこそ。
───それでも、お前に傷ついて欲しくない、無事に帰ってきて欲しいと思う奴は沢山居るんだぞ。
それでも、止める言葉なんて、俺には思い付かなくて。
だから俺は、次の指示と指揮に集中する事にした。
───昼下がりの陽光が、黒く艶やかな砲台の表面に鈍く反射していた。
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