前回に引き続き邇獅噛と六連の視点の混在話。
それでもなお対峙する六連と、邇獅噛の思う事。
───やはりな。
変貌した奴の姿。それを前にしてそんな言葉が頭に浮かんだ。
こいつはやはり、本来の姿を隠していた。
それは、弟である『ケンヤ』が龍と獣が混在した様な姿であったからというだけでは無い。人ならざるものに『血縁があるから似通った姿になるだろう』なんて理屈は通じない。繋がりは確かだが人の目では判別が難しい物である場合もある。だから人に似た姿の姉、獣の姿をした弟でも十分あり得るのだ。
そうではなくもっと直接的に、対峙した時の感触が教えてくれた。
こいつは最初に対峙した時、明らかに手を抜いていた。いいとこ二、三割の力、適当な遊びで俺を圧倒し、最後までそれは変わらなかった。言い換えれば、律儀に力の差の詳細を、上限を教えてくれた訳では無い───教えられていたならば、とうに俺は生きてはいない。
サワリだけ見せられ、その後は隠されていた───隠蔽されていた七、八割はもっと残忍で、手の付けようが無い様な更に圧倒的な力なのだろうと、それを肌で感じただけだ。
奴がいきなり地に手足を付いた時には一瞬驚いてしまい、意図が読めなかった。
あれから防がれるだけではなく、突いたり斬ったりは出来た。しかしそれは別に大打撃を与えられたという訳ではない。服の繊維こそ裂かれ破れようとも、奴の肉や骨、いやそれどころか膚すら何ら損傷を受けておらず、わざとらしくやられたあ、と笑う奴の声も歪む顔も、本当の意味での苦悶を見せやしない。
そして大袈裟な素振りの中でも、首筋の矢には全く触らせはしない。
俺をあらゆる角度から徹底的におちょくっているのだ。
それでも、そんな悪ふざけの中でも、こちらは緩やかではあるが確実に削られている。
その中での、これである。
拝跪の姿勢、いいや、クラウチングスタートか。思いっきり走る為───片手間ではなくそれなりに全力を出す為の姿勢だ。
余裕の表情のまま、今以上の力を───『本気』を出すつもりだ、と俺が思い至った時には。もう、それは始まっていた。
地に埋まる指先は鋭さと硬度を増し、地表を削り引っ掻き更に奥へと進む。『ウツツギ』の幻覚で足元もおぼつかない筈なのに。まるで全てを振り払い、地に足が付いているかの様に。
身体の嵩が増した。筋力優れた長身の女の体格から一瞬巨躯魁偉の男にも似た状態に、そこから更に膨れ伸び、人の形を成さない次へと。
奴は悦んでいた。奴の身体は、筋は、骨は、控えめに抑えていた力を全身に押し流し巡らせる行為そのものに、流れる己が生命力の奔流に、これから本来の姿で愉しめるという、事実そのものに。
もう慎ましく抑える必要なんて無く、更に蹂躙していく腹積もりを見事に決め込んでいる。
金の光抱く髪は更に渦を巻き、全身に広がる。夏の熱を思い出させる鬱陶しい色が益々光を帯びていく。
全身に広がる髪は最早『髪』の体を為さない。
獣毛、鱗、いやもっと硬質な、金属を思わせる様な何かへと変貌していた。
細やかに密集する毛並みは針の様で、首筋や肩の大まかに流れる毛の部分はまるで、数多の剃刀か剣山でも寄せ集めたかの様に鋭く、数多の刃は突き刺さる肉を待っていた。
こいつの弟は、『ケンヤ』は、確かに獰猛だった。龍を荒々しくして神秘性をこそげ落とした様な猛獣で、刃も通らぬ様な姿をしていた。それは十六年前のガキだった頃の恐怖心からだけではなく、人ならざるものを打ち倒す今の職での経験を経ても同じ意見だった。しかしその毛並みはまだまだ柔らかで、『獣毛』と呼べる物だった。
奴の事を語る時、小僧やガキ扱いする口調だったその理由を、今ようやく実感した気がする。
あれは弟だからというだけではない。
奴はガキだ。まだまだ小さいほんの小龍だ。少なくともこいつはそう見做していたし、そう見做せるだけのものを持っていた。
今目の前に在る身体は、あいつより三周りは大きい。
重量を持ち、長い。とある東洋の国の演舞で使う龍の人形に似ている。祝祭日に二、三十人から成る一本の列で繰る、大掛かりな奴だ。
具体的な大きさは大型観光バスを二台ほど縦に繋げたぐらいだ。車体に金の英字で社名などを入れている奴だ。重量と光沢は単なる獣で例えるよりもいっそ、そちらに近い。
前足が獣で後足が猛禽の物だ───用途や気分により適宜入れ替える、ここは人型の時と変わらない。
顔は獅子に似ている。狛犬や対になるそれではなく、猛獣の『ライオン』の方だ───渦を巻く髪は鬣と同義だったのか、ここからあの獣の手足を成したのか、と視線が留まり続ける。
───女なのに鬣だなんておかしいじゃないか、なんて、単純な『ライオン』になら思えたのに。
単純な言葉を連ねる、思考が纏まらない。幼い語彙、回す思考が過去へと戻る。
鬣は渦を巻き、記憶に絡む夏の熱と陽光を抱く。心臓の鼓動が跳ね上がる。俺には見えぬ筈の周囲を覆うであろう『ウツツギ』の千代紙じみた模様の数々が、真夏の光と熱から成す極彩色に圧倒され、焼け焦げ朽ち果てるのを見た。今まで以上の圧を感じる。圧迫した空気により地表が揺れる。立てなくなりそうだ。
圧の中、奴がずいと俺に迫り、声を張り上げ嘲り哂った。
劈く高音と破鐘の重音───その声は更なる圧となり草木を揺らし、刃となり髪と肌を刻んだ。
───けれどもその声は、俺にとっては力無い呟きや呻きにしか思えなかった。
地にばら撒かれた遺骸に眼をやる。元からニシカによって無残な状態にされてはいたが、雨あられと降り注ぐ機銃の弾を受け、もはや原形を留めていない。
しかし喰われてはいない。被害者の身長体重から推測される質量からそう多くは減っていない。悪食で大喰らいの奴だもの、その気ならもっと嵩が減っている筈だ。
俺が最後に見た時はこの骸は奴の爪先に貫かれ、ぶら下がったままだった。そのままでも動きに支障は無かっただろうし、挑発し動揺を誘いたいのならば、踏み躙り続けているのを見せ付けでもした方が効果的ではないだろうか。
それでは何故、奴はこの遺骸を爪先から振り捨てたのだろうか。
傲慢で気紛れな悪獣に、動機を求めるのは無意味かもしれないがそれでも考えた。
ニシカは幻惑やら感覚やらの異常や閉じ込められている状況を何とかしようと───慣れ親しんでいるであろう血や臓物の臭いで香の匂いを消そうとしたのか、それとも中秋の名月からの水の引いた境界内で穢れを撒き散らす事で線引きを無くし外に出ようとしたのか、そこまでは分からないが───状況の打破を狙って行動した。だがしかし、思う様にはならなかった。
周囲には梅の香りが満ちていた。血と臓物の臭いと共存して、それはそこにあった。
奴の吼える声は激しく圧力としてこちらを襲い、俺の身体を刻んだ。しかしそれは致命傷とはならず、あくまで薄皮の上を削っただけ、ちょっとした手当てで治りそうなものだ。勿論俺を嬲る為に手加減してくれた、というのも十分あり得るが───簡単に楽にしてくれる程、奴は慈悲深くも善良でも無いのはよく知っている───それにしてもこちらへの被害が軽微過ぎる。
奴の咆哮は奴の力を有り体に感じさせてくれた。単純な暴力と生命力。目の前に繰り出される極彩色の奔流。金色の熱と光と極彩色の流れがこちらを押し流そうとしてくる。それは圧倒的な物で、本来なら恐ろしいと竦み、全く動けなくなってしまってもおかしくはなかった。
しかし俺は一瞬硬直こそしたものの、全く違う思いで居た。
───何だ、大した事無いじゃないか。
俺はガキの頃に奴の弟の『ケンヤ』に追い回された。
奴の発する声は破鐘の様で恐ろしく、引っ掴まれて逃げる背後から吼える声は神経に響き、全身を痺れさせ動けなくしてきた。頭をめり込ませる程に圧を与え、全身の水や血を毛穴から体外に吐き出させる様な恐怖の感覚は、今でも忘れちゃいない。
ニシカは奴よりも、ずっと強い。これは姉だからという年齢由来の物では無く、生来からの差だろう。
奴の性格の事はさておき、本来の姿のままで些細な所作から漏れ出す力を抑える事なぞ出来るのだろうか。
一思いに喰らうのでは無く、わざと逃がして嬲ろうと考えていたのはあの時のあいつも同じだ。
それでも、あの時俺の身は竦み、恐怖に支配され動けなくなっていた。
もし万全の状態で本来の姿を現わしていたのならば、奴自身が幾ら手加減しようとしたとしても、咆哮のみで脳も頭蓋も何もかも潰され、吹き溢し果てる事態になっていたのではないか。
薄皮の表面を傷つられけた程度でも、本来持っているであろう力は十分に感じられた。
では何故、奴はそれを出さなかったのか。
『ウツツギ』の香は未だに効いている。
俺を覗き込んだ奴の眼。夏の光の色と熱と、光のスペクトルから成る極彩色の縁取りでぎらつく眼はしかし、瞳孔がぼやけて焦点が定まらない様だった。
───奴の身体や気力は、奴自身が思う以上に消耗しているのではないか。
それならば、俺の狙いは正しかったし、ずっと効き続けている事になる。
奇跡で覆われた神獣。馬鹿で馬鹿力、バカヅキでバカ奇跡───元より、そんな奴と単純な力比べをして勝てるとは思っちゃいない。
だがその馬鹿力をほんの少しでも弱らせる事が出来たなら。その膚を、魂を覆う奇跡に、ほんの少しでも介入出来たなら。
それなら、勝負はどうなるか分からない。
俺は何も恐れちゃいない。
十分な策と装備を用意し、相手はそれに見事に引っ掛かってくれた。
皆の手助けのお陰で俺はここまで来れたんだ。
あの時とは違う。
だから、上手くやれるんだ。
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このガキをあたしが平らげたと知ったら、あいつはさぞ悔しがるだろうなあ。
悔しがる虔彌の顔を思い出し、笑いが込み上げた。あたしが存分味わう様を見て、精々悔しがってりゃいいんだ。
お前にも欲しけりゃやるよ。あたしの喰い残しでよければ。
───嫌じゃよ。姉者の喰らった痕なぞ、野晒しのされこうべの方がまだ食い出がある程に何も残らぬではないか。髄も何もかも吸い尽くされた白い粉じゃ、喰らう所なぞありゃせぬぞ。
───そもそも喰い差しなぞ寄越すな。
あいつならきっとこう抜かすだろう。分かり切っている。
ああそういや、冥府では現世から供えられた物が贈り物として届くんだったか。
現世より供物とされたものは尽きる事無く死者の腹を満たし、喉を潤す。そう聞いた。
勿論あたしは冥府の様子なぞ知らない。今まで一度も行った事が無いのだもの。話に聞くだけだがきっとそうなんだろう。
だからそういう事なのだろうと、今決めた。
よおし、ならばそうしてやろう。
目玉でも肝でも何でも、気が済むまで好きなだけ喰らえばいいじゃねえか。
お前は下手こいたんだ。
あんなガキ相手に負けて、何処ぞで粉微塵になって散らばっているかもしれねえ様な奴が───
「どうせなら五体満足のまま、もっと若返らせてから寄越してくれたらいいのに」だの、「本当に気の利かぬ姉者だのう」だのと文句を言う筋合いもあるめえよ。
───好きな所を好きなだけ、喰い損ねた分を、あの世で存分に喰らうがいいよ。
心底気分がいい、上機嫌だ。
この気分のまま屠り尽くそう。
今でさえこんなにも楽しいんだから。きっとこれから料るこのガキはあたしをもっともっと高揚させ、愉しませてくれるだろう。
なあ、虔彌よう。本当に楽しいなあ。
口から洩れるけらけら声が身体中を駆け抜ける。
心は震えるままに加速し、巡る笑いに声までも震わせながら、あたしは吼えた。
お気付きかもしれませんが、邇獅噛は弟と仲が良いだけでなく、かなり好きです。
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