六連視点の話。
六連と、思う事と、混在する過去と。
戦況は最悪だった。
奴には刃も弾も通らない。今まで手を抜いてくれていた攻撃も、それなりに真面目に行おうと思ったらしく、こちらの刃が届く前に奴の斬撃が何十にも飛んでくる。
血は噴き出して痛むが、奴の言外に語る『最大限に時間を掛けて嬲りたい』との意向によって、これは本気ではないのだろうな、まだ生かされているだけなのだろうな、と感ずる。変則的な状況下だが全力を出さずとも問題無く殺せると判断した、故に『趣味』を止める必要も緊急性も無い───いや、もしかしたら元より全力の出し方など知らないのかもしれない。
全力を出さずとも気付いたら目の前の相手は既に息絶えていた───相手の技量や生きた年数など関係無く、きっとそんな経験しかしていないまま生きてきただろうから。
奴は攪乱の渦中、酩酊したままでも強さに陰りは無く、俺だけが消耗し続けている。
眼の中に血が入ってきて鬱陶しい。横髪にも血が付着し、顔の側面に貼り付こうとしてくる。その毛先が顔中に付いた切り傷の創部に潜り込もうとして痛い。顔だけではなく全身の肌が切り刻まれ血が噴き出している。特殊な加工が施されたコートもスーツも、全てズタズタだ。
武器を持つ手も、もう殆ど素の手の平や指が露出してしまっている。身に着けていた黒革の手袋は、奴が指を絡ませようとした前足の───器用に拳をこじ開けてきた、巨大な猛禽の爪と皮膚の装甲が成された先端の鋭さによって引き裂かれてしまった。
しかしそれでも、そのまま指をへし折られ、引き千切られずに済んだだけマシと言える。
戦況は最悪だ。しかしながら香も矢も、弾かれる事無く効き続けてはくれている。
───奴の首筋には、矢が刺さったままだ。
奴の首筋には今や俺の背を遥か超えた高さにある。腕や爪先を伸ばしても届きはしないし、そもそも奴はそんな動作を悠長に待ってくれる程心優しくは無い。
首筋には矢が刺さっている。ぎらぎらと輝く被毛や鱗が生えた今でもそれは分かる。
剣山かうず高く積まれた刃物の山かの様にぎらつく鱗が、そこだけは嵩が減り、地肌が見えんばかりとなっていた。
最初は本来の姿に戻った事で回復力が増し、傷口から矢を押し出している途中なのかと思ったが、そうではない。
あの矢のある周辺だけ、被毛や鱗が溶け、密集出来なくなっている。
だから、全くの不利という訳でも無い。
矢を傷口に押し込む───奴の肉に深々と矢を突き立ててやる事が出来れば、勝機は有る。
───『できれば』の話だが。
その第一歩が、本来の力よりだいぶん弱らされた今のこいつに未だにやれていないというのが問題だ。
分かりやすい目標があり、出来そうなのに叶わぬとは。それは気を焦らせるには十分だった。
髪が全て蛇になれ、と思いながら仕事をしている時がある。
それなりに難しそうな案件に、普段の感覚とは違う物も見えてくれ、という願いを込めて、またある時は全容が見えぬ、もしくは恐ろし気な相手が関わっている、目の当たりにしているという時に『お前なんかこわかあないぞ』と威嚇の意で行う。他愛無い、願掛けやら暗示みたいなもんだ。
───ならば、今この場では。
俺のこの身体を、大蛇へと変え絡み付きたい。全身の動きを封じた上で急所へと尾や胴体を回しきつく締め上げ、背骨や肋を砕いて絞め殺せたなら。
それが叶わぬというならこの髪の一本でもいい、靡く髪、奴に向く先端の一本一本が毒持つ小蛇に変わり、噛み付いてはくれないだろうか。手足の一本でも、それでも叶わぬならば小指の一本、神経の一本でも構わない、痺れ腐らせ動きを鈍らせてくれないだろうか。
毒が回りほんの少し隙が生まれてくれたらいい。
後は全て、俺がやるから。
今この場で靡く髪、刀やナイフを打ち付け、弾を撃とうと動く度にばらける黒い束。
それが視界に入る度に、そう思わずにはいられない。
腐れ。
全て黒ずんで、腐り落ちてしまえ。
───逃がさない、絶対に逃がさない。
逃がしてしまったらどうなるかなんて、火を見るよりも明らかだ。
だから、させない。
こちらに迫る奴の嘲笑う声に被せる様に、俺も吼えた。吼えて奴の身体に刀を何度も叩き付けた。日本刀の長い刀身が奴の鱗に弾かれ、かち合い火花を散らしながら手を離れ遠くに飛んでいく。急遽ナイフを取り出し構えた。そしてまた、同じ事を繰り返した。
けれどもやがて、そんなやり返し、繰り返す手も尽きて。
山間の地面、飛散した血の痕の中に、俺は倒れ伏していた。
上半身を覆う奴の前足は、猛禽の形をしている。こちらに近付ける鼻面からは、へらへらとした笑いが抜けてはない。今まで手を抜いてやっていたが、もうそろそろいい加減良いだろう、といった具合だ。手を掛けさせやがってというが、全くそうは思っちゃいない───それが分かる口ぶりだった。
猛禽の手は俺の胸を潰さない。まだ何も潰しちゃいないが、逃す隙を与えるのを許してくれもしない。胸だけで無く上腕も捉えられ、逃れるどころか何か道具を使おうとするのもままならない状態だ。
こちらの考えが伝わりでもしたのだろうか。ニシカは嗤った。
笑みを深くし、ぎらぎらと数多の刃を研ぎ合わせる様な声を立て、俺の姿を見下ろし嘲笑っていた。
奴が嗤いながらわざとらしく天を仰いでみせた。俺の挙動など眼中に無く上を向き、首筋を伸ばし、見上げる事しか出来ない俺に見せつけてきた。鼻面は天に伸び、視線もそちらに向いている。
そしてしばらくの後、わざとらしく緩慢に前に向き直り、そして眼下の俺に再度全てを向けた。散々鬱陶しく手を焼かせた相手が地に伏し、文字通り『手の中』にあるのはよほど嬉しいのだろう。視線からでも喜びが滲み出ていた。
肺腑はまだ潰されちゃいない。それでも心身に掛けられる圧で、満足に息をするのも許されてもいない。
鼻面が迫る。嗤いを浮かべた口が開き、開かれた大口からは長らく上下の歯を接着していた涎が牙の先端から糸を引き、ついに待ち望んでいた『この時』がようやく訪れるのを喜んでいた。
昼下がりの陽光が奴の鱗に照り返し、俺の眼を焼いた。
ぎらぎらとした声は硬質な質感を持ち、夏の熱を反射していた。
目の前の熱に、夏を彩る極彩色の輝きに、迫り来る牙に、全感覚が痺れさせられてしまっていた。数秒先に飛び散るであろう鮮烈な赤が、既に眼の中に宿っていた。
だからだろうか。
───意識外から来たものに気付くのが、遅れてしまったのは。
数秒先に飛び散る鮮烈な赤は、流体の曲線は、灰白色の硬質な欠片となって今、目の前を飛んでいる。
どうして、だの、何でここに、だのと口から発せられる前に、意識は眼前の欠片に吸い付いていた。
手首だ。今しがた吹き飛ばされたのは、ニシカの鼻面と俺の間に割り込んだ右手だ。
カズトだ。
ニシカを留める結界の力を強める為に山の出入口に居てくれ───俺はそう命じた。その筈だ。そう頼んだ筈のカズトが今、目の前に居る。
目の前で俺を庇い、手首を吹き飛ばされた。
飛ばされた手首の方にニシカは首を伸ばした。そして薬指に噛り付き、砕いてしまった。ガリガリと磨り潰す硬質で耳障りな音を響かせながら、ニシカは俺を押さえていない方の前足で、カズトの身体を横に払い除けた。
───転がってろ、
何の妨害だとも思っていない、心底楽しそうな嘲り声。砕けた身体をじっくりと見回し、愚か者が来たぞと歪む瞳。硬質で耳障りな音を響かせ続ける口元。咀嚼する口元から時折覗く、透明な牙。
睥睨獣というのは様々な姿形をしている。
獣としての特徴を持ち、育ちきったら超大型の猛獣になるのはまあそうだけれども、細かな特徴については一定しない。先祖であるらしい龍に似たもの、獅子に似たもの、蜥蜴に似たもの、古代魚に似たものと、現存している数少ない記録を含めてもざっとこんなもんだ。
卵の形も様々で、恐竜の卵もかくやと思わせる程の強度ある殻で覆われたものもあれば、「これは本当に睥睨獣についての記述なのだろうか」と困惑させて来る様な、魚卵や蛙の卵に近い非常に小さく柔らかいものもある。
しかしそのどれもが、金剛石にも似た透明な歯牙を持つのだけは共通している。
金剛石の歯はこの世のありとあらゆる物を噛み砕く。
髪の毛も、水晶も、頭蓋も内臓も。丹精と執心込めて手入れをした名刀も。
数多の悲しみも過去も。与えられた祝福も、長年の因縁も、最期に抱くであろう悔悟の念も。
ましてや俺の甘っちょろい信念や、俺を守ろうと動くあいつの石の身体など、言うに及ばず。
転がるカズトに視線を合わせる為に、俺を見下ろすニシカの姿勢が屈む様な下向きになった。意識が逸れ、首筋がこちらに向いた。
夏の熱を持つ金色が、眼を刺した。
自分の口が大きく開いて何かを発している。しかし何も聞こえない。
───大きく息を吐き出している感覚だけを、身体の内で感じて。
目の前にある物だけが、夏の熱だけが、俺の感覚に触れ続けている。
一瞬だった。
一瞬で俺はニシカの足元から抜け出し、奴の首筋に刺さる矢を引き抜いた。
油断していたのだろう、解放された事への喜びよりも先に把握しきれず、何が起こったのか知ろうとこちらに振り向き直した奴の右眼に、俺は鏃を思い切り捻じ込んだ。
何の力も持たない自分が憎い。
泣き叫ぶだけしか出来ずにあいつを喜ばせるだけの自分が情けない。
事態を解決出来るかもしれない案を、逃げ道を、何も思いつかない自分が悔しい。
奴の目玉が半透明な膜で包まれる。しかしそれはすぐに黒く溶け、眼球を包み切る前に柔らかな部分を露わにさせた。
だから。
───だから、俺は。
ナイフを数本取り出し、一度に突き刺す。肉やらを突き刺した時の抵抗が、柄から手の平に伝って揺さぶる。血が飛び散る。飛び散り、俺の顔を汚す。膜がまた覆さる。溶ける。修復が追い付かない。
効いている。
持ち直しての刺突。指を動かすのもうまくはいかない。全身がずれたような感覚があり、揺さぶられるままになっている。ニシカの足下に押さえつけられた時に、何処か外れたり折れたりしたのかもしれない。
しかし今の俺には、そんな事は関係無かった。
金属が軋む様な声を上げて、ニシカが俺を鼻面で横薙ぎに投げた。投げられた先には奴の鱗に当たり飛ばされた俺の刀があった。
何か大声を上げてわめいていようが全身が軋もうが関係無い。
聞こえないし痛みもしない。
だから、問題は無い。
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