不穏な訪れ。問いに応えるものは居らず。
───色々と立て込んでてな。ごめん、デートはまた今度な。
そんな電話をもらったのはいつだっただろうか。
いつもどおりの口振りと、少しおどけた調子が混ざる声からは、隠しきれない焦りや疲れが滲み出ていて。
忙しいことはよく分かった。同時に、大まかにでもどういう捜査なのかと明かせない辺り、相当立て込んでいるというのは本当だろうな、と、そこまでこちらに伝わった。
つまり、肝心の内容については何一つ分かっちゃいないということだ。
それでもやっと終わってくれたのだから、解決出来ない、もしくは一区切りすら出来ないほどの案件ではなかったのだろう。
それにしても、来たのなら堂々こちらに顔を見せればいいのに。
鍵は持っているのだから開けてもらうのを待つ必要はない───鍵は持っている。わたしが渡した───もう中に入ってしまっているのだから、なくした云々でもない。
鍵は、わたしが渡した。
何か月か前、あの子が自分の住まう場所の鍵をくれたのだ。
「俺が留守でも、好きな時に部屋に入っていいぞ」
───あなたが居ないのに部屋に入って何するってのよ。
「まさか、あなたの留守に料理とか掃除とかしておけっていうんじゃないでしょうね」
そう問うと、まさか、と笑いながら、軽く思案してこう言ったんだったわね。
「疲れる事、やりたくない事はしなくていい。何となく近くまで来た時があれば、店の開く時間まで寝たり、部屋の中にある物自由に食べたり、そういう感じだよ」
自分がそうしている現場を想像する───今度はこちらが、しばし考える番だった。
「……あなたそれ、捨て猫に寝床作ってあげるのと同じ感じで考えてない?」
思わず忍び笑いが漏れた。
やっぱりこの子は、稚気に満ちている。
ちがうぞ、そんなわけないだろう、という六連を同じでしょうと押し止め、その時はそこで終わった。
後日、わたしは彼に自宅の鍵を手渡した。
なぜ、まさかくれるだなんて、と言いたげに鍵にしばし視線をやった後、こちらをじっと見つめる視線は、何とも間が抜けていた。
「あんなに熱弁するのなら『家主が留守の家での過ごし方』のお手本を示してごらんなさいな」
いいのか?と尋ねる六連をまた制し、こう伝えた。
こちらの言い分をひととおり聞くと、そうしてみるよ、と六連は静かになった。それは納得したというより、どうにも分からんなあ、と思いながらも、とりあえずやってみるか、とゆるゆると決意し、そこを隠しもしない喜色でうっすらと包んでいる、といった具合だった。
とまあ、色々とはっきりとしないまま、とりあえずこうして話は丸く収まったのだ。
そうは言っても彼は何ともお行儀がよく、無断で家に来るなんてことはなかった。
鍵を受け取りこそすれ、家主が居ない状態で好き勝手するつもりはない、ただし相手が自分の留守中に勝手するのは構わない───そういう考えらしい。
二度ほど、帰ったら呼んでもいないはずなのに家に居たなんてことはあったけれど、それは直前の連絡で「どうやら榮美里は仕事づくめで疲れているらしいぞ」と判断したらしい脈絡があるもので、おまけに部屋に帰ると食事やお風呂の用意が出来ているという至れり尽くせり具合だったので、正直全く悪感情はない。
忙しいのはあなたも同じ、いいえ、わたしよりもっともっと忙しいだろうに。自分が休める自由な時にこちらに手を回してくれた。
やっぱり、子供っぽい。
はぐれて居場所が無いものに居場所を作ってあげる。暖かく居心地のよい環境を整える。整えるついでに自分の色を残し、もしくはお前はこちらの領域内に居るのだとそれとなく示し、自分の要素に染め上げ、それを加護を与えたと見做す。
───そんな思い上がりが幼稚なのよ。
そんな冷笑を浮かべている間にも、気配は強くなってゆく。
けれども、姿は見せない。どこかに潜んででもいるのか、まるで分からないままだ。
まさか、本当に鬼ごっこやかくれんぼを仕掛けようとしてるんじゃないでしょうね。
まったく、と何度目かの言葉を口にするのはやめて、ひとまずコーヒーをもう一口飲むことにした。
これ飲んだら、この家のどこかに居るあの子を探そう。探してふざけたことばかりするのはやめなさいと言ってやらなきゃ。
空になったカップに再度粉とお湯を入れる。温かな湯気と周囲に広がるコーヒーの香り。
ふう、とため息を付きながらカップに口を付ける。
瞬間、気配が真後ろに移った。
つ、とまるで唐突に現れたような気配は椅子に座った私の後ろに立ち、顔を寄せる。
絡み付いた腕も微かな動きに揺れる髪も、確かに感じた。
なあんだ、こんなことがしたいがために、わざわざ隠れたりしたのね。
─────────
腕をわたしの身体に回しながら、あの子はささやいた。なあに、聞き取れなかったわ、と振り返ると───
あの子の姿は、どこにもなかった。
気のせいじゃない。今しがた、ほんの数秒前まで後ろに居た。
けれど今は居ない。けれど、気配は感じる。
どこにいるの、と言いながら立ち上がった。
部屋を探す。ベッドの中も下も、クローゼットの中も、お手洗いも、お風呂場も、あの大きな身体を隠せそうな所は完全に探した。
それでも、姿はない。
これはどうやら本格的にかくれんぼをするつもりなのだと、そう思った。
あんなに大きな図体を折り畳んで、それでも気配だけはそれとなく漂わせて。
まったく、からかうのが上手い子だ。
「どこに居るの。気持ちの悪いイタズラするのやめなさい」
なんにもおもしろくないわよ、とそう言いながら電話を掛ける。
繋がらない。数コール分だけの間の後、切れてしまう。
探しながら、また掛ける。
まったく本当に隠れるのが上手い。電話の音を切り、受信中の振動までオフにして、どこに居るか分からないように、完全に隠れてしまうなんて。
───どうして出ないのよ。
何度も掛ける。通じない。夕闇の迫る部屋。どこを探しても、見当たらない。それでも、気配はする。
リダイアルする手順さえもどかしい。
あなた一体どこに居るのよ、と何度目かの呟きと共に、さっき何を言われたのかを思い出した。
後ろに立つ気配。腕を巻き付け、かすかになびく髪。
記憶の果てから、静かな静かな声が響く。
彼は、こう言ったのだ。
───ごめんな、しばらく会えないよ。
リダイアルのボタンを押す。何度も押す。繋がらない。それでも、気配だけはする。
言葉の意味なんて分からない。だからこそ聞かなくちゃいけない。
聞かなきゃ。どこかに居る、わたしのすぐ傍に居るだろう、あの子に。
早く、早く。そうしなきゃきっと───
ねえあなた、どこに居るの?
どこにいるの。
───六連。
着信音が鳴った。意識外からのけたたましい音量に、思わず機体を手から落としそうになり、慌ててキャッチする。ディスプレイの表示は───メノウだ。あの子じゃない。
メノウ───『九十九 メノウ』はあの子の後輩だ。連絡先をお互い控えこそすれ、わたしの方に直接連絡を寄こすなんて、今までにはなかったことだ。
電話口のメノウは、ひどく慌てていた。
榮美里さん、六連さんが、六連さんが───
思わず前に視線を向ける。
夕闇広がる部屋。家中に漂っていたあの子の気配は、きれいさっぱり消え去っていた。
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