――穿界迷宮『YGGDRASILL』、接続枝界『黄泉比良坂』――
――第『
興味を持った対象に対し、蒐集、研究、追及のリソースを費やすことを厭わない。自身が興味を持ったか否かで判断し、世間の価値はあまり重視しない。凝り性で、世間では「どっちも同じじゃん」と言われる、小さな違いに異常に拘る。
そんな健太にとって『
『
俗に『
そういう時、同じ倶楽部の仲間だけに伝わるよう、符丁を残すのに使われるのが『落書き』だ。「この先は行き止まり」「耐熱装備必須領域」「逃がした、すまん」などといった情報を、同じ倶楽部の人間だけに見えるように床や壁に書き込めば、ライバルに読まれず別行動中の仲間に情報を伝えることができる。
だが、『落書き』には、もう一つ別な使い道がある。『落書き』には人体に意味のある文字を書き込むことで、書き込まれた人間の行動を制限したり、書き込まれた人間に対する行動を制限したりできるのだ。
通常の『文官』の『落書き』は、自分より格下にしか通用しないスキルだ。原作では主に質の悪い倶楽部の男子が、気に入った女子の体に『○○専用便女』などと書き込み、他の倶楽部の男に手出しさせないために使われていた。
書き込まれた女子は、その○○に相当する(通常は倶楽部名、もしくは個人名が入る)人間以外とは、セックスが出来なくなる(ただし、書き込んだ男子よりレベルの高い者には通用しない)。
同時に『落書き』は、書き込まれた女子の体や精神にも影響を及ぼす。書き込まれた女子は、倶楽部の便女――性欲処理女であることを自然と受け取る精神と体に、徐々に変化していくのだ。
こうした原作の描写を思い出した健太は、『落書き』というスキルの可能性が相当深いと感じていた。文字という形で、対象に影響を及ぼす事が可能なのだら、これは一種の文字魔術だ。率直に言って、女を墜とすためだけに使うのはもったいない。
とはいえ、普通の『文官』の場合、その可能性を探るのが難しい。『文官』の能力は、ダンジョンダイブを補助する便利スキルに特化している。『落書き』を魔術の一種としてとらえるには、魔力に対する知覚力、理解力、操作力が求められる。残念ながら、これらを有しているのは『文官』ではなく、『術士』である。
そして、健太は例外的に『文官』であると同時に『術士』でもあった。
「よし、やるか。ジュゲム、ボンド。見張ってろ」
「ギイ」
「バウ!」
召喚モンスターである、ゴブリン
「時間は、ひとまず三十分としておくか」
さらに、健太は『
趣味に没頭すると時間を忘れるという、オタクには多い悪癖を健太も多分に漏れず有している。だから、こうすることで万が一にも『
玄室の床の上で胡坐をかいた健太は、本日の探索でドロップしたゴブリン装備のいつくかを床に並べ、『
ひとまず、健太はドロップしたゴブリン小剣の刀身に、ペンで文字を書き込む。
今、健太が書き込んでいるのは、いわゆる梵字だ。仏教の仏を意味する特殊文字である。その中でも、『ウーン』と発音するその梵字は『
それでも、『脳外記憶領域』の画像と照らし合わせ、健太は慎重にゴブリン小剣の刀身にペンを走らせる。やっていることは、普通の『文官』がやる『落書き』と変わらない。違いは、そのペンから滲む魔力の量だ。
通常『文官』は、『落書き』の文字に込める魔力量を増減させることはない。それを行うには、高い『魔力操作能力』が求められるのに、『文官』という
だが、健太はその例外だ。職を重ねることができる健太は、『文官』であると同時に『術士』でもある。だから、通常よりも遥かに多い魔力量を注ぎ込み、ゴブリン小剣の刀身に『落書き』を書き込む。
「よし、成功だ」
健太が、その文字を最後まで書き込み終えた次の瞬間、ゴブリン小剣は赤い炎を纏う。
その烏枢沙摩明王を意味する『ウーン』の梵字。仏教の烏枢沙摩明王は、インド神話の火神アグニが仏教に取り入れられた神格とされている。だから、炎のエンチャントとして働くのだろう。
ちなみに、火神アグニに相当する仏教の神格はもう一柱存在し、そのものズバリ『火天』と言うのだが、今のところこちらの梵字である『ア』の文字では一度も成功していない。なにが違うのか、特別な法則があるのか。これまでに行った実験結果は全て、『
こうして定期的に、『落書き』の可能性を追求している健太だったが、その進捗はあまり順調とは言えない。
ある意味で最大の成果と言えるのは、『
だから、今健太がやっているような『落書き』による『文字魔術』の可能性の探求を本格的にやるならば、まずは何をさておいても『文字魔術士』に転職するべきなのだが、問題は『文字魔術士』は第二段階職であるということだ。『
それに、実用性とは相反する話なのだが、元々文字魔術の研究は趣味として始めたことだ。そのため、自力で解明するのではなく、『文字魔術士』の
どちらにせよ、今は『
「次は、こっちも復習しておくか」
健太はそう言うと、ゴブリン手斧を取り出し、その刃の部分にペンを走らせる。
こちらも梵字で、読み方は『イー』。仏教における帝釈天を意味する梵字だ。帝釈天はインド神話における雷神インドラだ。
当然のように、無事『イー』の梵字を書き終えたゴブリン手斧は、バチバチと帯電状態となる。
「こっちも成功。使い道はともかく、文字で魔法現象を起こせることが実証できたのは大きい」
健太は、そう自分に言い聞かせるようにつぶやく。その言葉通り、現状この梵字をそのまま生かすのは難しい。なにせ、書き終えるまでは一切発動せず、描き終えた瞬間発動するのだ。しかも、見れば分かるが、『ウーン』と刻んだ小剣も、『イー』と刻んだ手斧も、刀身も持ち手も区別なく全体が発火、帯電している。試しに健太が手を触れてみるが、しっかりと軽い火傷を負った。残念ながら、「術者には無効」という特性はないようだ。
このままでは、実用性は低いと言わざるを得ないだろう。
「今のところ、成功例は四つ全て梵字か。俺個人の資質の問題か、それとも梵字という存在が魔法文字として優秀なのか」
後日『脳外記憶領域』で見返すため、健太は意図的に思い付きは全て独り言として口に出しながら、作業するようにしている。『脳外記憶領域』は第六感やその時の心情まで再生可能なため、「心の声」でも思い返すことは出来るのだが、やはりしっかりと声に出しておいた方が、情報としては精度が高い。
「日本語の筆記がそのまま魔法として発動すれば最善なんだがな。せめて英語とか、最悪ラテン古語とかでも良いから、文章の作れる文字でどうにか出来ないだろうか」
梵字では書き終えた瞬間発動してしまうという問題も、一部分だけに発動させることができないという問題も、文章で細かく条件を指定出来る日本語ならば解決する問題だ。「この剣は鞘から抜いた瞬間、刀身に炎を纏う。その炎は剣を持つ者には影響を及ぼさない。鞘に仕舞えば炎は鎮火する」と、細かく条件を書き込んでしまえばよいのだから。
だが、梵字ではそうもいかない。何かほかの手段を探すか、どうすれば日本語や英語での文字表記で、文字魔術として発動するかを研究する必要があるだろう。
他にも、お決まりと言うべきルーン文字もいくつか試しているが、今のところこちらも手ごたえは芳しくない。
現状、健太が文字魔術として発動させることが出来たのは四つの梵字だけだ。
孔雀明王の『マ』は現状、一番実用性のある魔術文字だろう。孔雀明王は、インド神話の女神マハ・マーユーリーであり、毒蛇を食らう孔雀に由来し、毒、苦痛、悪心を取り除く力があるとされている。『ウーン』の梵字の魔法文字にも、そのような効果があると推測される。解毒や浄化の効果ならば、普段から身に着けていても害はないし、いざという時には効果が期待できる。
現状、まだ試したことがないので、推測でしかないが。
ちなみに一番最初に成功したのは、弥勒菩薩の『ユ』の梵字なのだが(例外的に普通の魔力量で適当に描いただけで、一発で発動した)、効果はまったく分からない。弥勒菩薩が司るのは「五十六億七千万年後の救世」。一応、梵字が「効果を発した」という実感はあるのだが、何がどう作用しているのかは、さっぱりである。司っているものが壮大過ぎる。
「梵字への理解を深めるのは、別段ダンジョンじゃなくても出来るからな。今は、梵字と他の文字の組み合わせを試す」
後で見返す様にそう宣言して、健太は次のゴブリン装備を取り出す。ゴブリン小盾、小さな丸盾だ。
その表面にまずは、帝釈天の『イー』の梵字を途中まで書き込む。もちろん、しっかりと魔法文字として発動するだけ魔力量を増強した状態でだ。ただし、描くのは途中まで。『イー』は二つの〇と?のような記号が顔のように並ぶ文字なのだが、あえて〇を一つだけにして未完成の状態にしておく。
そこから、未完成『イー』の梵字を囲むように、三重の円を描く。そして、円の内側に漢字で文字を書き込む。一つ目の小さな円の内側に『遮断』。一つ目の円ごと取り囲む中くらいの円の中に『絶縁』。それらをまとめて囲む一番大きな円の内側に『防雷』。
その後、慎重に『イー』の梵字に小さな丸を付けたし、梵字を完成させる。
次の瞬間、丸盾の全体から放電現象が始まった。
「……駄目か」
『遮断』、『絶縁』、『防雷』という文字から分かる通り、健太としてはこれらの文字が梵字に影響を与え、放電現象が円の内部でとどまることを期待していたのだ。だが、それらの文字と円が放電現象を防いだ手ごたえは全くなかった。念のため『脳外記憶領域』で今の画像をスロー再生してみたが、やはり何も起きていない。一瞬、円のところで放電の広がりが遅延するような気配すらない。全く、影響を与えていないと結論付けて良いだろう。
もちろん、健太もこんなに簡単に成功するとは思っていなかったので気落ちはしない。今はひたすら、思いつく限りのトライアンドエラーを繰り返すべきだ。思いつくのはいつでも良い。思いついたはしから、『脳外記憶領域』に記録しておけば良い。絶対に無くさない上に、いつでも使えるメモ帳のようなものだ。
と、健太が決意を新たにしたところで、『脳外記憶領域』でけたたましく『目覚まし時計』の音が響き渡る。
「丁度、作業が途切れていたところで、時間が来たのは良かったと思うべきか」
健太は、自分に言い聞かせるようにそう呟く。
(《時間軸逆走、五十分》)
健太は、『
その後、健太は『周回レベル上げ』を十回以上繰り返し、思いつく限りの実験をした。『周回レベル上げ』を繰り返せば事実上時間は無限のため、どうしてもなにか解決の糸口がつかめるまで、と粘ってしまう。
すでに成果の出ている四つ以外の梵字。ルーン文字。日本語表記、英語表記。込める魔力量の増減。異なる文字の組み合わせ等々。
『
「しかし、同じ時間のはずなのに違いがあるのは、興味深いな。よくやったぞ、ジュゲム、ボンド」
「ゴフ」
「バウ」
召喚主の誉め言葉に、二匹の召喚モンスター――ジュゲムと、ボンドは嬉し気な声を上げる。
「ハウ」
「ああ、ありがとう、ボンド」
誇らしげに、今止めを刺したゴブリンキングの魔石を拾ってきたボンドの手から受け取り、健太は淡々と礼の言葉を返す。もし、『
『
同じ時間、同じ場所を繰り返しているはずなのに、たまにこうして玄室に『
現状ジュゲムはこの辺りの『
おかげでボンドも、すでにコボルト
挑戦、という言葉から健太は、もう一つやろうとしていたことがあったのを思い出した。
「そうだな。ちょっと、毛色の違うことも試してみるか」
そう言うと、健太は持ち込んだ袋から、
健太自身、『
元々、健太は自分が『聖堂』で転職をすれば、なるのは『文官』か『職人』だろうと思っているくらいには、『職人』への適性は高いと思っている。少なくとも、『
健太は床に尻を下ろしたまま、片膝を立てて足でゴブリン小剣を踏んで固定し、左手にタガネ、右手に金槌を持って刀身に溝を掘っていく。
『職人』のスキルである『
『戦士』になった者が戦闘の機微をなんとなく理解出来たり、『盗賊』になった者が構造も知らない鍵を感覚だけで開けられたりするのと、本質的には変わらない。ただし、原作でも言われていた通り、『職人』の場合、「どのようなものを作るのか」という発想力、「そのためにはどのような材料をどのように加工するべきなのか」を知っている知識量、「どのように加工すれば、どのような性質を帯びるのか」を予測するセンスは、本人の自力による。
そのため、『職人』には、レベル以上に良い物を作る『職人』や、レベルだけ高くて作るものは大したことのがない『職人』が存在する。原作で叶馬の倶楽部に合流する『
健太も『職人』の適性はそれなりにあると思われるが、流石にそこまでのレベルではない。それでも、こうして剣の刀身に『梵字』を正確に彫り込むくらいのことは出来る。
「……よし」
やがて、完成した帝釈天を意味する『イー』の梵字の彫り物を慎重に確認した健太は、自分で自分の仕事に合格を出した。今の健太は『
続いて健太は、袋から濃い灰色の針金のような物と、長いドライバーのようなものを取り出した。ハンダとはんだごてである。どちらも、元は学園の購買で販売されているものだが、ハンダの方は健太が少し手を加えている。具体的に言えば、一度溶かして平たく板状に引き伸ばしたハンダに、強い魔力を込めた『落書き』を全面に塗りたくり、その後剥がして溶かして、再び針金状に作り替えた代物だ。
はんだごても、購買で販売されている品なので、世間一般のはんだごてとは少し違う。通常のはんだごては電力で先端が過熱するように出来ているか、古いタイプだと先端を火であぶって加熱するように作られているのだが、学園で販売されているはんだごては『職人』のスキルである『
「…………」
健太は、真剣な表情で溶かした特殊ハンダを、小剣の刀身に掘りこんだ溝へと流し込んでいく。やがて、溶けたハンダは綺麗に、彫り込まれた『イー』の梵字を形作る。
「…………」
それが、完全に冷えて固まるのを待ち、健太は最後に細い棒ヤスリを取り出し、僅かにはみ出しているハンダを削り、整える。
「…………完成だ」
出来上がりに満足した健太は、一つ頷きそう呟いた。
小剣に梵字を彫り込み、そこにハンダを溶かし込み、最後にやすりで整える。一連の作業に三十分もかかっていない。これは健太からすると「信じられないくらいに早い」仕事だ。もちろん、蜜柑たちのような学園一流の『職人』に言えば、「気にしないで、これから覚えていけばいいんだから」と慰められるくらいに遅い仕事なのだが。
例えば『
ともあれ、あまり時間がない。健太にとって三十分未満という時間は十分に早いのだが、
早速、健太は今『梵字』を刻んだゴブリン小剣を左手に持ち、立ち上がる。そして、右手の人差し指で特殊ハンダで埋められた梵字に触れると、一気に魔力を流し込む。
次の瞬間、ゴブリン小剣は、青紫色の雷光を纏った。
「ッ! 成功か」
ゴブリン小剣を手放すのが一瞬間に合わなかった健太は、痺れと軽い火傷を負った左手を数度振りながら、そう満足げに言い切った。
実際、これは成功、一歩前進と言っても良い結果だ。魔法文字の梵字を『落書き』のスキルで描くのではなく、『落書き』の混ざったハンダが形作る梵字に、後から魔力を込めることで、魔法文字を発動させることが出来たのだ。
「十分な成果だ」
『