それは、数日前の出来事。
一年辛組の教室で、四時限目終了のチャイムを聞いた来斗は、皆が席を立っていく中一人自席に腰を下ろしたまま、ぼうっと教室内を見ていた。
豊芦原学園の平日は、午前は座学を中心とした講義で、午後はダンジョンダイブを推奨される自由時間となっている。
だから今のように四時限目が終了して昼食に向かう時、自然と集まるグループは大体ダンジョンダイブのためのパーティーだ。
この時間帯に一人でいる人間は、教室外でパーティーを組んでいるか、まだ誰ともパーティーを組めていないかのどちらかである。
来斗はついこの間まで後者であり、今は前者だ。
おかげで今は、こうしてぼうっとクラスメイトの様子を眺めている余裕がある。
(転職もすでに済ませてるしな。しかも戦士系のレア職の『殴打士』)
来斗の知る限り、この教室で一番最初に転職にこぎつけたのは来斗だ。その後も、何度か健太がダンジョンダイブに連れて行ってくれているので、レベルアップも順調である。
今では、健太に連れて行ってもらう『既知外』領域第三層のゴブリンでも、五匹前後なら同時に相手取ってもまず勝てるくらいだ。もちろん、『既知』領域第一階層に出没するゴブリンやコボルトなど全く敵ではない。
教室内で聞こえてくるクラスメイトの会話が全部正しければ、今の自分はこの教室の誰とやっても負けないのではないか、とすら思う。
少なくとも、来斗が今の自分のスペックを声高に主張することが出来れば、今の教室での立ち位置を一変させることは可能だろう。
もちろん、来斗はそれが出来る性格ではない。健太の存在が無ければ、調子乗って暴走していた可能性もあるが、健太の存在を知っている以上、自分程度がイキッた言動を取ればどんなしっぺ返しを食らうかは、簡単に想像ができる。
「あー、今日はどうするかな」
来斗は独り言を漏らしながら、椅子から重い体を持ち上げる。
今の来斗は、ソロでのダイブは事実上不可能になっている。『文官』以外の者は、ダンジョンダイブのポイントを自由に選ぶことは出来ない。自動的に、前回ログアウトした地点が選択される。
今の来斗が同時に相手取れるのは、『既知外』領域第三層のゴブリンの場合五匹が限界。無傷で連戦連勝という条件ならば、三匹でもキツい。
『既知外』領域第三層では、ゴブリンは群れを成している。三匹の群れですら滅多に見つからず、二匹や一匹のゴブリンはいないと思った方が良い。
つまり、来斗が手傷を負わずに倒せる敵はいない。『羅城門』ダンジョンの「死に戻り」は、ドロップ品はもちろんのこと、経験値も記憶も一切合切失われるのだ。生還の目の薄いダンジョンダイブは、有害でしかない。
「あー、でも閉門直前の三分ダイブで、小さめの玄室捜すのは、ワンチャンありかな?」
そんな独り言をつぶやいた後、来斗は自分の変りように苦笑した。
確かにこんな短期間で、変われば変わるものだ。少し前までは、お情けで一度組んでもらった教室内のパーティーは一回で首。その後、『臨時広場』で他教室のあぶれ者同士で臨時パーティーを組んだが、そこでも二度と来斗を仲間にしてくれる者はいなかった。
来斗自身はその全てのダイブで「死に戻り」しているので、実際のところは分からないが、よほど見込みがない動きだったのだろう。当時の自分を思い返せば、正直納得できる来斗である。
そんな来斗が、今では「三分ダイブで、勝てないかもしれない相手に挑む」ことを選択肢としてありと見なしている。
最初は健太が『逃避』で感情を固定したり、転職後は自ら『戦血』のスキルで戦意を補強したりしていたとはいえ、何度も戦闘を経験し、敵を倒して強くなるという成功体験を積めば、ダンジョン戦闘にも適応してくる。
その自信もあいにくと、学園生活の人間関係にはまったく応用できていないため、教室での評価は最底辺から変わっていないが。
(まあ、昼食を終えてから考えるか)
とりあえず、食事だ。今の来斗は一年としては、『銭』に余裕がある方だ。健太の方針が「ダンジョンドロップは原則、均等割り。レア泥は話し合い」のため、週に一、二度程度のダイブでも食費を切り詰める必要がないくらいの収入になる。
来斗がそうして、教室を出ようとしたときのことだった。
「ねえ、あんた、ソロダイブするつもり? それなら、私とダイブしない?」
教室の出入り口を塞ぐように、来斗の前に一人の女子生徒が滑り込んでくる。
「え? あ、ええと……」
途端にどもる来斗は、どこに出しても恥ずかしくない陰キャオタク男子そのものである。間違ってもダンジョンダイブにおけるこの教室のトップランナーには見えない。
事実、その女子も侮った笑いを浮かべながら、来斗に言う。
「来斗、あんたクラスメイトの名前もまだ覚えてないわけ? 実咲だよ」
「あ、いや、うん、ゴメン」
来斗はせわしなく視線を逃がしながら、小さな声でそう答える。
言い訳をすれば、来斗もとっさに名前が出てこないだけで、この女子生徒のことは一応記憶にはある。
この一年辛組女子のリーダー格である伊吹の取り巻きの一人だったと記憶している。アニメだったら、「取り巻きC、もしくはD」とクレジットに表記されるだろう。
アニメのモブ女子キャラがそうであるように、実咲も十分美少女と呼べる容姿をしている。この学園は美女、美少女が平均値だ。
中肉中背で、胸は少し大きめ。強くウェーブのかかったセミロングの髪は銀褐色に染められている。その髪をハイポニーテルに纏め、きつい赤のルージュややたら目を強調するメイクは、高校生としてはかなり強めだが、この学園では特に珍しくもない。
取り巻きの一人「だった」。過去形だ。教室の人間関係に疎い来斗には詳しいことは分からないが、実咲はいつのまにか伊吹のグループから離れて一人で行動するようになっていた。
恐らくは、何かがあって仲たがいしたのだろうが、それを聞けるような人脈は来斗にはない。だからそれ以後、彼女――実咲が教室の内外でソロや少数の男子グループをダンジョンダイブに誘っていることも来斗は知らなかった。その男子が全員「死に戻っって」いることも。
「それじゃ、今日はよろしくね、来斗っ」
「う、うん。大丈夫、お、俺に任せて」
あれから数時間後。来斗と実咲は完全武装で『羅城門』前に来ていた。
あの後、「とりあえず、一緒にお昼食べよ」という実咲の提案に流され、学食で一緒に食事をとりながら話をしているうちに、今日一緒にダイブする約束を取り付けられたのだ。
まあ、典型的陰キャオタクの来斗が女子と一対一で話をして、女子の「お願い」を拒否できる可能性はないに等しい。実咲は学園の女子生徒、つまり世間の基準では普通に美少女なのだから。
「それじゃ、私が中心に立つね。大丈夫、私、まだ一階だから。来斗なら楽勝でしょ」
「うん、も、問題ない、よ」
昼食中、健太は実咲の話術にやられて「自分が第三階層まで行っている」と白状してしまっていた。
流石に、誰とダイブしているとか、そこが『既知外』領域であるとか、すでに転職しているとか、大部分の情報は隠したが、今の時点で第三階層まで進んでいるというだけで、一年としてはトップ層だ。
もちろん、実咲は全く信じていない。それは、来斗をそれだけ舐めているというのも事実だが、これまで誘ってきたソロや少数パーティーの男子も、かなりの確率で同じようなほらを吹いていたからだ。
逆に「俺もまだ第一階層」と言った男子の方が少数派のくらいだ。
来斗は『羅城門』にダイブする順番待ちの列に並びながら、隣に立つ実咲を横目で見る。
この学園に入学して、担任教師の朱里で童貞を卒業し、今はダンジョンダイブの度に二年の烏琉羽との充実したセックスを楽しんでいる来斗だが、女子と二人でダンジョンダイブをするのは初めてである。
なまじ、自分の強さに自信が持て始めていただけに、「良いところを見せよう」と張り切る下心が全く隠せていない。
実咲は、いつも通りの制服姿で背中に小さめのバックパックを背負い、腰に小剣をぶら下げている。小剣は「新入生おすすめセット」のものだ。
「新入生おすすめセット」には、来斗が装備しているようなボディアーマーも入っているのだが、女子は装備を拒否する者が多い。制服自体がある程度の防御力を持った防具であること。ボディアーマーがけっこう重くて、ノービスの女子の体力では動きを阻害されること。実際、装備の有無で「死に戻り」率に大した違いが生じていないこと。そして、見た目が可愛くないことなどが理由としてあげられる。
「新入生おすすめセット」に入っている武器は、小剣、槍、槌矛、片刃斧の四種類だが、最初の時点で一番人気は見た目から小剣が突出する。その後ある程度実戦を経験すると、小剣と槍に二分される。
槍に転ぶ人間が増えるのは、初心者が戦うのには、出来るだけリーチの長い武器が良いと気づくからだ。
リーチの長さが正義と分かっても、リーチの短い小剣が人気を二分しているのは、小剣が一番軽くて、邪魔にならないからだ。
自分で戦うことをあきらめた女子に人気なのである。
実咲の装備はその小剣だ。
寄生する気満々な装備。それなのに、寄生先としては頼りないソロの男子や少数男子をターゲットにしているあたり、多少頭が回れば違和感を覚えるところだろう。もちろん、来斗は何も気づいていない。
「頼りにしてるよ、来斗」
転送直前、そう言って笑う実咲の笑みは、嘲笑と諦観と悲壮感で歪んでいた。
――穿界迷宮『YGGDRASILL』、接続枝界『黄泉比良坂』――
――第『壱』階層、『既知』領域――
「お、来た来た」「ったく、待たせんじゃねえよ」「ほーら坊主、ちゃんと彼女は守ってやろうなあ」
ログインしたポイントは、セオリー通りの通路ではなく玄室で、そこに待ち構えていたのはゴブリンでもコボルトでもなく、数名の上級生男子であった。
だらしなく着崩した制服の上から、一年から見れば上等な(上級生のダンジョン組ならば鼻で笑う)装備を纏った上級生たちは、ニヤニヤと嫌な笑い顔を浮かべている。
上級生のエンジョイ勢による、新人狩り。この時期に発生する、趣味の悪い遊びである。
「ヒッ、来斗、助けて!」
来斗の後ろで、実咲が悲鳴を上げる。よく聞けば、その悲鳴のわざとらしさにも気づけたかもしれない。もちろん、来斗は気が付かない。
来斗と実咲がログインしたのは玄室の奥の方で、待ち構えていた上級生男子達は、玄室の出口を塞ぐように立ちはだかっている。逃亡は不可能だ。自分はもちろん、実咲も。
それを理解した来斗が感じたのは他の感情をすべて塗りつぶすほどの『強い恐怖』だった。
その恐怖に背中をけ飛ばされ、来斗は動き出す。
「《がああ》!」
「お、やる気になった」「意外と立ち直りはええな」「坊主は『戦う』を選んだ」
上級生男子達は、ゲラゲラ笑いながら武器を構える。
エンジョイ勢である彼らは、部長である三年をのぞいて、全員が『遊び人』か『遊び人』系派生の非戦闘職の第二段階職である。
しかし、非戦闘職であってもレベルが上がれば身体能力は向上する。この時期のノービスの一年などただのオモチャだ。
彼らに緊張感がないのも当然と言えば当然であった。
「《うおお》!」
だから、悲壮な顔で突っ込んでくる来斗を、何の危機感もなくわざわざ正面から迎え撃った。
その結果に集約した理由は、いくつかある。
まず第一に来斗の『殴打士』という職は、移動速度に大きなマイナスが付く代わりに、攻撃力は戦士系第二段階職に匹敵するという、攻撃力強化型の職であること。
来斗の武器が健太から譲ってもらった、ゴブリンキングからのドロップ品を改良した、『両手持ちの金砕棒』という『無銘』のマジックアイテムであったこと。
その強力な『強撃』で、最初に唯一の第二段階戦闘職の部長を一撃死させることに成功したこと。
その後、上級生たちが動揺している間に、滅茶苦茶に振りまわす金砕棒でもう二人ばかり、戦闘不能とすることに成功したこと。
「痛てえ! くそ!」
「やべえ、こいつ、やべえ! 引くぞ!」
鈍足中の鈍足である『殴打士』の来斗は、非戦闘系であっても移動速度では敵わない。
結果、エンジョイ勢倶楽部の上級生男子六人VS来斗の戦闘結果は、上級生男子四名が死亡、二名が重症を負っての逃亡。
対する来斗は傷は深いが、実咲は無傷という、誰がどっからどう見ても来斗の勝利に収束したのだった。
「はあ、はあ、はあ!」
まだ『戦血』の影響で戦意を滾らせている来斗の小太りな背中を、実咲はペッタリと玄室の床に尻を下ろしたまま、茫然と見上げていた。
「来斗……マジ、強かったんだ」
全く予想外の出来事に、実咲はろくに頭が働かない。だが、心は歓喜と恐怖と焦燥感に駆られている。
言うまでもないが、実咲は今来斗が撃退した上級生男子達とグルである。
とはいっても、喜んで参加しているわけではもちろんない。ダンジョンダイブ中に彼らに捕まり、輪姦されて、快楽漬けにされて、服従を強いられたのだ。
実咲の身に起きたその事実を正確に知る者は教室内にはいなかったが、同じ女子ならば実咲の様子がおかしくなったことはすぐに気が付く。そして、寮の先輩から、この学園で注意すべき点について聞き出している女子ならば、すぐに実咲の身に何が起きたのか、察することができる。
その結果、実咲は女子のグループから切り捨てられた。
非情と言えば非情だが、間違った判断ではない。
今の実咲を見れば分かる通り、上級生男子に捕まった女子は、自力ではそこから抜け出せない。そして、自分を犯し続ける上級生男子に逆らうこともできない。言われるがままに振る舞う奴隷だ。
そんな女子がグループ内にいれば、そう遠くない未来、グループの女子全員がその上級生男子のオモチャになってしまう。
その危機感は、間違いなく正しいだろう。
それで切り捨てられた実咲が納得できるかは、また別の問題だが。
そうして、泡沫エンジョイ倶楽部(通称同好会)のオモチャ、性奴隷となった実咲はその後、彼らの命令で一年男子をダンジョンダイブに誘い、彼らが待ち受けるポイントに誘導していった。
女子に頼られてやる気を出している一年男子を嬲り者にして、目の前でその女子――実咲を犯すという、趣味の悪い遊びだ。
もちろん、噂が広がると後がやりづらくなるので、十分に楽しんだ後で男子はちゃんと殺す。「死に戻り」させれば、ダンジョン内での記憶は綺麗さっぱりなくなる。
自分を捕まえた上級生男子が、たとえ札付きであっても有力倶楽部だったならばまだデメリットだけではなく、メリットもあったのだろうが、あいにくと実咲を捕まえたのは、部室もない泡沫Fランク倶楽部だった。
そんな学園カーストの底辺集団に入学早々捕まり、逆らえなくなっているという事実。
実咲が心を殺すのも、当然と言える境遇だ。
この学園で普通科の女子が、少しでも良い学園生活を送るためには初動が極めて重要になる。
最初から男子に依存して生きる道を選んだのならば、一刻も早く「出来るだけましな男子」を見極めてその懐に飛び込む必要があるし、自力でのダンジョン攻略を目指すのならば、男子に目を付けられる前に転職するくらいのスタートダッシュが求められる。
その初動における最大の障害が、上級生男子による『新人狩り』だ。ノービスの一年にとっては、エンジョイ勢であっても上級生は太刀打ち不可能である。
Fランクのエンジョイ勢倶楽部に捕まるという、最悪の初動。そこから今の状況は、奇跡としか言いようがない。
その事実がやっと理解できた実咲は、全身を震わせるほどの歓喜に襲われた。当然だろう。教室の女子からも距離を置かれ、寮の先輩に相談しても気の毒そうな顔をされて、遠回しに「諦めな」としか言ってもらえない状況が一瞬で激変したのだから。
だが、その次の瞬間、実咲を襲ったのは歓喜を打ち消すほどの恐怖だ。
自分が、来斗を欺いてこの場に引き込んだという事実を思い出したからだ。自分ではどうあがいてもその中の一人にすら抗えなかった上級生男子六人に、実は一人で勝利できた来斗を(実際の実力はそこまでではない)騙していた。
しかも戦闘中、彼らは何度も「実咲、後ろから襲え」「実咲、邪魔しろ」「ぼうっとしてんじゃあねえ、実咲」などと悪態じみた指示を飛ばしていたのだ(実咲は驚きと恐怖で腰を抜かしていたので、結果としてその指示には一切従えなかった)。
あれで「実は実咲もグルだった」と分からないのは、よほどの馬鹿か、聴覚に問題があるかだ。
(ど、どうしよう。あいつらから逃げられるチャンスは多分ここしかない。でも、どうやって、何て言えば……)
状況が理解できた実咲は、焦燥感にかられる。
奇跡的に訪れた、最悪の現状を一変させうる救いの手。だが、自分はその救いの手の持ち主を裏切っている。
「あ、あの、ありが……いや、ご、ごめ……」
まるきり昼食時の来斗と入れ替わったかのように、言葉にならない意味不明な音を口から漏らす実咲に、応急手当セットで止血を済ませた来斗は血走った眼を向ける。
「ひっ!」
全身血塗れで血走った眼をしていれば、鍛えていない小太りな体格と俯きがちな丸顔で侮られることばかりの来斗でも、流石に結構な迫力がある。
殺される、犯される、嬲られる。この学園ではどれも実現しておかしくない想像に実咲が膀胱を緩めかけていると、来斗は意外といつも通りの口調で尋ねる。
「実咲、怪我は?」
「え? 私? 怪我はない、けど」
ほとんど脳を介せず、反射的に答えた実咲の答えを聞いた来斗は、血走った目のままで告げる。
「じゃ移動しよう。ダンジョンでは一か所に留まるのは厳禁だから」
『天敵者』の怖さを授業だけでなく、健太からもみっちり言い聞かされている来斗は、その場を移動しようとする。
「あ、うん。あ。あれ?」
来斗に言われて立ち上がろうとした実咲だったが、足が思うように動かない。単純に、腰を抜かしているのだ。
「実咲」
「ッ! ……あ。う、うん」
頭上から無造作に差し出された来斗の手に、実咲は反射的に目を瞑って身を縮めるが、恐る恐る目を開いてもその手は、差し出されたままだ。
単に、立ち上がるのを手伝ってくれようとしているのだと理解した実咲は、おずおずとその手を掴む。
来斗の手は、黒い革製の指なし手袋に包まれている。
いかにもな小太りオタクの来斗が指なし革手袋を装備している様は学園外ならば嘲笑の的かもしれないが、重量のある武器を振りまわす来斗にとってはれっきとした実用品である。
恐る恐る実咲がその手を握ると、来斗は片腕で軽々と引き上げてくれた。
『既知』領域第一階層に出没するのは、レベル1のコボルトとゴブリンのみである。しかも、一つの玄室ごとに一匹しかいない。
それは、今の来斗にとっては、瞬殺する以外の結果が出ない相手だった。たとえ、来斗が結構な重傷を負っているとしても。
「はっ」
「ヒギッ!」
最初から逃げ腰なゴブリンの頭部を、来斗は両手持ちの金砕棒で粉砕した。
「はあ、はあ、はあ……」
瘴気に返ったゴブリンが残す小さなクリスタルを拾う余裕もなく、来斗は金砕棒を杖代わりにして荒い息をつく。
「大丈夫、来斗?」
すっかり殊勝になった実咲が後ろから恐る恐る声をかけるが、来斗はそれに言葉を返さない。
ただ、荒い息をつきながら、首を横に振る。事実、今の来斗は全く大丈夫ではなかった。
原因は、新人狩りを撃退したときに負った傷である。
あれから来斗と実咲はずっと『既知』領域第一階層を移動し続けていた。
『既知』第一階層は掃除が進みすぎていて、モンスターがいる玄室の方が少ない。来斗たちも、先ほどのゴブリンが本日相対した二匹目だ。それ以外は空の玄室で三十分ほど休息し、次の玄室を目指して移動するというのを繰り返している。幸いだったのは、他のパーティーと鉢合わせることがなかったことだろう。
上級生倶楽部による『新人狩り』とは次元が違うが、この時期の一年の死因第二位は鉢合わせた一年パーティー同士の殺し合いだ。
体調が万全な来斗であればともかく、今の来斗では第一階層をうろついている一年パーティーでも、数でかかってこられると危ない。
奇跡的に新人狩り倶楽部に勝利した来斗だったが、その時負った傷は深かった。即座に戦闘不能になる程のものではなかったが、救急セットの止血剤と包帯では出血を完全には止められなかった。
来斗が日頃からお世話になっている『戦血』というスキルには戦意向上だけでなく、ある程度の止血効果もある。そのため、普段は戦闘時にしか使わない『戦血』を切れるたびに使い続けることで止血をさせているが、それでもジワジワと包帯を血で湿らせる程度には出血が続いている。
流石にそろそろ限界が近い。
「はあ、はあ、はあ……」
『戦血』が利いている来斗に、いまさら戦闘に対する恐怖はない。だが、そんな来斗でも怖いものはある。それは、健太の存在だ。
自分が強くなっても全く追いつける気がしない健太に対する純粋なる恐怖と、健太に見切りを付けられたら自分の学園生活が詰むという恐怖。
その健太由来の二重の恐怖が、今の来斗を強く縛っている。
健太は来斗が自分の倶楽部に内定を決めた後、伝えている。
「この学園は滅茶苦茶ヤバい先輩達がいるから、自分のパートナーや倶楽部の非戦闘員は出来るだけ守ろう。俺たちが勝てなくて、結果彼女たちがヤられるのはしかたがないけど、勝てないから見捨てるのは駄目だ。かえってこっちの被害も大きくなる」
これを言った時の健太は、当然『戦士の不動心』がオンになっている。
自分より強い者に歯向かう恐怖心を無視すれば、その結論は正しい。
ちょっと脅せば素直に何でも差し出す奴など、良心や倫理観の薄いチンピラからすれば「ただのカモ」だ。そう気づかれたら骨までしゃぶられる。
だったら、最初にちょっと(もしくは物凄く)痛い目にあっても、出来うる限り最大の抵抗を続けることで「こいつウゼエ」と思われた方が、最終的には被害は少なくて済む。言葉は悪いがこの学園には「もっと面倒のない獲物」が沢山いるのだから。
残念ながら、この学園にはその手のチンピラ倶楽部はかなりの数、存在している。今回、実咲に付きまとっていた連中がまさにその典型だ。そして、そんなチンピラ倶楽部の中でも最底辺に近い小物である。
健太のそんな言葉を思い出した来斗は、全力で実咲を護り、奇跡的に新人狩り倶楽部を撃退したのだ。
ちなみに健太が言っているのはあくまで「自分のパートナーか倶楽部の非戦闘員女子部員」の話であり、この時点の実咲はその条件に当てはまらない。
(実咲にとっては)幸運にも、来斗はそんな勘違いのもと、文字通り体と命を張って実咲を守り続けていた。
だが、恐怖に基づく根性も、出血多量による「死に戻り」を多少遅らせることは出来でも、限界は訪れる。
「あ……」
声というより音を伴う吐息を残し、来斗の小太りな体は玄室から消失した。死ぬ前に奪われたり、失ったりしていない限り装備も一緒に「死に戻り」だ。
一人残された実咲は、しばし先ほどまで来斗が蹲っていた場所を見ていたが、しばらくしてどうにか頭が回り出す。
「……これ、めっちゃチャンスじゃん」
思わず、実咲の口からそんな言葉が漏れる。少々不謹慎だが、その言葉は紛れもない事実であった。
クラスでハブられて馬鹿にされている来斗が、実は強かった。恐らくだが、現時点で教室の女子は誰もその事実を知らない。知られていれば、誰かがアクションを起こしている。
しかも、強いだけではなく、その力で女子を護ろうという気構えがある。
誰にも気づかれていない強者男子。つまり、『倍率一倍の超絶有望男子』だ。
そして、運がいいと言っては流石に罪悪感があるが、その来斗が「死に戻った」ということは、あの戦闘中で上級生たちが洩らした「実咲がグルだった」的な発言を一切覚えていないということだ。
あれらの発言を聞いた上で、ここまで義理堅く守ってくれたのだから、案外覚えていても大丈夫かもしれないが、実咲の安心感が違う。
今回のダンジョンダイブに誘ったときの感触からして、実咲は来斗が自分を『それなりに魅力的』と捉えている自負がある。ならば自分の全てを捧げる覚悟でぶつかれば、パートナーとしてもらえる目は十分にある。
問題はただ一つ。
「ここで私が死んだら、私も記憶を失う……」
実咲は自分に言い聞かせるように、そう呟く。
来斗の強さと価値を知ったのは、あくまでこのダンジョンダイブ内での出来事。ここで「死に戻り」してしまえば、実咲の来斗に対する評価は元に戻ってしまう。
誰ともパーティーを組んでもらえない、教室最底辺の陰キャオタクという評価に。
おそらく、これが最後のチャンスだ。このろくでもない学園でも最底辺、最悪の学園生活が九分九厘決定づけられていた自分の運命を書き換える、最後のチャンス。
「絶対……絶対、死ねない」
実咲の目には、久しぶりに生気が宿っていた。