基本的に健太とそのパートナーとのセックスは夜、ベッドの上に限られる。それは、健太とパートナーはそもそも学年が違うため、学校内ではあまり一緒にいないこと。健太が野外やダンジョン内でのセックスにまだ抵抗があること。パートナーは出来るだけ大切したいのでセックスの前後はシャワーを浴びられる環境を重視していることなどが理由だ。
つまり、ベッドの上はともかく、夜しかセックスをしていないのは、特に理由がこだわりがあってのことではない。
だから本日午前中、ダンジョンダイブから無事生還した健太たちが、白鶴荘の一室でハーレムセックスを繰り広げたのは、ある意味必然だったと言えた。
とはいえ、まだ日が高い真昼間から初めて、夜までセックスで全ての時間を消費するほど、健太は時間を持て余してはいない。昼間からセックス三昧というのは学園の男子としては特に珍しくもない休日の過ごし方だが、それはエンジョイ勢に転がり落ちる下り坂だ。
転職にいたった幸子を筆頭に、レベルアップで性欲の高まっていた幸子、蘭、竹海と一通り幸せな時間を過ごした健太は、そそくさと着替え、白鶴荘を後にした。
本日午後から夕食まで健太は、一人の時間を過ごす予定となっている。予定通りならばトレーニングルームや図書館に行くらしい。こういう時、元から従順な蘭や幸子はもちろん、日頃は結構我が儘を言う竹海でさえ、付きまとったりはしない。この学園で下手に男子を束縛しようとするリスクを理解しているからだ。
健太が出ていった後、少し遅れて意識を取り戻した蘭、竹海、幸子の三人はシャワーを浴びてすっきりした身体で白鶴荘の食堂で、遅めの昼食を取っていた。
寮の食堂が無料で(寮費に含まれているので実際には無料ではないが)提供しているのは朝食と夕食だけのため、昼食は有料の上、メニューも作り置きできる物に限られるが、外に出ずに済むのがありがたい。
上はTシャツのみ、下は制服のスカートというラフな格好で、オニオンサンドを小さな口で少しずつ食べてた幸子は、ホウと息を吐く。幸子のキメ細かい肌が桜色に上気しているのは、シャワーを浴びたからなのか、その前の情事をまだ引きずっているからか。
幸子は先ほど昼食代を支払った自分のプリペイドカードを取り出し、思わずつぶやく。
「あの、これ、本当に良いんですか?」
幸子のカード残高は、十数万『銭』という、入学以来見た覚えのない金額が表示されている。その大半は、本日午前中に行ったダンジョンダイブの分け前だ。それ以前から入っていた金額など、端数に埋もれている。
「良いのよ。ダンジョンダイブの『銭』はどんなことがあっても均等に頭割りは、ご主人様の方針だから」
なぜが物凄く自慢げに微笑む蘭がそう言って来るが、幸子には受け入れがたい。
健太が四肢を斬り落としたゴブリン(ゴブリン系『逸脱個体』複数匹含む)にとどめを刺すというあり得ないほどの優遇レベリングをしてもらった上に、クリスタルやいらないドロップ品を売り払った『銭』も「均等頭割り」と言われて、カードにチャージされたのだ。
優遇、幸運、幸福。そうした言葉から自然と目を背ける癖がついている幸子には、今の自分の境遇は飲み込めない。
「これに関しては、ご主人様は絶対譲るつもりないから、言っても無駄だよ。尚典くんと来斗くんも同じ意見だしね」
サラダチキンを食べながら言う竹海のその言葉通り、「報酬はどんな時でも均等頭割り」は、健太、尚典、来斗の間で同意が取れている倶楽部の方針だ。一年男子三人は、陰キャオタクという共通項を持つため、オンラインゲームなどを通して「報酬の分け方はシンプルに限る」という認識を共有してた。
さらに三人が三人とも「自分の取り分が増えることより、そうすることで揉めたり険悪になったりする方が嫌」というヘタレ系平和主義者である。学園男子では相当珍しい部類の三人だ。
今日まで圧倒的多数派の学園男子に囲まれて生きてきた幸子が、信じられないのも無理はない。
「は、はい。分かりました」
突然、残高の桁が増えたプリペイドカードを恐る恐る仕舞った幸子は、落ち着きなく視線をあちこちに動かしている。たとえ「劇的な改善」という方向でも、環境の激変に心身がついていかないというのは、人間大なり小なり誰でもあることだ。
「ともあれ、幸子さん。無事、転職おめでとう」
話題を移す様に、蘭はそう言って幸子の転職を祝う。
「転職時にそれまでの一段階職とは繋がらない第二段階職になることは稀にあることだけど、『遊び人』から『幻想使い』はとんでもなく『運が良い』ね」
竹海が言う通り、第一段階職から繋がらない第二段階職に転職することは、数は少ないが実例はある。
簡単に言えば、同一段階での職の乗り換えと、スキップ転職が同時に起こる現象だ。例えて言えば、『職人』になった者が不満に思い、『職人』をレベル20にして第一段階職を取り直そうとした時、第一段階職の『戦士』ではなく、第二段階職の『闘士』になるという現象だ。
この場合は、『職人』レベル20はロストする。ノービス10+『職人』20の合計30レベルから、ノービス10+「職人』0(ロスト)+『戦士』20+『闘士』1の合計31レベルになるのだ。
そのため幸子自身も蘭たちも、今の幸子はノービス10+『遊び人』0(ロスト)+『術士』20+『幻想使い』1の合計31レベルだと考えている。
だが、実際には幸子の転職は『聖堂』ではなく、健太の『職業選択の自由』によるものだ。
だから、今の幸子はノービス10+『遊び人』20+『術士』20+『幻想使い』1の合計51レベルのはずだ。もちろん、健太もそうであるように単純な合計レベル通りの能力値ではないだろうが。
そんな事実は彼女たちが知る由もない。だが、それでもこれだけ目に見える事実が積み重なれば、色々察することも出来る。いくら完全に堕ちているとは言ってもそれは心の話。頭の働きにはそこまで大きな影響はない。
竹海は考える。
(蘭が『案内人』になったのは、多少運が良い程度でおかしな話じゃない。私が『良い踊り子』になったのも、特におかしくはない。でも、そこに今回の風音の『盾槍闘士』と幸子の『幻想使い』を加えると、蘭と私も怪しくなってくるね)
まだ確証には至っていない竹海は、その考えを口には出さない。出すとしてもこのような他人の耳があるところでは無理だ。
(ご主人様はこの間、私にわざわざ聞いたんだよね「もし強くなれる代わりに、自分に隷属し続けなければならないとしたらどうする?」って)
健太は話の流れの中、自然に聞いたつもりだったようだが、竹海には十分不自然な問いに聞こえた。それでも素直に「それはご褒美が二重なだけ」と答えたのは、その答えにある通り今更竹海に、自分から健太の下を去るという選択肢はないからだ。
だから、竹海は考える。
(蘭の『案内人』、風音の『盾槍闘士』、幸子の『幻想使い』。比べると私の『良い踊り子』だけちょっと不本意な転職なんだよね。これで私の次の転職にもご主人様が『聖堂』まで付いてきてくれて、習得する職が『凶戦士』系や『殺戮者』系のような「暴走の危険のある戦闘職」だったりしたら……確信しても良いね、ご主人様の『チカラ』)
元々絶望よりも希望を見据える質の竹海は、そんなことを考えながら、目を細めて笑みを浮かべるのだった。
同じ頃、健太は武道館二階のトレーニングルームで、器具を使った筋力トレーニングに励んでいた。もちろん、『戦士の不動心』はオンにしてある。オフ状態の健太では、筋トレの苦痛から無意識に逃れようとしてフォームを崩してしまう。
「ふっ、ふっ、ふっ!」
礼治副会長に習った正しいフォームを『脳外記憶領域』で再生し、それの模倣をする形でデッドリフトを繰り返していた健太は、予定していた数をこなしたところで停止していたSPを纏い直し、六十キロのバーベルをゆっくりと床に戻す。
「はあ……」
健太は大きく深呼吸をしながら、用意しておいたスポーツドリンクのペットボトルを開けて飲む。
本来、大重量のバーベルを使うトレーニングは、安全のため一人ではやってはいけないのだが、健太のようなSPを自在にオンオフできる人間ならば危険はほぼない。
今健太が使っていた六十キロのバーベルも、SPをオフにしている健太には大重量だが、オンにした健太にとってはお手玉できるくらいの重さでしかない。
デッドリフトを終えた健太は五分の休憩で呼吸と体調を整えると、次の目的であるベンチプレス用のロングチェアとラックの下に行くとそこでは、見知った筋肉美女が丁度ベンチプレスを終えたばかりらしく、軽く息を弾ませながらタオルで汗をぬぐっていた。
「おや、貴方でしたか。今日は一人ですか?」
「はい、麗華庶務」
筋肉美女――豊葦原学園特級科こと通称華組三年にして、生徒会の一員である麗華を前に、健太は後ろで手を組み、足を広げた体勢で丁寧に答える。
後ろで手を組み、距離を多めに取るというのは、健太が女子を警戒させたくないときにいつもやっていることだ。凛子を始めとした『匠工房』の大多数や静香と一対一で話し合う時には、ほぼ必ずそうしている。
麗華の場合は彼女の精神面には問題ないのだが、格好が体にフィットする薄手のトレーニングウェア姿ということもあり、念のためそうした姿勢を取った。
やけに仰々しい姿勢を取る健太に、麗華は「自分の後ろに礼治副会長の姿を見ているのだ」と考えて納得する。
「そうですか。感心なことです。次はベンチプレスですか?」
そう言ってベンチプレス用の長椅子から立ち上がろうとする麗華に、健太は丁度良い機会だと思い、質問を投げかける。
「はい、そのつもりなのですが、その前に麗華庶務に一つお尋ねしたことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「……質問することは構いませんが、答えるとは限りませんよ」
浮かしかけた腰を戻しながら、麗華は警戒を隠さない鋭い目つきで健太をそう牽制する。
麗華は健太を「どこぞの草」と見なしている。必然的に、健太が自分に問いかけるとすれば、それは礼治副会長に関することを想定する。
だから、健太の問いは麗華にとってかなり意表を突かれるものだった。
「はい。少し不躾な問いになることは自覚しておりますので、ご返答がなくとも当然と思っています。
麗華庶務は、お一人でトレーニングをしていらっしゃるようですが、トレーニング後のシャワーなどはどのようにしていますか?」
「……は?」
予想外と言えばとても予想外。会うのはこれが二度目だが、前回の印象では決して健太が言ってきそうにない問いに、麗華は驚くと同時に、嫌悪感と攻撃性を露わにする。
実際、『戦士の不動心』がオンになっていなければ、健太には決して出来ない問いだろう。だが、冷静に効率だけを考えれば、この問題に関しては、麗華に聞くのが一番解決に繋がりそうなのだ。
健太は、冷静な口調で事情を説明する。
「実は、近々仲の良い女子と手合わせをする約束をしておりまして。仲が良いとは言っても、彼女とは男女の中ではなく、友人、ダンジョンダイブのパーティーメンバーとしての付き合いに過ぎません。
そうなりますと、手合わせを終えた後、私と彼女は別々に身支度をすることになるのですが、前回こちらのシャワールームを使用した感想では、『この学園の平均的な治安』状態であると言わざるを得ませんでした。女子が一人で安全に使用できるシャワーは見当たりません。
最悪、身支度を整えるのは寮に帰ってからにすることも考えているのですが、何か良い解決手段があるのならばご教授頂けないかと考え、失礼を承知でお尋ねさせて頂きました。申し訳ございません」
そう言って健太は、後ろで手を組んだまま小さく頭を下げる。
「なるほど、そういう事情ですか」
健太の堂々とした説明に、麗華はひとまず表情から攻撃色を消す。同時に、健太に対する評価を少し上げる。
この学園の男子で、「セックスをしていない仲の良い女子」がいるというだけで、倫理観は上等な部類と言える。さらに、その女子の安全を考えて行動するというのは、もはや最上級の倫理観と言えるだろう。
「私は、シャワールームの設置されている小道場を貸し切り申請して、そこのシャワーを利用しています」
あっけない麗華の解決策に、健太は目から鱗が落ちる気分だった。考えてみれば、この武道館はとてつもなく大きく、異常なくらいに設備が充実しているのだ。個別のシャワールームがついた道場があってもおかしくはない。いくら広いとはいえ、同じ武道館内ならば、トレーニングルームでトレーニングをして、抑えておいた小道場のシャワールームまで移動するのは問題ないだろう。
「そのようなことが可能なのですね。私にも同じことが出来るでしょうか?」
健太の問いに麗華は少し困ったように首を傾げる。
「どうでしょうか。空いている設備はあると思いますが、普通科の場合、その手の施設の使用申請は倶楽部単位でしか出来ません。貴方は今、どこかの倶楽部に所属していますか?」
「いいえ、まだです」
この辺りが、このこの学園ではFランクでも、何らかの倶楽部に籍を置く者が大半になる理由だ。
学園で生きていく上でダンジョンダイブが必須なのに、そのダンジョンダイブに対する学園の支援がほぼ全て倶楽部を対象としているのだ。
今回のような武道館施設の貸し切りくらいならばまだ良いが、『工作室』の使用申請が倶楽部単位でしか出来ないのは、かなり致命的だ。
ダンジョン内でしかスキルの使えない普通科の生徒が、武器、防具を修復、製造、改良をしたければ、ダンジョン第一階層と同程度の瘴気圧に出来る『工作室』の使用は必須だ。
例外は『工作室』の小型版が部室に設置されているA、Sランクの倶楽部だが、結局は倶楽部に所属しなければならないことに変わりはない。
だから、倶楽部に所属していない『職人』は、健太がやっているようにダンジョンダイブ中にモンスターを警戒しながら、アイテムのクラフトをするしかない。
それに比べれば小さなことだが、それでも今の状況もそれなりに健太には困った事態だ。だが、一応解決策はある。恐らくはかなり不本意な結果に繋がることが予想されるが。
「私も相手の女子もまだ所属倶楽部はありませんが、一応名義を貸してくれそうな倶楽部に心当たりはあります。その倶楽部はFランクなのですが、問題はないでしょうか?」
健太の脳裏に思い浮かべてるのは、蜜柑達の倶楽部『匠工房』だ。叶馬の『神匠騎士団』がまだ未成立である以上、『匠工房』は健在なはずである。
「ああ、シャワー施設付き小道場の貸し切り程度ならば、倶楽部のランクは問われませんよ。『闘技場』のような人気の施設ならば、ある程度ランクが無ければ難しいですが」
麗華の答えは健太の予想から大きくは外れないものだった。
それならば、蜜柑か凛子に協力してもらえれば、安全なシャワールームは確保できそうだ。
問題は、蜜柑や凛子に相談すれば必然的に他の『匠工房』の面々にも沙姫との手合わせが知られて、そこから叶馬に知られる可能性が激増するという点だ。
(知られれば絶対叶馬がうるさいだろうな。叶馬との手合わせは断固拒否だが、見学は拒絶できんか)
場合によっては、叶馬以外の叶馬パーティーの面々や『匠工房』のメンバーも見学に来るかもしれない。
叶馬が同席するならば、沙姫の安全なシャワー問題などすでに気にする必要もない問題なのだが、結局のところそうするのが一番早そうだ。
「そうですか。ご助言ありがとうございました、麗華庶務」
「いえ。大したことではありません」
健太は麗華に丁寧に礼の言葉を述べながら、沙姫との手合わせをどうするのが一番おさまりが良いか、思考を巡らせていた。
筋力トレーニングというものは、そう長時間続けられるものではない。筋肉の成長だけを考えれば、負荷をかけた後は出来るだけ体を動かさずに休むのが良いらしいが、そこまで体作りを優先できるほど、健太は時間に恵まれた立場にはない。
「周回レベル上げ』のスキルを使えば、疑似的に無限の時間がある健太だが、自分の能力を過信していない健太は、『周回レベル上げ』は原則、一人でダンジョンダイブをしている時だけに使用を限定している。
他人がいるところで、頻繁に時間を巻き戻した場合、得た情報、交わした約束、初対面か否か、といった知識をとっさに正しく活用できる自信がないからだ。
例えば、『周回ベル上げ』で巻き戻った時間軸で、蘭と会って会話を交わし、蘭が学園に入学する前の話をしてくれたとする。その場合、元の時間軸に戻れば、「健太は蘭の過去を知っているが、蘭は健太に過去を打ち明けていない」という状態になる。
もちろん、この一件だけならば健太も間違えることはないが、同様のことを何度も重ねれば、いずれはとんでもないポカをやる。健太は自分はその程度の人間だと評価している。
だから、有限な時間を有効に使うため、同時に筋トレの後の体にあまり負荷をかけないため、武道館のトレーニングルームを出た健太は、図書館で読書と自習に勤しんでいた。
静かな図書館の片隅で、健太は開いた書籍に視線を落とす。
いつもながら、図書館の中は人気が少なく、静かだ。僅かに見える人影も、そのほとんどが学生服を着た男子か、セーラー服を着た女子。つまり、特級科――華組の連中である。
ブレザー制服姿の健太はかなり浮いている。だが、健太がそうであるように、図書館に来る華組の男子、女子もその大半は図書館の常連だ。
最初は、健太に嫌悪や侮蔑の視線を向ける者が多かったが、元々図書館の使用に特級科、普通科の区分はない。今では、健太が図書館に長居していても、顔つきを変える者はいない。それは、受け入れたというより、いない者として扱う、というスタンスだが。
だから、一人の女子生徒がわざわざこちらに近づいてきたのは、健太としても多少予想外のことだった。
「普通科の方が不似合いな書籍を随分と多く抱え込んでおいでですが、まだ時間はかかりますか?」
場所柄音量は控えているが、それでも険と警戒の感情がもろに分かる女子の声に、健太は視線を上げる。
健太の視界に入ったのは、華組の象徴とも言うべき古風なセーラー服を綺麗に着こなした、美少女だった。まるで黒絹の如き艶を誇る長い黒髪は腰まで届き、こちらの睨むようにして見下ろす双眼も黒曜石の如き漆黒だ。
座っている健太からは、彼女が腰に差している日本刀が良く見える。華組の生徒が日本刀を下げているのはごく一般的なのだが、彼女がさしている日本刀はとりわけ目を引く凄みのようなものを感じさせる。
「こちらの本はすでに読み終えています。こちらの本はまだ手付かずですが」
健太はそう言って、自分の右側に積んである本の山と、左側に積んである本の山を指し示した。
お世辞にも居心地が良いとは言えない図書館では、常時『戦士の不動心』をオンにしている健太は、声も表情も冷静そのものだ。
どうやら、健太が抑えている本をこの黒髪の少女も必要としているらしい。珍しいことだ。この図書館の馬鹿げた蔵書の数と、少ない利用者で欲する本がぶつかるというのは滅多に起こることではない。
これが、この学園では一番人気な現在確認されている「転職とスキル」に関する資料ならば話は別だが、今健太が抑えている本は文字魔術の為の各国の古い文献およびその辞書的なモノと、コンピューター言語に関するモノ、後は各国の有名な逸話、寓話集である。
「では、そちらは持っていきます」
そう言って黒髪の少女が右側の本に手を伸ばすより早く、健太はそれらをまとめて持ち上げると、静かに立ち上がる。
「分かりました。ですが、規則ですので、司書のところまでご同行をお願いします」
この図書館では、いくつかの重要資料に関しては、生徒が直接本棚から取り出すのではなく、取り出すのも戻すのも司書を経由するよう定められている。そうした本は、万が一破損、紛失した場合の責任の所在を明らかにするため、生徒同士のまた貸しも禁じられている。
健太が今読んでいて、黒髪の少女が欲した本の中にはそうした扱いのモノも混ざっていた。
「あっ」
予想外の反応に伸ばしかけていた手を引っ込める黒髪の少女をしり目に、健太は数冊の本を大事に両手で抱え、司書がいる受付へと足を運ぶ。
「失礼します、こちらの本を返却します。その後、こちらの方が借りたいそうなのですが」
健太はそう言って、司書の前の机に本を乗せる。
図書館の司書は、学園の卒業生だ。司書というのはただの肩書でなく、実際に『文官』系の『司書』の職を有している。
普通科の卒業生のためダンジョン外ではスキルは使えないが、『司書』の職を有している者は、スキルに頼らずとも司書としての高い適性を誇る。
この司書もかなりの美女だ。普通科を自我を保ったまま卒業してるのだから、普通科のエリート――A、Sランク倶楽部の籍を置く『文官』だったのだろう。
A,Sランク倶楽部の非戦闘職の女子は、能力以上に容姿で選りすぐられている。そのため、自我を保ったまま卒業する非戦闘職の女子は、学園基準でも上澄みの美女ばかりだ。
「はい。ご返却を確認しました。そちらの方が次に借りたいのですか? 規則ですので、こちらで名前を控えさせていただきます」
「特級科一年、薫です」
「…………」
黒髪の少女――薫の名乗りに、健太は今の自分が『戦士の不動心』をオンにしていた幸運に感謝した。
特級科一年の薫。生徒会書記にして、現会長である徹朗の婚約者。徹朗は誠一の異母兄のため、将来的には誠一の義姉になるのだろうか?
言われてみれば原作の描写と一致するが、長い黒髪も、腰に下げた日本刀も、特級科の女子には特に珍しくもない特徴のため気にしていなかった。
『戦士の不動心』がオンになっている健太は、冷静に思考を巡らせ現状把握に努める。
(これはただの偶然か? それとも、叶馬関連のあれこれ同様、俺が何か介入した方が良い事態が発生しているのか? いや、だが礼治副会長、麗華庶務のカップルと違って、徹朗会長、薫書記のカップルは原作では叶馬とはほぼ接触がなかったはずだが)
どちらせにせよ、華組の中でもさらに特権階級な生徒会のメンバーに睨まれて良いことはない。そう判断した健太は、薫に話しかける。
「まだ未読のモノも読み終えたらこちらに戻します。読み終えた時点で、ご報告いたしましょうか?」
「あ、はい。よろしければ、お願いします」
「承知いたしました」
健太は席に戻り、読みかけの本に視線を落とす。健太にとって図書室での本は「読む」ことよりも「見る」ことが主目的である。そうして全頁を視界に収めることで、『脳外記憶領域』に文字データとして保存する。
読み返すのは後日、自室か蘭の部屋で行えばよい。しかし、最近は図書館で「見る」だけで、『脳外記憶領域』ではなく自前の脳に大部分が記憶できるし、一読しただけでかなりの部分が理解できるようになっている。恐らくは、第二段階職も複数重ねるようになった影響で身体能力同様に、記憶力、理解力といった頭脳系の基礎能力も増強されたからだろう。
一方、目的の本を借りてきた薫は、なぜか健太の近くの席に腰を下ろした。
薫の不可解な行動に、疑問を覚えた健太が視線を本から斜め前に座る薫に向けると、薫は意を決したように口を開く。
「あの……先ほどは失礼しました」
「何がでしょうか?」
身に覚えのない薫の謝罪に健太は、首を傾げる。
「最初の私の態度です。何の咎もない初対面の方に対して向けて良い言葉ではありませんでした」
そう殊勝な言葉を口にする薫は、いかにも生真面目で善性を感じさせる。
健太としては、特級科――華組の女子が普通科の男子に向ける態度としては、ごく普通なものとしか映らなかった。特級科のお嬢様から見れば、普通科の男子など蔑みの対象だろうし、同時に警戒の対象でもある。
だが、わざわざ薫が謝罪するのならば、それは受け入れる方が良い。
「分かりました。謝罪の言葉は、確かに受け取りました。これ以上はお気になさらぬよう」
健太の落ち着いた返答に、薫は猶更罪悪感を刺激される。
「本当に申し訳ございません。言い訳になってしまいますが、以前普通科の方と少し揉めたことがありまして、つい過剰に反応してしまいました。噂と僅かな実体験をもとにした偏見に捕らわれていた、己の未熟を恥じるばかりです」
もしかしなくても、原作でも描写されている叶馬と接触した一件を言っているのだろう。薫の素直過ぎる反省に、健太はついお節介を焼いてしまう。
「自分で言うのもなんですが、私は普通科男子としてはかなり特殊な部類です。恐らくは、貴女が聞いた噂の方が圧倒的にこの学園の男子の実態を表していると思われます。ですから一般的な感性をしている女性が我々普通科の男子に、嫌悪感と警戒心を抱くのはごく自然なことです。とりわけ、警戒心はむしろしっかり抱いていただかなければ、危険です」
たまたま人慣れした虎を一頭知っているからと言って、野生の虎全体に対する警戒心を下げるのは危険極まりない行為だ。
「はい、御忠告ありがとうございます」
全体を見れば当たっているのだが、本人の口から出るにはあまりに説得力のない健太の忠告に、薫は思わず口元をほころばせた。