『盗賊』には『空歩』というスキルがある。その通り、一歩だけ空中を足場とすることができるスキルだ。
対して『盗賊』系第二段階職である『強盗』には『二歩』というスキルがある。こちらもその字面通り、空中で二歩移動が可能なスキルである。
そして、『強盗』となる者は絶対に第一段階職として『盗賊』も獲得している。つまり、『強盗』は『空歩』と『二歩』の両方が使える。
そのため、スキルの連続発動が使いこなせるようになれば、三歩空中を歩行できるようになる。さらに、『空歩』は『盗賊』のスキルでも初期スキルに属するため、比較的再使用制限時間が短い。
結果、『空歩』→『二歩』→『空歩』の最大四歩の空中移動が可能なのである。
地下第八層に続く『界門』を有する『界門』玄室。そこは、健太がこれまで見てきた中でも図抜けて大きな玄室だった。
広さは公式ルールのサッカー場が複数作れそうなほどに広く、天井は都庁ビルを建造してもまだ余裕がありそうなくらいに高い。
その『界門』を守護する『界門守護者』は一羽の怪鳥である。
翼を広げたその大きさは十メートルほどもあるだろうか。その両翼は鋭い両刃の鎌となっており、両足の爪は曲がった短剣のごとく。長い尾は、鞭の如きしなやかさを備えつつ、節々に鋭い刃を連ねたいわゆる蛇腹剣を彷彿させる。
そんな怪鳥が、ばかげて広いこの玄室の空中を高速で自由自在に飛び回る脅威は、容易に想像がつくだろう。
しかも、この怪鳥は質が悪いことに魔法に対して高い耐性を有している。通常の飛び道具が意味のなさないダンジョン空間において、遠距離攻撃の主流は魔法だ。その魔法に強い耐性を持つ、飛行モンスターなどパーティー構成によっては遭遇した時点で詰んでいる可能性すらある。
「トラー!」
甲高い奇声を上げながら、怪鳥は燕のように、空中にいくつもの弧を描くような変則的な軌道で飛び続ける。
下からそれを見上げる健太は、柄を五メートルほどに伸ばした大剣(実質槍)を両手で構え、平坦な声で命令した。
「行け、ビッグジャイアント」
健太の言葉を受けて、側に立っていた『強化外装骨格』のビッグジャイアントははるか上空の怪鳥目掛け、駆け上がる。
『盗賊』の『俊足』と『空歩』を同時発動させたまず一歩、
「パトッ!?」
一直線に、自分以上の速度で駆け上がってきた鋼鉄の巨人に、怪鳥は驚きの声を上げ緊急旋回する。
斜め上に弧を描くように旋回する怪鳥を追いかけるように、ビッグジャイアントは『瞬動』と『二歩』を発動、二歩目で斜め上に逃げた怪鳥の回避先へと回り込む。
連続する三歩目の踏み込みで空中を踏みしめ、ビッグジャイアントは右ストレートパンチを繰り出す。
「アシー!」
という気合の声と共に、怪鳥は下方に向って緊急旋回し、ビッグジャイアントの右ストレートを回避した。空中でパンチを繰り出したビッグジャイアントは次の動きが取れず、そのまま重力に引かれて落下し始める。だが、二連続の緊急旋回をした怪鳥も瞬時に動くことは難しいくらいに体勢が乱れている。
その空中戦を下から見上げていた健太は、いつも通りのトーンで左肩にとまっている召喚モンスターに短く命じた。
「トレミー《撃て》」
「パッ!?」
崩れた体勢でも三度目の緊急旋回を試みた怪鳥だったが、『徹甲虫』であるトレミーの超高速突撃を完全に回避するのは不可能だった。
鎌のような翼を撃ち抜かれた怪鳥は、途端に動きに精彩を欠く。すぐさま墜落とまではいかないが、先ほどまでの目で追うのも難しい空中機動は見る影もない。落下しない様にバタバタともがくことで、しばし空中で停止状態になる。
そこに、自由落下中のビッグジャイアントが次のアクションを起こす。
再使用制限時間が終わった『空歩』と『俊足』を同時使用。空中で上下逆さになり、天井を蹴る様に『空歩』を踏み、ホバリング中の怪鳥目掛け超高速で落下していく。右腕を頭上にまっすぐ伸ばし、大きな右拳を固く握って。
結果、
「アシャ!?」
高速落下する鋼鉄の巨人の全体重が乗った右拳を、細い胴体で受け止めることになった怪鳥は空中で真っ二つに引きちぎられたのだった。
撃破した怪鳥は地上に落ちる前に瘴気へと返り、床に落ちてきたのは大ぶりなクリスタルと、蛇腹剣のような形状の怪鳥の尾だった。
「これも『匠工房』行だな」
怪鳥の尾を拾い上げた健太は、そう呟く。『黄金鎧の欠片』、『象牙』とすでに二つ加工不納品を預けているので、さらにプレシャーをかけるようでちょっと申し訳ない気はするが、なんとなくこの『怪鳥の尾』はそこまで加工が難しい素材ではない気がする。
こういう面白素材は『鍛冶士』の蜜柑より、『錬金術師』の智絵理と『機関士』の柿音のマッドコンビが張り切りそうなところが面白そうでもあり、怖くもある。
「ビッグジャイアント《戻れ》。トレミー《戻れ》」
ひとまず健太は、逆さ向きで床に肩まで右腕が埋まってジタバタしてた『強化外装骨格』のビッグジャイアントと、一発芸の超高速突撃を使い果たしてヘロヘロ状態で飛んでいた『徹甲虫』のトレミーの具象化を解除する。
今回は当初竹海が同行していた関係上、ゴブリン『槍騎士』のジュゲムと、コボルト『強盗』のボンドの武器を持ち込むことが出来たなかったので、この二体は途中からほとんど戦わせていない。まあ、この二体は現状レベルが上限に引っかかっているらしく成長しなくなっているので、経験値効率を考えれば、現状でも成長の余地がある『徹甲虫』のトレミーと、『赤梟頭熊』のエロールを優先するのが正解だろう。
モンスターカードではなく、『職人』のスキルである『強化外装骨格』のビッグジャイアントは戦わせても経験値は得られないのだが、健太が覚えたスキルの一部をそのまま使える。使いこなせば強くなるので、そう言う意味での『経験』を積ませるために、今回は活躍させた。
第八階層に繋がる『界門』を前に、健太は『脳外記憶領域』の時計データで時間を確認する。現在の時刻は午後四時半の少し前。『羅城門』閉門の五時まで後三十分強しかない。
「見積もりが甘かったか。『周回レベル上げ』の使うならば、残り時間が五十分は欲しかったのだが」
竹海と別れてから健太は、真っすぐ第七階層を目指し、そこで『周回レベル上げ』を使い、『大身槍士』のレベルを最大にし、『強盗』に転職していた。その後、『強盗』もある程度レベルが上がったところで、一旦『周回レベル上げ』を切り、本来の時間軸に戻って第八階層に繋がる『界門』玄室に挑戦したのだ。
だから、今いるのは本来の時間軸。そこで『界門守護者』である怪鳥を倒したので、次のソロダイブでは第八階層からアタックを開始できる。
『強盗』の職を得て、第八階層に繋がる『界門』を解放した。これで最低限の目的は達成している。しかし、欲を言えばこの後第八階層で『周回レベル上げ』を使ってレベル上げ、職獲得を続けたかったのだが、残り時間が三十分強しかないのでは少し忙しない。
『周回レベル上げ』は厳密に言えば、純粋な過去に戻るのではなく、過去と極めて近い並行世界に移動しているのだが(稀にだが、玄室にいるモンスターの数が多少上下していたり、過去にいた場所に『放浪する脅威』がいなかったりすることがある)、流石に『界門守護者』が変化することはまずない。
つまり、今から第八下層にダイブして、強制ログアウト前に『周回レベル上げ』で戻る時間を長くとりすぎると、地下第七層に戻ってしまったり、最悪『界門守護者』戦の真っただ中に戻ってきてしまったりするのだ。
無論、『戦士の不動心』をオンにしている健太にうっかり忘れるということはないし、『脳外記憶領域』に落した記憶と突き合わせれば、間違って『界門守護者』戦の時間に戻ってしまうというリスクもまず避けられる。
だが、前にも後ろにも時間の余裕がないことには変わりはない。
健太は第八階層に足を踏み入れるのはこれが初めてだ。
「初めての階層のアタックは、もう少し余裕のある時にするべきだな」
そう結論付けた健太は、『界門』を潜り、第八階層に降りた。その後健太は、すぐさま『周回レベル上げ』を使用する。
「《時間軸逆走、九十分》」
第七階層の『界門守護者』戦より前の時間まで戻った健太は、第七階層で主にオークの群れを相手に戦闘を繰り返す。
玄室一つにつき、数十のオークがひしめき合っているのだ。経験値効率はかなり良い。『モンスターカード』も含めてドロップ品も大量に落ちるが、あいにく『周回レベル上げ』中の物は持ち出せない。良いものがあっても、未練になるだけなので確認せずに、次の玄室へと向かう。
そうして、いくつかの玄室をクリアしたところで、健太の脳裏にお馴染みの文字列が浮かびあがる。
『義賊R』
『格闘士』『拳闘士R』『大剣士R』『槍騎士R』『侍』『盾騎士R』『術騎士SR』
『山賊頭R』
『魔術士』『呪詛師R』『方士R』『浄魔士SR』『火精霊使いR』『土精霊使いR』『風精霊使いR』『水精霊使いR』
『司祭SR』『神官戦士SR』
『鍛冶士』『彫金士』『素材製造士SR』
『書記』『案内人』『使役者SR』『蒐集家』
『引き籠り』『一人上手SR』『独りよがりSR』
に転職可能。
※お客様のご契約、ご利用状況では、以下の職クラスは選択できません。
『聖賢見習いGR』『石猿見習いGR』『伝承の英雄GR』
目立つ変化は、転職先に『文官』系の『蒐集家』が加わったことだ。
これは多少意外だったが、さほど驚くほどのことでもない。『蒐集家』は『モンスターカード』に関するスキルが豊富な『文官』系の中では戦闘力の高い職で、一般的に「一定数以上の種類の『モンスターカード』を所有すること」が条件だと言われている。
今日『強盗』になった時にはすでにトレミーは『具象化』していたのだが、その時は表示されなかった。ただ、「持っている」「『具象化』したことがある」だけでなく、ある程度使いこなしていることが条件なのかもしれない。
だから、普通科には『蒐集家』の職についている者は非常に少ない。健太や叶馬を見ていると感覚がマヒするが、一般的には『モンスターカード』は滅多にドロップしない超レアアイテムなのだ。しかも『モンスターカード』を強くするにはその『モンスターカード』でモンスターを倒してレベルを上げる必要がる。
『周回レベル上げ』がある健太と違い、普通の生徒にとって獲得できる経験値は有限だ。そのため、複数のモンスターカードを中途半端にレベル上げするよりも、これと決めた『モンスターカード』を集中してレベル上げするほうが主流となっているという理由もある。
『蒐集家』は『同調』『寵愛』『保全』といった便利なスキルがあるので、いずれは習得したいところだが、今はそれより優先する職が多数ある。
「『強盗』のレベルを上げたら明確に速度が上がったからな。明日の手合わせの前に『山賊頭』も取っておくか? だが、『山賊頭』は『盗賊』系の中ではパワーよりだから、スピードアップはそこまで望めないか。となると、『盾騎士』で防御力を上げる方が良いか?」
『戦士の不動心』は心が揺れなくなる効果はあっても、判断力を上げる効果はない。だから、健太はしばし悩む。
『周回レベル上げ』を使えば、事実上獲得経験値は無限大の健太だが、『周回レベル上げ』の連続使用が心身にどのような影響を与えるのかが未知数のため、連続使用回数は少しずつ伸ばしている状況だ。
幸い今のところ、悪影響は見つかっていない。
その自分で決めている連続使用回数と、そこで得られる経験値を大雑把に計算すれば、今日中に第二段階職を後二つはレベル30にできそうだ。
「多少効率は落ちても、まずは速度アップを優先すべきか」
そう結論を出した健太は、ひとまず『山賊頭』を選択した。
予定通り、複数の第二段階職を獲得した健太は、その晩も白鶴荘の蘭の部屋で、蘭、竹海、幸子の三人のパートナーを相手に、充実した肉欲の時間を過ごしていた。
胸と尻の肉付きが豊かな蘭。並みの男子より長身でありながら、蘭と同じくらい豊満な体つきを誇る竹海。そして、細身の体に乳房だけ大きな幸子。
三人とも健太好みの巨乳美女で、それでありながらそれぞれ異なる個性の魅力を持っている。こんな美女と毎晩セックスが出来るという現状に、現実味が感じられないほどだ。
(上級生には、同じ女子ばっかり抱いてると飽きて捨てる奴や、セックスそのものに飽きて惰性でやってるだけの奴がいるって原作で描写されてたけど、正直信じられん。なんでこれに高々数年で飽きるんだ?)
とそんな感想を抱きつつ、健太は静かな寝息を立てる蘭の裸体を抱き寄せる。無論、健太も裸だ。抱き寄せれば、蘭の体は乳房だけでなくどこもかしも柔らかく、ずっと密着していたくなるような多幸感に襲われる。
「最近蘭先輩には、甘えちゃってるからな。何とか埋め合わせしないと」
健太の口からそんな反省の言葉が漏れる。
それは健太の主観では間違いなく事実だった。新たにパートナーとなった幸子が非常にメンタルが不安定なため、どうしても幸子に気を割く割合が増えてしまうし、今晩は竹海が一気にレベルが上がったせいで性欲が爆発しかけており、竹海の相手をする時間が長くなってしまった。
物わかりが良くて我が儘を言わない人間に割を食わせるのは、短期的かつ表面的には人間関係を上手くいかせることになるが、長期的、本質的には絶対やってはいけない類の対応である。
良い子にしていると割を食う。そんな意識を全員が共有すれば、一部の聖人以外は全員我が儘に振る舞うに決まっているのだから。
そうでなくても、健太にとって蘭は特別な存在だ。童貞で彼女いない歴イコール年齢の男子が初めての女、それも顔も肢体も理想の上位互換のような女に心を奪われないはずがない。まあ顔や肢体に関しては、タイプは違えど竹海と幸子も蘭に負けていないので、単に「早い者勝ちだった」と言えばその通りなのかもしれない。
健太は薄暗い部屋の中、同衾している蘭を起こさないように細心の注意を払い、ベッドから起き上がる。
もう一つのベッドで寝ている竹海と幸子も熟睡状態のようだ。元々、学園の女子でも手に余る健太の精力だったが、さらに多数の職を重ねることでそちらも強大化し続けている。
今では、三対一でも普通に女子三人が途中でダウンしてしまう。本日、『界門守護者』二体のとどめを譲ってもらった竹海は、一気に『良い踊り子』のレベルが上がり、性欲、精力、体力揃って急上昇していたのだが、それも健太の上昇率と比べればほとんど誤差の範囲内だった。
現に、三人のパートナーを犯り潰した今も、健太の股間は固く天を向いたままだ。
薄暗い中、パートナー達の裸の寝姿を見ていると、また性欲が湧いてくる。健太は視線をその魅力的な光景から引きはがすと、音を立てないようにして服を着こむ。寮の外まで出るわけではないので、下はパンツとズボン、上はTシャツで十分だ。
寝ているパートナー達の体を清めるためのお湯を貰いに行くのである。
叶馬が言うに静香などは、そうして気を失っている間に叶馬の手で体を清められることを「頼むからやめてください」というくらいに恥ずかしがっているらしいが、幸か不幸か、健太のパートナーである二年生女子三人からは、恥ずかしがったり恐縮したりはされても「やめてくれ」とは言われていない。
それ以上に汚している寝具の洗濯の手伝いを申し出た時は、流石に蘭に笑顔できっぱりと断られたが。
今は真夜中と言っても良い時間帯だ。静かに白鶴荘の廊下に出た健太は、他の寮生の迷惑にならない様、出来るだけ足音を殺して階段を下りる。
健太が階段を降りると、そこには見覚えのある人物が待っていた。
長く艶やかな黒髪が印象的な女子生徒は、笑顔で健太に囁く。
「お疲れ様です、健太さん。寮長が健太さんと話がしたいというのですが、少しお時間を頂けますか? 蘭たちの世話は私がしておきますから」
黒髪の女子生徒――烏琉羽はそう言って、食堂の方に視線を向ける。
白鶴層の寮長が自分に話がある。その言葉に、健太は「来るべきものが来たか」と顔を引きつらせる。
この学園では、男子寮に監禁される女子も、女子寮に入り浸る男子も珍しい存在ではない。とはいえ、そこには一定の不文律もあるし、程度問題というのも存在する。
公式のパートナーの部屋に泊まるくらいは本来お目こぼしを貰える範囲なのだが、この白鶴荘の寮生ではない竹海と幸子を引き込んで、毎晩ハーレムプレイを繰り広げているのは、「限度を超えている」と言われれば、「はい、仰る通りでです」としか答えられない健太である。
「分かりました。後はお願いします」
「はい、お任せください。御武運をお祈りいたします」
その悲壮な決意の滲む無表情から、健太が勘違いしていることを察した烏琉羽だったが、悪戯っぽい笑みを隠したすまし顔で、食堂に向かう健太を見送った。
白鶴荘の寮長は三年生で、『盗賊』系の第二段階職とも第三段階職とも言われている。
ミドルクラスの寮に転寮しようと思えばできるくらいの実績なのだが、こうしてエントリークラスの寮である白鶴層で寮長をやっている。そういう資格はあるがあえてエントリークラスの寮にいる生徒は、そこまで珍しくない。
住んでいる間に、寮に愛着を持つ者もいるだろうし、そもそも豪華なミドル、ハイランクの寮が「性に合わない」者だっている。
「し、失礼します」
小声で学食に入った健太を待っていたのは、ショートボブの明るい茶色の髪をした女子だった。よく見ると瞳も同色の茶色なので、髪色も地毛なのかもしれない。身長は女子としても小柄な部類だろう。残念ながら、胸はあまりない。
夜の寮内ということで、下はハーフパンツ、上は半そでのゆったりとした赤いルームウェア姿なのだが、その服装でもないことが分かるくらいに体の凹凸に乏しい。
ショートボブに切りそろえられた髪型も相まってなるほど「女盗賊」というイメージを抱かせる。
彼女が白鶴荘の現寮長、四葉だ。
「いらっしゃい、健太君。ごめんね、こんな夜中に呼びつけて」
「あ、いえ。大丈夫です」
覚悟をすかされるくらいに友好的な四葉の態度に戸惑いを隠せない健太は、そう言って四葉の対面の椅子に腰を下ろす。
「飲み物はお茶で良いかな?」
「え、いえ、お構いなく。はい、頂きます」
慌てて恐縮る健太をしり目に、四葉は手ずから食堂備え付けの湯飲みにお茶を入れて、自分と健太の前に並べる。
自分のお茶を一口飲んだ後、四葉は静かに口を開く。
「健太君は、すっかり白鶴荘に馴染んできたね」
「は、はい、すみません」
四葉の表情を見れば、それが言葉通りの意味であると分かるのだが、今の健太にはただの嫌みにしか聞こえない。
恐縮してカチコチになっている健太なのだが、実は健太以上に緊張している寮長の四葉は健太の状態に気づかない。
四葉にとってはこの交渉に、愛着ある白鶴荘の浮沈がかかっていると認識しているのだから、無理もない。
「蘭のパートナーになってからはほとんど自分の寮に帰らずに、ここで寝泊まりをしているよね。うちの寮生じゃない竹海と幸子も引っ張り込んで」
「すみません! ご迷惑をおかけしています。俺は、まだ一年なので自分の寮にパートナーを招くと、守り切るのが大変なんです。白鶴荘にはご迷惑をおかけしない様気を付けますから、今後もこちらに泊まることを許可してください」
そう言って座ったままテーブルに額が付きそうなくらいに頭を下げる健太を、四葉はその明るい茶色の瞳を何度も瞬かせてしばし見ていた。
その間に、自分の言動が健太にどう取られていたか、理解したのだろう。
肩の力が抜けた拍子にこみ上げてきた笑いを、四葉はこらえきれない。
「ク、ク、クフフ……うん、そうか。いや、ゴメン。別段嫌みや非難のつもりはなかったんだ。安心して。私個人はもちろん、白鶴荘の姉妹メンバー全員健太君には好意的だよ」
「そう、なんですか?」
てっきり、女子寮に入り浸って、他寮の女子まで引き込んで肉欲に浸る日々に釘を刺されるのだと思っていた健太は、驚きを隠せない。
「うん。正式なパートナーである蘭が喜んで引き込んでいる以上、外野がとやかく言う問題じゃないよ。しいて言えば、どうせなら優梨愛も一緒に可愛がってやって欲しいってくらいかな」
寮長はそう言って、笑い返す。優梨愛というのが、蘭のルームメイトであることは健太の記憶にもある。しかし、色々とタイミングが悪いのか、今のところ健太はまだ彼女とまともに顔を合わせていない。
「いや、それは、ご本人の意思が一番大事ですから。それにパートナーとして責任が持てない人に手を出すのはちょっと抵抗があるというか。まあ、烏琉羽先輩のお世話になっているのに、こんなことを言っても説得力がないとは思いますけど、努力目標というか、出来るだけそうしたいというか」
「…………」
しどろもどろになる健太の言い訳に、四葉は微笑ましいものを見るように目を細める。
実際、学園の価値観に染まった女子の目には、健太の言動は微笑ましいものに映る。話半分に聞いても学年のトップ層は間違いないと思われる実力を示しながら、まだこれだけ誠実な価値観を残していることに、つい尊いものを見るような目をしてしまう。
「まあ、そこは君の自主性に任せるよ。優梨愛も今はちょっと微妙な立場だから、触れないというのも間違った判断じゃないしね。
とにかく、こちらとしては今の君に要望や苦情はないから安心して。
実は、静香と麻衣がこの寮を出て別な寮に移る意思があることを聞かされてね。健太君もその話は聞いてるかな?」
静香と麻衣の転寮。それは倶楽部『匠工房』のメンバーが、エントリークラスの女子寮、麻鷺荘に集結する流れが始まったということなのだろう。
静香たちから直接聞いていたわけではないが、原作知識としてその流れは知っていた健太は嘘はつかずに答える。
「直接、静香さんや麻衣さんから聞かされたわけではないですけど、そんな話があることは耳にしていました」
健太の答えに四葉は一つ頷くと、
「そうなんだ。うん、姉妹は寮の運営組織だけど、出ていこうとする寮生を引き留める権利はないからね。本人たちが退寮したいと言えば、引き留めようがない。そうなると必然的に、叶馬君と誠一君もここ白鶴荘には立ち寄らなくなるよね」
白鶴荘は今年度に入ってから、叶馬という規格外の化け物にかき回されてきた。
寮長である四葉は、最初に静香が叶馬を白鶴荘に引き入れた時「あ、終わった」と虚無顔になったものである。
ヤバい男子に目を付けられた女子寮は、だいたい悲劇の舞台になる。寮は男子寮も女子寮も原則治外法権、自立自衛がモットーだ。明確な校則違反をやられた時、公式に学園に訴え出れば、学園の治安維持部隊が嬉々として参戦してくれるが、それも正式に訴え出ることが出来た場合に限られる。
公式パートナーが招けば、男子が女子寮に泊まることも黙認されているように、不文律として成立してしまっている範囲では、学園の治安維持部隊も動いてはくれない。そして、質の悪い男子はその隙間をついて女子寮に上がり込み、隙を見つけては仲間(同類)の男子を呼び込み、一気に全女子を隷属させて訴え出ることも出来なくする。
そうした遊びが、一部の(学園基準でも)質の悪い男子の間では結構頻繁に行われていた。
三年生である四葉から見ても、叶馬は一目でわかる『ヤバい存在』だ。並みの男子なら力づくで叩きだせる彼女でも、抵抗の意思を持てないほどに。姉妹で叩きだすという意見が全く出てこないくらいに。ただじっと息を殺して見守ることしかできないくらいに。
そうして見守ること一カ月。予想は大きく外れ、白鶴荘で叶馬に無体なことをされた寮生はいなかった。正確に言えば静香が毎晩叶馬と睦あっていたがそれは、正式なパートナーである以上当然のことで、防音性の欠片もない白鶴荘の壁越しに聞こえてくる静香の嬌声は、快楽に喘ぎながらもどこまでも幸せそうだった。食堂で一緒に食事取っている時の様も、幸せそのものな様子だ。
そうなると話は変わって来る。
毎年十人以上獣に村人が食い殺される村にとって、毎年一人生贄を捧げれば獣から村を守ってくれる妖怪はむしろ守り神であるように、叶馬の存在が多少寮内に緊張をもたらすのだとしても、他のろくでもない男子をけん制してくれるのならば、むしろいてくれた方が良い。
と、叶馬(と誠一)の存在を歓迎する方向に寮内の空気が変わり始めたところの、静香と麻衣の転寮の話である。
四月の初期ならば大歓迎されただろうが、今ではむしろ「当てが外れた」という意見が多数派を占めるだろう。
「健太君は、叶馬君達と仲良しでしょ? 彼らが白鶴荘に足を運ばなくなったら君はどうする? あ、もちろんこちらとしては健太君が今まで通り白鶴荘にいてくれることを全面的に歓迎するよ」
健太の遠慮深さを理解した四葉は、はっきりと歓迎の意を示した上でそう問いかける。
そこまで言ってもらえれば、健太も素直に希望を口にすることが出来る。
「確かに叶馬達とは仲良くやっていますけど、俺が白鶴荘にお邪魔しているのは、蘭先輩がいるからですから。蘭先輩がいる以上、変わりません。もちろん、白鶴荘の皆さんが許して下さるのでしたら、ですが」
健太の答えに、白鶴荘の寮長はホッと肩の力が抜けるのを実感した。
「うん、そうか。それは良かった。もちろん、こちらとしては大歓迎だよ。君のような将来有望で行儀がい良い男子を歓迎しない理由はない。これだけ連日泊まっているのにシャワーだけでは大変でしょ。これからは、大浴場も使ってくれて構わないよ」
ある意味最良の結果が出たことで、四葉は饒舌になる。
予想外に行儀がよかったとはいえ、それでも恐怖の対象であることは間違いない叶馬が出ていき、強いのに温厚で誠実な健太が残ってくれるのならば、それに越したことはない。
「いえ、流石に俺一人の為に、大浴場を貸し切りにするのは他の皆さんにご迷惑ですから」
「貸し切り? しないよ? 一緒に入ろう。なんなら私が洗ってあげちゃう」
「結構です!」
一年以外の学園女子ならば、今更男子に裸を見られるくらいでガタガタ言う者は少数派だ。四葉の答えをある程度予想していた健太だが、それでもつい羞恥心から声のトーンが高くなる。
「新鮮な反応だね。まあ、無理強いはしないよ。ただ、白鶴荘姉妹は君の大浴場の使用を認めるから、覚えておいてね」
「はい。あの、それ、蘭先輩には言わないで欲しいんですけど」
蘭が聞けば、そのうち大浴場での混浴を提案されそうだ。蘭や他のパートナーとの混浴は魅力的だが、そこに他の寮生がいるのは気まずい。向こうは気にしないかもしれないが、健太は気にする。
そんな健太の願いは残念ながら叶わなかった。
「ごめん。すでに蘭、というか全寮生に通達してある」
健太は思わず顔を引きつらせる。蘭も問題だが、他の上級生の寮生達がさらに厄介だ。これまでも健太がシャワーを使っていたら、嬉々として入ってきたからかう者が多数いたのだ。大浴場の入浴権利などが知られれば、絶対楽し気に引っ張り込もうとする者がいるに違いない。
健太の反応に、四葉は驚きを通り越して感心する。
「君は本当に変わっているね。この学園の男子なら、女子寮の大浴場に入れるとなれば、毎日入り浸るよ。一年でもこの時期ならほぼみんなそっちに染まってると思ったんだけど。まあ、いいや。これがお礼にならないなら、そうだね。
健太君に対する直接的なお礼ではないけど、静香と麻衣が寮を出たら二人部屋が一つ空く。そこを私が寮長権限で確保しておくよ。健太君には蘭以外のパートナーがいるでしょ? 良かったら彼女たちをそこに入居させるとよい」
それは、確かに健太にとっても魅力的な提案だった。
現状、健太がパートナーとのセックスに使えるのは蘭の部屋だけ。それもルームメイトの優梨愛に多大な迷惑をかけている状態だ。
この白鶴荘に、健太のパートナー同士が同室になっている部屋があれば、色々やりやすくなることは確かだ。
「それは、本人たちに確認を取ってからになりますが、そうしていただけるとありがたいです」
そこまで優遇してもらっては、健太としては恐縮するばかりだ。
「気にしない気にしない。こっちにとっては健太君が入り浸ってくれること自体がメリットだからね。まあ、今後とも末永くよろしく頼むよ」
「はい」
笑顔の裏で達成感に酔いしれる四葉の内心など知る由もない健太は、怒られる覚悟の呼び出しで予想外の良い話が聞けて明るい表情を浮かべていた。