バッと音を立てて振り返ると、身をかがめた狐っ子が、あっ……みたいな顔になってピタリと停止した。
僕の目を盗んで部屋の出口に向かおうとしていたようだ。
まぁ、分かるよ。裸エプロンの上に紙袋を被って、どでかい包丁を引きずってるやべー奴が同じ部屋にいたら、逃げたくもなるよね。
でもどうしよう。
変態狐女の意図としては、僕をこの狐っ子の護衛に付けたといったところだろうから、このまま彼女を見逃して一人、部屋の窓際で突っ立っていると、ただの
僕は自分の有用性をアピールしなければならない。その先に何があるのかは分からないけど、有象無象のブッチャーでいるよりは行動の幅が広がるはずだ。目立つのはリスクだけど、大人しく指示にさえ従っていれば、多少変わり者でも、いきなり処分されることもあるまい。
とはいえ、狐っ子を部屋に閉じ込め続けるのも、なんか違う。
……仕方がない。
狐っ子が怯えた目で見つめる中、ドアの前に立ち、おもむろにノブに手をかけて、ひねった。
ガチャリ。ドアが開く。
身を引いて通路を開けた。
どうぞ、と手を送る。
狐っ子は眉をひそめて僕の行動を見守っていたけど、やがて、そろそろと僕の前を通って部屋の外に出た。
僕も後ろについて出る。
はっと驚愕の表情で振り返った狐っ子。
彼女は僕から逃げるように廊下を歩いた。僕もついて歩いた。
狐っ子が足を速める。僕も足を速める。
彼女が下り階段の前で立ち止まり、僕も止まった。
彼女は涙目になってどうしよう……みたいな顔になってオロオロ。
……護衛だからね。
そこから、僕の
僕は彼女の行くところに、どこにでもついて行く。
三階。二階。一階。玄関ホール。リビング。
彼女がリビングのソファーに座れば背後霊のようにしてその後ろに立ち、キッチンでお茶を入れようとすればその後ろに立つ。ついでに狐っ子が手を伸ばしてぴょんぴょん跳ねていれば、かわりに高い棚にある茶葉の入れ物を取ってあげる。ヒア・ユー・アー。
彼女が部屋に戻ってからは、僕が窓際に立って外に睨みを利かせる。すると通りすがりのエイリアン達が、僕の姿を指差してなにかを叫ぶんだ。彼らは楳図かずお風の驚き顔になっていた。
ドアがノックされれば、狐っ子の代わりに僕がドアを開けて出る。そしてほとんどの来訪者は、ドアの向こうから現れる超ド級の変質者を前に腰を抜かす。
時に彼女がトイレに入れば、僕はその外でじっと立って待っている。おかげで狐っ子がトイレにいることも、入っている時間も外から丸わかり。さすがにこれは嫌だったみたいで、頬を膨らませた狐っ子にブッチャーエプロンをぽかぽか叩かれて追い返された。
いい加減に嫌気が差したのか、彼女は廊下を走って僕から逃げようとしたこともあったけど、僕も走ってぴたりと追跡した。見た目によらず、ブッチャーの走力はかなり高い。逃げ切れっこない……はずだったけど、彼女もなかなかすばしっこかった。
まさに狐のような身軽さ。廊下をシタタタタ……。狭い場所をするりするり。僕もつかず離れずの距離を保ったまま、細かい障害物は
僕がドドドドド……と狐っ子を猛追する様子を見かけて、小さな悲鳴を上げて道を開ける使用人たち。
そうやって僕が狐っ子を家中追い回す絵面は、廃館の中に閉じ込められた少女がモンスターから逃げ回る系のパニック映画そのもの。
雷雨の日があったんだけど、その日は特に大変な騒ぎになった。
雷鳴と共に突如として現れる僕を見て気を失った気の弱い使用人が続出したんだ。途中から斥候の経験を活かして気配を消しながら狐っ子を追跡していたから、そういった悲劇が起こった。
シャワールームで狐っ子が出てくるのを待っていたら、シャッという音ともに向こうから現れたのは知らない女で、突然のブッチャーの出現を前に彼女が卒倒してしまうという事件もあった。
慌てて腕で受け止めたその女が、なんともいえないナイスバディだったせいで、うっかりレイプしそうになって危なかった。
狐っ子がいつの間にか、すり替わっていたんだ。その時だけは狐っ子が、にひひ……と僕を小馬鹿にする笑みを浮かべて遠くから覗いていた。一杯食わされた。くそう。
数日間は、この屋敷全体がそんなホラーだった。
狐っ子はそれでも、外へは出て行かなかった。
狙われていること自体は分かっているみたいだ。賢明だね。
そんな生活が、なんと三日も続いた。
実は僕、一日の睡眠時間が極端に少なく、はっきり言って何日でも起きていられる。たまーに、突っ立ったまま一時間もぼーっとしていればそれで大丈夫。目を閉じる必要もない。っていうか
だから狐っ子が寝る時も、僕は趣味の悪い置物と化して、ベッドの隣でつっ立って不寝番をした。
彼女は、比喩ではなく、三日三晩うなされていた。
可哀想。さすがに同情を禁じ得ない。
そして四日目の夜のリビング。目に
頑張れ狐っ子。僕も早く帰って
そろそろ僕の性欲も我慢ギリギリのラインに来ている。
あの狐女、やっぱりブッチャーにあまり詳しくないと見える。一旦施設に戻してもらうか、あるいは誰かをあてがってくれないと、このままだと僕、君も、狐っ子も、この家の狐の耳を付けた人、全員もれなく犯し、殺し、食らっちゃうよ?
変態狐女が指を立てて何かを得意げに語り、それを見た狐っ子が、ガーンと唖然となって、がっくりと
その頭を上げた。
血の匂いを感じたからだ。
ブッチャーは血の匂いにやけに敏感。匂いの元を探して頭を巡らせていると、変態狐女も何かを感じ取ったようで、狐っ子を背中に
外の様子を窺おうとして、一階リビングの窓に立つ。
低い位置に浮かぶ夜空の星がキラッと強く光って見えたのと、僕の視界が流れたのはほとんど同時だった。
次いで後頭部と背中に強い衝撃を感じた。頭を振られて仰向けに倒れたんだ。
原因は分かってる。
頭部を狙撃された。おでこがジンジンする。
そこでようやくタァーーーン……という音が届いた。
ブッチャーをヘッドショット一発で倒すのはとても難しい。僕も昔狙撃をしていたから分かる。あいつら、頭が尋常でなく硬いとされ、狙撃兵はみんなブッチャーを怖れていた。
でもそれは半分誤解なんだ。主な原因はこの紙袋だ。ブッチャーバックがえらく硬い。僕はそれを偶然見抜いたことがある。
狙いをはずした弾がブッチャーの紙袋を弾き飛ばし、至近距離まで詰められた僕が、慌てて次弾をどたまにぶち込んだらブッチャーはあっさり
紙袋はブッチャーの制式ヘルメットだったことに、その時気が付いた。だから、まず紙袋を飛ばしてから、
紙袋を飛ばすのが恐ろしく難しい上に、ブッチャーを正面に引き付けないといけない地獄の一発勝負だけど、狙撃兵がブッチャーを仕留める唯一の方法だった。
僕が開発したそんな狙撃法は、所属したフォックスチームに受け継がれているはずだから、この狙撃はフォックスじゃない。この襲撃は少数
あんな遠距離からブッチャーバッグに撃ち込むなんて、ど素人丸出し。激戦区に出たことがない証拠だ。僕なら肩を撃って少しでもブッチャーの戦闘力を削ぐ。
そんな分析をしつつ、床に寝そべったまま死んだふりをする。狐っ子が僕を指差して何か言っていた。一方の狐女は大声を出して狐っ子に何か指示を飛ばしていた。
直後、部屋の窓が一斉に
黒い影が幾つもそこから
全部で四つ。狐女を囲んだ配置。教科書通りだ。
襲撃犯が床に着地して銃を構える。その直前、狐女の目が妖しく光った。
狐女の腕が左から右へと、さぁっと空気を撫でると、襲撃犯四名の身体がズタズタに切り裂かれて血しぶきが散った。無数の
ふむふむ。これが変態狐女の力か。確かに強い。魔法触媒をどこかに隠しているのだろうけど、鮮やかなお手並みだった。僕もあれだけ一斉にカマイタチで切り裂かれたら結構痛いだろう。
ブッチャーを怖れないエイリアンの実力者とは、どれほどのものなのか測ってみようと思いついたから、死んだふりをしてみたけど、いい収穫だった。ああいう感じなのか。タイマンなら僕が圧倒するな。
さて……ここからの流れも分かる。後詰めの小隊が突入してくるはずだ。
案の定、部屋の二方向から二人ずつ突入してきた。
奥側の二人が先に狐女に殺到した。狐女の注意がそちらに向く。
先ほどの力は連続では使えないのか、彼女は格闘で侵入者の相手をし始めた。
すごいな。カンフー映画みたい。そして強い。近接格闘術を叩き込まれた特殊部隊二人を相手に一人で立ち向かえるなんて。
別の二人が、逆の入り口で隠れて待機していた。時間差で飛び込んで狐女の背後を取るか、あるいは狐っ子を仕留める気だ。
残念ながら、死んだふりをしている僕からは丸見えだよ。
遊んでないで、そろそろ仕事するか。